だけど知っている。知っているさ。
俺には絶望さえ赦されない。






















 無言だった。
 だれも彼もが口を閉ざした、完全な無言が場を支配していた。
 けれど無言と沈黙とは違うものだ。そんな空気の中に放り出された俺は場違いながらにそう思った。
 先程まで、俺とオルガの間の距離を占めていたのは沈黙の方だった。ただ空気の中をふらふらとたゆたう、そんなイメージ。だけど今、俺たち三人の間に在るのは間違い無く無言であると俺は思う。云いたいことが、在る。表情が、色々なことを物語っている。だけど誰一人として口を開こうとしない。
 ひとつの外灯の光の中に、たくさんの言葉たちが渦を巻いて、捕え様の無い混沌を生み出している。
 俺は大分経ってから、漸くその中からいくつかの言葉を拾い上げた。さすがにこの場面では、まず一番に口を開くべきは俺だと、変な判断を(それでも俺にとっては冷静に)下したからだ。


「イザーク……何で、ここ、」
「……小父さんに聞いた」
「父上に……?」
「そう、邪魔だったみたいだがな」


 クッ、と喉の奥を鳴らしたイザークに、久しぶりにこんなイザークを見た、と思って。……なんだか俺は、冷水を浴びせられたような心地がした。最近、キラのグループにむりやり入れられてから、どちらかと云うと穏やかで優しげなイザークにばかり遭遇していたような気がして、ちょっと嬉しかったんだけど。こんな厭味っぽいイザークは、そう、まるでついこの間まで、他人のように振る舞っていた頃の……


「何か、用でも?」


 それでも、イザークがそれを望むなら、俺もそうするまで。俺の意思はそうやってできている。俺がイザークのそんな態度を心の底でどう感じるのか、だなんて、そんなことはどうだって良いんだ。俺はイザークの意思をできるだけ忠実に読み取って、その通りに動けば良い。
 けれど、気を取り直したそんな俺の対応に、イザークは更に機嫌を悪くさせたようだった。


「ちょっと、伝言をな。ついでに貴様の様子を見にきた」


 呼び方が“貴様”に戻っている。そんな些細かも知れないひとつひとつ気にしてしまう俺はやっぱり切り棄てられてなんかいなくて、情けないと思った。
 けれど、実際、不機嫌な様子のイザークにあれ、と思う。俺はイザークの望むことを悟り、そのままに動かなければならないのに、イザークの思惑が全く読めない。俺が今まで何とか奥に潜むものを読み取っていた貌さえ無表情だったのに、今のこの貌は何だろうか。能面、仮面、それさえ生温い。


「様子って……」
「貴様、今日は裁判だっただろう? レノア小母さんを殺した奴の」
「ちょッ、イザーク!」
「なんだ?」


 慌てた俺に、イザークは不遜とも云える笑顔で首を傾げた。疑問符なのに、表情は自信に満ちている。
 何だろう、と俺は思った。
 何なんだろう。何か、とんでもないことになっている気がする。
 静かな空間へ走る細い亀裂。それは小さく、しかし鋭く。
 不穏だ、と俺は思った。不穏な出来事が起こる気配。俺が良く慣れ親しんでいるはずの。
 斜め後ろの気配の方も気になって、余計に慌ててしまう。いくらオルガが総てを受け入れたと云ったって、そこに辿り着くまでにはたくさんの葛藤と覚悟を乗り越えてきたはずで、俺にとってイザークが総てであっても、オルガにとっては当然そうじゃないだろう。そのくらい、判っている。
 けれど思わず仰ぎ見た視線の先、オルガは思ったよりも平坦な表情をしていた。と云うよりは、完全の蚊帳の外で他人顔をして俺とイザークを気にしていないようだ。それが全くオルガらしくて、俺は固まらせかけていた胸をすこし撫で下ろした。もしかしたらオルガは、俺がそんなオルガを求めていることを察してくれたのかも知れないけれど。


「一応、気になってたんだ。これでもな。だが貴様はすぐに切り換えてこれからお楽しみなようだが」
「イザーク……?」


 こんな、こんなイザークは知らない。
 ちょっと前まで、単なるクラスメートとして振る舞っていた頃だってこんなに冷たい表情はしなかったはずで、なのに今はなんだろう。こんな、俺を見ているようで見ていない瞳なんて初めてで、気になっていたという言葉を聞いてすこし上昇した俺の気持ちはそのまま、ぴたりと凍り付いてしまった。
 イザークも動こうとしない。しかし俺へと固定した視線を、外そうとはしない。

 どうすれば良いんだろう。
 イザークはどうして欲しいんだろう。
 オルガはどう思うんだろう。
 俺は、……俺は、どうしたいんだろう?




