瞼の下に広がる世界は、
ああこんなにも俺に優しいのに

















【 第9章 / 高等部2年・春 / 真実 】









 妙に柔らかいな、というのがまず最初の感想だった。
 後はもう、寒いな、というのと。
 二割ほど浮上しかけた意識で、周囲に散らばっているのであろう布団をかき集めようとした腕が、何かに触れる。
 柔らかいようでいて、固い。冷えているようでいて、あたたかい。
 何だろうと思い目を閉じたままふにふにと手を動かして、そこで俺ははたと我に返った。
 こんなにぱっちり目が覚めるなんて我ながら珍しい。とか、思っている場合でもなくて。


「イイイイイイイイザーク!?」


 思わず引き寄せたブランケットはたった一枚きりで、そのまま布団に埋もれようとした作戦はあっさりと失敗に終わる。
 しかも本気で一体どういう状況だったのか、その一枚の薄手のブランケットを分け合っていたらしいイザークが不機嫌そうに眉を寄せた。


(な、何事……)


 視線を彷徨わせるまでもなく、テーブルを挟んだ向かい側にはオルガが突っ伏している。その前に空になった焼酎の瓶が転がっているのを呆れた気分で確認していると、不意に頬に冷たいものが触れた。


「……アスラン……」
「イ、 イザーク?」


 何だと云うのか。
 ひんやりとしたそれはイザークの指だった。
 イザークの意外にがっしりとした指が、俺の頬を這っている。それは撫でると云うほど密着してはおらず、かと云って触れるというほど離れてもいない。もどかしい距離感だった。


「熱、は……ないようだな」
「あ、う、うん……?」


 寝ぼけているのかと思っていたイザークの声は、しかしはっきりと覚醒した意識が感じられる。
 ……なんだろう。寝ぼけてでもいない限り、イザークがこんなに優しく俺に触れることなんてないと思っていたけれど。
と、云うか。俺は昨夜どうしたんだっけ?


「あ、の……」
「うん?」
「……悪かったな、もう大丈夫だから」


 状況が良く判らなくて、けれどこのままイザークの手が俺の頬に置かれたままなら落ち着いて考えられるはずもない。さり気なさを装って離れた指は、しかし何か戸惑ったように揺れたあとすぐに俺を追い掛けて来た。


(え……)


 視界の間近に映り込んだ指から、腕を辿って顔へ。滑らせた視線の終着点には、何故か、イザークの辛そうに歪んだ表情がある。


(え……?)


「……顔色が悪い」


 耐えるように潜められた眉。押しつぶしたような声音。そんなイザークの態度を認識するなり、俺の脳は急速に冷めて行き、漸く今の状況を悟った。
 ああ、そうか。きっと、イザークは


「そう、かな。あ、昨日慌ただしくて朝から何も食べてなかったから、それでじゃないか?」


 ああしまった、これではすこし厭味っぽかったかも知れない。まるでイザークの来訪を責めているかのようだ。それに、無理に話題を逸らせようとしているのもきっと丸判りだろう。


「……そうか、そんな暇なかったよな。今は何か食べられそうか?」


 案の定、イザークは詰まったように僅かに動きを止めて、しかしすぐに取り繕うような声を出した。
 ああ全く、厭な展開だ。


「……判らない。吐く、かも」
「それでも良い。とりあえず何か胃に入れないとな。ちょっと待ってろ」


 厭だ厭だ。ほんとうに厭だ。
 イザークがこんなに俺に優しいなんて本気で一体いつぶりだろうってくらいなのに、その久々に耳に触れる心地よさは嬉しいと思うのに、でも俺は厭なんだ。
 昨夜俺が倒れた後、一体何が起きたか。それは判らないにしても、イザークはきっと、俺がこんなふうに、今でも発作を起こすほどだなんて思っていなかったのだろう。だって小さい頃は、ずっと、「大きくなったら治る」と云われていたんだから。
 それを良く知っていたイザークは、昨日の俺の発作にすくなからず驚いたのだろう。そして、昔の庇護欲のようなものが甦ってしまったのだろう。
 ……そうだろうと思っていた。俺の今の状態を知ったら、情に厚いイザークは俺のことを放っておけないだろうという予感はしていた。だから俺は、そんなことでイザークの時間をまた邪魔したらいけないと思って、必死に隠しつづけてきたのに。

