絶望の海で溺れて、
快楽の夢で遊ぶ

















【 第8章 / 中等部2年・冬 / 喜劇 】









 イザークを、莫迦だなと思ったのは。
 後にも先にも、あの一度きりだ。
 あのときだけは、一種崇拝のような気持ちで見ていたはずのイザークのことを、俺はほんとうに莫迦だと思った。こんな俺なんかにつけ込まれてしまうなんて、なんて莫迦なんだろう、と。
 もちろん、そんな莫迦なイザークの行為を受け入れてしまった俺は、それ以上の莫迦と云えるのだけれども。

 だけど、イザークから差し伸べられた手を、振り切ることなんて。そのときの、錯乱状態に居た俺には、できやしなかったんだ。





















 ―――絶望は。
 時を選ばずにやって来るのだと、改めて思い知って、俺はどうすることもできずに膝を抱え頭を抱え、暗い部屋に閉じ籠っていた。
 夕闇の中にほんの僅か残った光を、部屋のカーテンは遮断してはいなかったけれど、それは俺の心を照らすまでには至らず、部屋の中は真実真っ暗闇と云えた。
 母の告別式のための一時帰宅とは云え、自分の部屋の中ならもっと落ち着いても良いものをと自分でも思うのだけれど。一度与えられた途方も無い絶望は、これしきで癒されるものではなかった。

 ―――そう、絶望は、喪失感を引き連れて俺に襲いかかった。

 それは俺がすこし、ほんのすこしだけ外へ向けて開きかけていた扉を、凄まじい勢いでもって喰い破り、無遠慮に侵入して嵐のように引っ掻き回すだけ引っ掻き回したかと思うと、手当たり次第そこらじゅうのものを奪い去って行った。
 後に遺されたのは、修復不可能なほど荒らされた俺のこころと喪失感だけ。

 ……ほんとうに俺は、喪ってばかりだ。

 俺に突如として訪れた絶望は、しかし同じように父にも齎された。とは云え当事者かそうでないかの違いがあったので、多分受け取り方は異なっていたけれど、それでもきっと気持ちは通じていたはずだと思う。
 だから、俺は。こんなときくらい、父も何かを云ってくれるんじゃないかと期待して。
 けれど口を真一文字に引き結んだまま、開いてはくれなかった父に、ああ俺は父も喪ってしまったんだなとぼんやりと思った。
 そうだ、忘れたわけじゃない。
 母さんは、俺の目の前で喪われたのだ。母さんは俺の間近に確かに居たのに、俺は何もできなくて。そして俺は助かって。
 俺とはあまり会話のすくなかった父は、けれど確かに母を愛していたから、俺が憎いのだろう。だから俺の元に降り掛かった絶望は、恐らく父にとっては正当なものに感じるのだろう。

 ―――とすれば、これは罰か。

 母をただ見殺しにし、あまつさえそれを俺の所為ではなかったのだと責任転嫁してしまったことに対する、これは罰だろうか。
 ならば俺はその罰を、甘んじて受けるべきなのか。でも、俺がこの罰を受け入れたとして、そうしたら。


(……―――イザーク……)


 折角取り戻したと思った彼さえ、俺はふたたび喪うことになってしまう。
 それが悔しくて哀しくて、けれど恐らく俺にはそんなふうに思う権利すら赦されてはいないんだろうと思って。こんな俺が何かを望むこと自体が悪いことなのに、全然割り切ることができない。
 もういっそ、此処で俺の総てを終わらせてしまった方が、良いのかも知れない。
 俺なりに、本気でそう考えたのに。
 すぐにでも実行に移すべく決意に上げた視界に、なのに今になって、眩いほどのひかり が
 圧倒的な勢いでもって、絶望に荒れ果てたはずの奥底まで差し込んだから。


「……アスラン?」
「イザー、ク……」


 真の暗闇に墜ち込んでいたはずの空間は、イザークの登場により一瞬にしてただの夕闇に暮れた部屋に戻った。


「寝てなかったのか。灯りも点けないで、何を……」
「イザーク」
「ああ、何だ。どうした?」
「イザーク……」


 俺がそっと伸ばして手に気付いて、ドアを後ろ手に閉めたイザークの声はとてもとても優しかったけれど、俺は顔を上げることができずにいた。ただ、莫迦みたいに名前を呼びつづけるだけ。
 諦めなければならないと心に決めた瞬間に、その決意を鈍らせるかのように俺の前に舞い降りた希望を、信じきれずにただ確かめようとするだけ。


「イザークイザークイザーク」
「ああ……アスラン」


 名前を
 呼ばれただけなのに、それがたまらなく嬉しくて
 俺は無意識に両手を拡げ、其の腕を伸ばし、近付いて来たイザークに縋った。
 ―――イザークも。其処で振り切れば、若しくは背中でも叩いて適当に宥めるだけに留まれば良かったのに。

 如何して、抱き締め返したりなんか


「―――どうしよう、イザーク」
「どうした。何か、在ったのか?」
「……どうしよう……」


 此処で、きみに伝えて良いものなのかどうか、それも判らない。
 けれどイザークの温もりが、香りが、力強さが、ただただ恋しくて。ずっと触れることはなかった、しかしあのころのままだったら感じられないままだったであろう熱が、俺を掻き立てるものだから。


「ひとりは、厭だ……」


 何時からか願いを吐露することはなくなった俺が、幼い頃以来で一度だけ呟いた、本音を。


「厭なんだ……」


 如何して俺ばかりが、こんな想いをしなきゃいけないんだろう。俺はただイザークと一緒に日々を過ごして、一緒に成長して、大人になったらそれぞれに良い人でも見つけて、イザークが結婚なんてことになったらきっと俺は影で泣くけど、でもこんな風に変に拗れなければきっと祝福できたはずで、そうやってただ普通に生きたかっただけだったのに。
 別に自分を選ばれた特別な人間だなんて思ったわけじゃないし、悲劇に浸るのなんか真っ平御免だけど、それでもさすがに此れは、酷すぎるんじゃないだろうか。
 だって、あまりにも。あまりにも


「―――大丈夫だ、アスラン。俺がずっと、側に居るから」


 俺に舞い降りた絶望は、イザークから差し伸べられた手でさえ悲劇にしてしまうのだから。