「……とりあえず、さぁ」


 まるで空気ごと凍らされたような冷気を引き裂いた声は、妙にのんびりとしていて、多分その声音に随分と多くの空気が溶かされたと思う。


「オル、ガ?」


 オルガがかったるそうな表情を隠しもせず俺の方を見ていて、そしてイザークへとちらりと視線を遣った。


「俺が云うのもなんだけど、とっとと部屋行こうぜ? 俺は疲れてんの。腹減ったし。別に王子このまま帰る気ならそれはそれで良いけど。今のアスラン頭パンク中でまともに話にならねぇと思うぜ。話するなら先に落ち着いた方が良いだろ」
「……そうだな。アスラン、開けろ」
「え、う、うん。ちょっと待って……」


 何も考える気が起きなくて、命令された言葉の信号だけを脳へと送る。鍵を出す俺に、オルガが畳み掛けるように捲し立てた。


「ここまで来たらもう話しちまえば? まぁ、お前の好きにすりゃ良いと思うけど」
「好きに、って……」
「俺は別に構わないってハナシ」
「………」


 それはきっと紛れも無くオルガの本心なのだろう。ここまでの覚悟があったために、オルガの中で決着はついているに違いない。だから、俺がイザークに隠しつづけたきた秘密の一端を明渡すことくらい、きっとどうでも良いのだ。それはオルガの決心を揺るがすようなことではなく、寧ろオルガとは無関係の、俺の問題なのだ。つまりは、そう。あと、必要なのは、俺の覚悟だけ。
 それでもオルガは後押ししてくれている。「帰りたければ帰れば良い」と、オルガはイザークにそう云った。けれどイザークは帰らず、俺の後を付いて来ていて、それはつまり話したいことがあるということなのだろう。ならば俺はそれに応えなければ。それが、それだけが俺が俺に誓ったことだったはずだ。だけどもうすこし猶予が欲しくて、イザークじゃない誰かに寄りかかりたくて、俺は手に取った鍵をオルガに託した。
 オルガは無言で鍵を受け取り、俺とイザークを気にすることなく部屋へと突き進んだ。


「……慣れているな」
「え?」
「サブナックだ。人の家なのに先導しているだろう」
「ああ、良く来るから……」
「ほぉ?」
「ええと、その……」
「―――別に、云い訳は良い」


 そう云い放つイザークの、横顔が冷たかった。呆れのため息さえなく、俺は、恐らくこの後の告白によって荒れるだろうという予感を持て余したまま……ただ誰も傷つかなければ良いと、そんな在りえないことを願っていた。
 俺は良い。俺はもう傷なんて大した致命傷にはならない。けれど、今までイザークにどうしても云えなかったのは、イザークはどんなに俺に関心を払わなくなっても、彼の性格上、きっと怒るだろうと思っていたからだし、そしてそのイザークの言葉は、イザークに悪意がなくてもオルガには棘となり、毒となることを知っているからだ。
 だったら俺が男好きで、本命はオルガなのだと思い込まれていた方がずっと良かった。とんでもない誤解だとしても、その方がずっと平穏だったはずだ。……楽かどうかは別問題として。
 後回しにしていたのは俺の責任で、けれど誤算だったのは、この場でまさかイザークが出てくるなんて思わなかったことだ。きっとイザークはもう俺のことなんてどうでも良いと思って、俺の家になんて来ないだろうと踏んでいた。
 ……キラの所為だろうか。キラとの一件で僅かなりともイザークとの交流が復活してしまったから、いっぱいだったはずのイザークの心の隙に、俺という存在を滑り込ませてしまったのだろうか。
 そんな風に考えてしまう自分が厭で厭でたまらなくて―――そしてそれ以上に、この期に及んでもまだ逃げる手立てを探している俺は、どこまでも卑怯だと、思った。
 けれど、云わなければならないのだろう。イザークは真実を知りたいのだろう。もしそれで俺の想定していた未来が変わってしまうとしても―――俺は、イザークの望むことをしなければならない。それが、イザークに傷をつけてしまった俺にできる、精一杯の、償いだ。