 それに、何よりも


「……朝食、イザークがつくってくれるのか?」
「ああ、当たり前だ。勝手にキッチン借りるぞ。お前は大人しくしてろよ」


 ―――何よりも。

 どうせ俺は、どんな覚悟をしたって、実際にイザークからまた手を伸ばされたら振り切ることなんてできやしないんだ。
 もう、こんな、家族愛のようなぬるま湯の優しさなんて
 絶対に、欲しくなかったと思うのに


「……ゲロ甘」
「―――オルガ?」


 いつの間にか。
 目を覚ましていたらしいオルガが、しかしテーブルに突っ伏したままの体勢で視線だけをイザークが消えたキッチンの方へと向けていた。


「お前ら、今俺が居ることすっかり忘れてただろ」


 ものすごく呆れたような声で云われて、思わず詰まる。


「い、いや……そんなことは……」
「変に気遣われた方が気持ち悪ぃから良いけど」
「う″、」
「それより俺、王子のあんな甘ったるい声初めて聞いちまったもんだから、あまりの衝撃に今脳内整理中。突っ込みたいコトはいっぱいあんだけど、ちょっと待ってくれ」
「……ああ、大丈夫だ。俺も同じだから」
「……それはどうなんだよ」


 思いっきり眉を顰められたが、そんなオルガの態度に居たたまれない想いを味わっている場合ではなかった。
 そう、俺は今正にオルガの云った通り。
 妙に俺に優しいイザークに戸惑っている真っ最中なのだ。
 いや、イザークはそりゃ昔は俺には優しかったけれど、最近はそんなことはなく、寧ろ冷たかったのに何てことだろう。しかも何と云うか、何となくではあるが、昔の優しさとは何処かが違う気がする。オルガがゲロ甘と変な表現をした通り、妙な甘さが在ると云うか。しかし昔のイザークも俺には甘いと散々ディアッカに云われた気がするし、いやでもその甘さとも何か違うと云うか。
上手く表現できない。
 ただ確かなのは、とりあえず俺は戸惑いまくってて落ち着いて考えられないということだ。
 俺の発作がイザークの中でどう変換されたかは何となく判るのだが、それにしては態度があまりにも変わりすぎじゃないだろうか。
 しかもアレだ、落ち着いて考えようとすればするほど昨夜の記憶がはっきりと甦ってくるわけだが、昨夜のイザークの不機嫌バロメータはマックスだったような気がするんだけども。


「……なぁ、オルガ」
「何だよ?」
「お前、昨夜イザークと何か話したか?」
「さぁ」
「さぁって……」


 俺の記憶が確かなら、昨夜のイザークは何やら怒っていたはずだし、しかも俺はイザークに捨て台詞を吐いた気がするので、残る可能性としてはオルガがイザークに何か話したとしか思えないのだが。
 そんな俺の予想に反し、オルガは彼自身も良く判っていない様子で首を傾げた。その表情に偽りはなさそうなので、誤摩化そうとしているわけではないらしい。
 発作を起こしてしまった俺が云えた義理ではないが、イザークとオルガが夜ふたりきりだったということは、何かしら諍いがあっても不思議じゃないと思うのだけれど。そしてその場合、イザークの機嫌は更に悪くなっているはずだと思うのだけれど、そんなことはなかった。上機嫌とまでは行かないが、俺を気遣って来るあたり不機嫌ということはなさそうだ。

 一体俺が倒れてから、何が在ったと云うのだろう。

 別にオルガがイザークに何を云ったって構わないけれど、まさか仲良く打ち解けるわけはないと思うし、イザークの変化の理由とは関係ないのだろうか。


「俺も酔ってたしなぁ」
「ふうん……?」


 話したのなら、覚えている限りで良いからその内容が知りたいんだけど、聞いても同じように「酔ってたから」で片付けられてしまいそうな気がする。
 ここは敢えて突っ込むべきかどうか迷っていると、同じように首を傾げていたオルガが何かに気付いたように顔を上げ、姿勢を正して俺の顔を覗き込んで来た。


「つーかお前、もう大丈夫なのか?」
「あ、ああ。もうすっかり平気だ。迷惑掛けたな」
「いや、それは別に。覚えてないかも知んねーけど、お前平気だって云い張るから。とりあえず薬飲ませて横にさせてただけだし、それで良くなったなら良いけどな」


 ちょいちょいと指で示されたので、疑問符を浮かべつつもその指示に従い、身体をソファに預けたまま顔を近づける。するとオルガも身を乗り出して来て、おでこをおでこでこつんとやられた。
 ……何だろうかこれは。


「ん、平気そうだな。てか、寧ろ体温低くね?」


 ああなるほど熱を計ったのかと漸く判明したが、オルガはその体勢のまま離れない。
 本気で何だと云うのか。


「えー……と。寝起きだから?」
「今適当に答えただろ。絶対貧血だって」
「そうか? でも別に何ともないぞ?」
「そりゃ動いてないしな。急に立ち上がったりするなよ。絶対倒れるから」
「そんなことは……」
「―――何をしている」


 ない。と云いかけたところで、その合間を縫ってものすごい重低音が聴こえた。
 その迫力に思わずくっつけたままだった額をぱっと離してしまったが、オルガは全く動かないままだ。


「何って、熱ないか見てただけだけど?」
「それは俺が済ませた。とっくにな」


 低い。こんなイザークの低い声は初めて聴いた。
 怒ってるのかな、と思ったがイザークが何をそんなに怒ることがあるのか判らない。もし今俺に熱があったら寝てろとか云って怒られそうな気はするのだが、なかったのだし。
 しかも対峙するオルガは非常に愉しそうだ。俺はもうびくびくしてイザークの方を見れもしないのに、何故オルガはこんなにも強気なのだろうか。なんて羨ましい。


「おい、アスラン」
「は、はい」


 そのままのトーンで名前を呼ばれて、思わず居住まいを正してしまった。
 向かいに居るオルガが吹き出したのが判ったが、俺ではなくイザークの方を見たままだ。一体イザークが今どんな状態でいると云うのか。呼ばれたくせに怖くてイザークの方を向けない。


「……スープなら食べられるよな?」


 しかし、予想に反しイザークはとても優しい声で話し掛けて来た。
 虚を衝かれて一瞬詰まってしまったが、云われた内容を理解してすぐに御礼をしようと俺はイザークの方を見た。が、開きかけた口はすぐ遮られてしまう。


「あ、ソレ俺が買って来てやったヤツだ」
「……ほぉ」


 俺より先に成されたオルガの返答に、またイザークの声が低くなる。何故。
 意味が判らない限り、触らぬ神に祟りなし。とりあえず御礼だけを云っておくことにした。


「……あの、イザーク。ありがとう」
「気にするな。薬飲むんだから何か腹に入れないとな」
「なぁ王子、俺の分はー?」


 オルガに云われて気がついたが、確かにイザークが持って来たトレイの上にはスープボールの他にマグカップが二つだけしか乗せられていない。そしてイザークは俺の前にスープボールとマグカップを起き、残った一つのマグカップを当然自分で抱え込んだ。
 うわぁ、と思い何も突っ込めずにいると、イザークがオルガを鼻で笑ったのが判った。


「貴様は勝手にやってろ」
「すげぇ判りやすいよなアンタ」


 確かに。さすがの俺にも判った。
 この二人の仲の悪さは異常だ。
 まぁ昨日イザークに云われたことを思えば、オルガがイザークに良い印象を持てないのは当然だろうとは思う。
 ぱっと見ではイザークの方がオルガに意地悪をしている感じがするが、オルガの態度も相当だ。イザークのイライラスイッチを素晴らしいほど的確に刺激している。
 一方イザークについて云えば、そう云えば随分前のことだが、俺はイザークにオルガと付き合ってるとか云った気がする。
 それはオルガと俺が一緒に居ることが不自然に思われないための方便でしかなかったわけだが、まさかイザークの中ではまだ有効なんだろうか。
 そう云えばつい最近まですっかり信じ込んでいたみたいだったし……いや、その方が俺は助かっていたはずなんだけど。でもオルガが、母さんを殺した奴の息子だと判ったからには、さすがに嘘だと気付いただろうと勝手に踏んでいた。
 だが、友情とも同情ともつかない気持ちで、ただ同じ情報を共有しているというだけで一緒に居るこの気持ちは、当事者ではないイザークには理解し難い感情だろうとも思う。そうすると、付き合っているというような意味合いの方が信じやすいのかも知れず、つまりイザークの中では俺とオルガはカップルということになっているのかも知れない。
 俺がイザークの前で発作を起こしたことで、またイザークの中での俺がほんのすこしでも”守ってやらなければならない幼馴染”に分類されてしまったとしたら、オルガは俺を誑かす悪い存在、ということになるのだろうか。
 ……それはそれで、嬉しいような哀しいような複雑な気分だけれども。


「まぁ勝手にやってろよ。俺はシャワー借りるぜ」
「あ、ああ……そう云えばもうこんな時間か。急がないとな」


 俺がそう云った瞬間、立ち上がりかけたオルガがはたと止まり、イザークに至っては手にしていたカップをゴトン、と落としていた。別に中身は零れていなかったが、一体何事だろうか。
 ややあって、ふたりが同時にぎぎぎと首を動かす。
 オイル切れの機械のような動きだなぁ、とか悠長なことを思っていたが、その動きが俺を見据えたところで急に止まれば怖くもなるというものだ。


「「……は?」」
「え?」


 しかも同時に不思議そうに呟かれた。実は気が合うんじゃなかろうかとか口に出すには、二人の表情が怖いので何も云えない。


「まさかお前、学校行く気?」
「まさかって……当たり前だろ。今日火曜だぞ?」
「なッ……莫迦かお前は!」
「莫迦ってなんだよ」


 む、と唇を引き結べば、イザークとオルガが二人揃ってものすごい勢いで突っかかって来る。本気で意味が判らない。


「莫迦も莫迦、大莫迦だ。お前、発作起こしたばかりだろうが!」


 いくら人に結構ずばずば云う性質のイザークとは云え、そんなに莫迦バカ連呼しなくたって良いのに。オルガまでイザークの勢いに便乗して、うんうんと力強く頷いている。


「でも寝ただけで治るくらい軽いやつだったからもう平気だし、そうそう休むわけにはいかないし」
「別に出席日数は問題ないだろ? 今日は休んでおけって」
「そうだ。サブナックに同意するのは甚だ不本意だが、こればかりは仕方ない。大事を取って、今日は休め」
「それはお互い様ってもんだろ、王子。アスランお前、昨日疲れたんだって。ちゃんとベッドで休んだ方が良い」
「何だよふたりして……平気だってば」
「「駄目だ」」


 言葉だけじゃなく、肩を抑えられてまでして反論された。
 ほんとうに平気なのに。しかも云われれば云われるほど、学校に行きたいような気になってくる。
 元より俺は、別に皆勤を目指しているわけではないにしても学校はなるべく休みたくない方だ。この通りいつ発作が起きても奇妙しくない身体なので、通えるうちに学校に通っておくようにしている。
 まぁ、無理して行ったところで他の生徒みたいに愉しい学校生活が待っているわけではなく、ただ気付かれないようにイザークを意識で追っているだけの虚しい日々だけれども。それでも俺にとってはニコルも居てくれるし充分に充実していると思うから、微熱程度なら多少無理をおしてでも登校していた。
 だから昨夜発作が起きたくらい、治まった今はほんとうに何てことないのに休むだなんて勿体無い。


「……ふたりは急がなくて良いのか?」
「「は?」」
「だって制服も荷物も無いだろ? 一度家戻ったとして、この時間ならまだギリギリ間に合うかと思うけど……」


 首を傾げた俺に、イザークもオルガも言葉ではなくものすごく表情を歪めることで答えてくれた。何とも云い難い表情のまま言葉を探している様子だったが、先に口を開いたのはオルガだった。


「何云っちゃってんのお前」
「全くだ。俺も休むに決まっているだろう」
「は? 何で」
「「何でって……」」


 そこでイザークとオルガはふと顔を見合わせた。やっぱり気が合いそうだと思った瞬間、ふたりして向き合いながら厭っそうに顔を歪める。どっちなんだ、一体。
 そして妙な間が空いた後、どうにか取り繕った表情で揃って俺を見下ろしてきた。


「お前の看病するために決まってるだろうが」
「そーそ。あと俺、あんまり寝てないし」
「え、良いよそんなの。もう全然平気だし。それと、寝るなら帰った方が……」


 落ち着けるのでは、と。
 普段ならそんなことは云わず好きにここのソファなり客間なりを使ってくれと貸すところだが、今日ばかりは俺も譲れない。しかし、俺のいつもの対応に慣れているオルガはさすがに不審を感じたようだった。


「別に泊まるのなんか今更だろ? 何をそんなに……」
「―――そうか、読めたぞ。アスランお前、俺たちを追い出した後にこっそり準備して学校行くつもりだろう」
「う、」


 昔取った杵柄とでも云おうか、イザークにはすっかりお見通しだった。
 オルガも、まだ俺は答えていないのにそれが正解だと信じ切ったらしく、ものすごい呆れ果てた表情をしている。


「……いや、連絡入れるのも面倒くさいし、また発作起きたとしても家に居るよりはかえって人に気付いてもらえるし、それに眠いのはもう授業中に解消すれば良いかな、とか」
「「…………」」
「思ったり、とか」


 まずい。
 反応がない。
 と云うか俺はそんなに変なコトを云っただろうか。いや、云ってないだろう。思わず反語で自分自身の頭の中と会話してしまうほどに、厭な感じの無言の時間がつづいている。
 いい加減気まずいような気がしてフと見上げた視線の先、ふたりが真顔で俺を見下ろしていた。怖い。


「……王子、云ってやって」
「莫迦かお前は」


 やっと口を開いたかと思ったらまたソレか。しかもオルガはイザークに云わせる辺り、俺がイザークに弱いことを判った上でやっているに違いない。


「……何故」
「何故と来た」


 はー、とオルガにまで深いふかい溜め息を吐かれる。
 そろそろ折れてくれても良い頃だと思うのだが、ふたりともそんな素振りは全く見せてくれない。何て強情な。


「だって俺、元気なのに……」


 そう云った瞬間、オルガの「あァ?」というドスの効いた声が響いた。なかなか、人を脅すのに向いている声だ。
 無言でいられるよりはずっと怖くなかったし、そんな声に今更ビビるようなタマでも無かったので俺も眉を顰めることで反抗を示してみる。


「何処がだよ」
「え、全部?」
「あのな、鏡見てみろ鏡。真っ青だから」
「そんなことないだろう」
「ンなことあるんだって」


 ムッとして、そこまで云うなら見てやろうじゃないかと立ち上がりかけた瞬間。目の前の視界がザンッ、とぶれて、気付いたらカーペットが視界を埋め尽くしていた。


「あれ?」


 ぐるり、血流が身体を駆け巡る感覚が瞬時に俺を襲う。
 それは発作に比べたら苦しいわけでもなんでもなく、寧ろ心地良いとさえ思える感覚だったからそのままの体勢で居ようとしたのだが、すかさず腕を両側から引っ張られた。


「うわ、」
「ったく、急に立つから……」
「……やっぱり莫迦だったじゃないか」


 無言のまま俺とオルガの遣り取りを見守っていたらしいイザークが、オルガと協力して起こした俺の身体をそのまま自分の方に引っ張った。遣り過ごした方が楽なのに起こされてしまったので頭の中が一瞬ぐわんとする。が、その衝動を今度こそ遣り過ごした後で、はたと気付いた。
 何と云うか、いつの間にか、俺はイザークに寄りかかった体勢になっていた。


(……うん………?)


 何だ、この状況。
 しかも説明も無いままに、そのまま膝の下に手を差し入れられ抱き上げられる。つまりはそう、横抱きで。


「ぎゃッ、」
「大人しくしてろ。部屋はどっちだ?」
「へ?」
「ベッドで横になった方が休めるだろう。夜の間は見ておけるからそのまま寝かせたおいたが、ずっとソファだと身体を冷やすし」
「いや、別にそんなことはないんじゃないかと」
「で、どっちだ?」
「え、えっと、リビング出て左……?」


 迫力に負けて思わず答えてしまったが、イザークはよし、と満足そうに頷いて立ち上がった。そりゃ確かに平均よりは軽い体重とは云え、ここまで軽々しく持ち上げられるとちょっとショックだ。
 と云うか、単なる立ち眩みだから歩けると呟いたのだが、それは上からじろりとひと睨み効かされてあっさりと無かったことにされた。横に視線を巡らせると、何ともにやにやとしたオルガが俺を見ている。
 とりあえず睨んでみるが、あまり効果はなさそうだ。しかもコレはまさか、昨夜も俺はこうやってソファまで運ばれたとでも云うのだろうか。いや、恐ろしいので考えるのは止そう。


「よっしゃ、じゃあ俺はシャワー浴びて来るか」
「ああ、好きにしてろ。全然、全く、ゆっくりしてくれてて構わないから」
「……へーへー。あ、王子客間とソファどっちが良い?」
「コイツの部屋にちかいのは?」
「あんま変わんねーけど。来やすいのはリビングじゃね?」
「じゃ、ソレで」
「うわぁ、甘」
「良いからとっとと行け」


 その上勝手にイザークとオルガの中で会話が成立していた。ここ俺の家なんだけど……と一応小声で呟いてはみたが、やはりと云うか何と云うか、全く効果はないようだった。
 まぁ、仕方ない。ここまでふたりに云われてしまったら、今日はさすがに休むしかないだろう。
 そう諦めてみれば確かに、ものすごく怠い身体を感じた。いつもにも増して食べていない所為の貧血と、寝不足と。それから、間違いなく気疲れがあったのだろう。
 まだ終わったわけではないけれど、それでもそう云えば昨日の段階である程度、俺とオルガの苦悩は一段落したはずなのだ。
 その後から今にかけて、また色々と起きた所為で全く実感は湧いていなかったけれど。
 そうだ、そう―――とりあえず俺は、気にかかっていたことのひとつ、いやふたつの件を片付けることができたらしい。要は母の事件と、イザークにオルガとの関係を話すことと。尤も、後者に関しては更に問題は山積みになってしまったけれども。それでも、頭の中でそう整理すると幾分か気が軽くなるのを感じた。
 半ば無意識に入れていたらしい力を抜くと、イザークがぎゅ、っと更に自分の方へ俺の身体を押し付けて支えてくれる。
 重かったかな、という気遣いは、しかし、間近に触れたイザークの胸元に掻き消された。


(ああイザークの……匂いだ)


 あのときと、変わらない。
 不思議と落ち着くその薫りに、俺は意識を閉じるふりをして、イザークの胸元に顔を埋めた。