「云い訳じゃない。そうじゃなくて……オルガとは、今日ずっと一緒だったんだ」
「なんだ、惚気か?」


 ほんとうに俺は口下手でどうしようもない。それでも読み取ってくれたはずのイザークにすら上手く伝えられないなんて。……いや、それとも、イザークがもう俺の考えなど判らないということだろうか?


「違うって。朝、母さんのお墓に一緒に行って、……その後ちょっと別行動だったけど、一緒に裁判に出て、また母さんのお墓に行って、一緒に帰ってきた」
「はぁ? なんでレノア小母さんの墓参りに行って、裁判まで出る必要が在る? 過保護が過ぎるぞ。―――まるで俺みたいだ。いや、それ以上か?」
「え、っと。……ええ?」
「……良い。つづけろ」


 イザークのため息が気になったが、ここで挫けてしまってはもう云い出せなさそうだったので、構わずにつづけた。
 胸が苦しい。喉が詰まってるみたいに乾いている。舌がぴりぴりして、うまく動かない。だけど……だけど、


「オルガ、は……オルガは、関係者だから」
「関係者? なんで奴が……」
「オルガは、高校入学前にサブナック家に養子に入ったんだ。その前の苗字は……アズラエル」


 イザークは一瞬だけ動きを止めて、けれどそれはほんとうにほんの一瞬で、すぐに身を乗り出してきた。


「それ、って……」
「あのとき……あの事件の容疑者、ムルタ・アズラエルの息子だった」


 事故だと思っていたあれはほんとうは事件で、犯人は明確な殺意を持っていたらしい、と、そう後で聞かされて……

 それに実は安心してしまっただなんて、どうして云える?

 父さんにも、ましてやオルガにも云えなかった。それは俺の心の中に秘めておいたはずだった。
 そりゃ、アイツ……アズラエルは憎い。母さんが殺されてしまったことは、哀しいし、悔しい。
 だけど、母さんが死んでしまったのは、あのとき俺が同じ空間の中で見捨てた所為じゃなかったんだと、ただ声を聴いているだけで何もできなかった俺の所為じゃなかったんだと、俺は思ってしまって……だけどそんなことは、誰にも云えなかった。
 今日の最終審判でアズラエルの刑が決まり、俺が思わず安堵のため息を漏らしてしまったのは、実はそんな理由からだったなんて……どうして、云える? 周囲からは、母親を殺した犯人の処遇にただ満足したとしか見えないのだろう。
 俺はずっとこの気持ちだけは誰にだって隠しとおすつもりだった。
 時折俺を助けに鏡の中に現れる母を見る度に、俺は俺の罪を思い出す。だけど俺はそれで良かった。俺の罪は罪でなくてはならず、誰にも告げずひとり悪夢に苛まれるそれは罰なのだから。

 ―――けれど。

 このとき俺は、このままイザークに寄りかかって、そんな気持ちさえ吐き出してしまえたら、と……そんなことを、思ってしまった。
 イザークに伝えるべきは、オルガの正体と、ほんとうの関係。そして、俺はオルガのことまで憎んでしまえるような、そんな危うい精神状態は抜け出したということ。オルガと一緒に居る理由は……上手く説明できないけれど。けれど、だから、俺はもう大丈夫だということ。
 そして、それを聞いて少しでも怒りそうなイザークを宥めて、判ってもらわなくてはならない。
 だから、甘えている場合じゃないんだ。
 イザークが今日ここに来た理由はそのためなんかじゃないし、何より誰にも云うべきではないのだから。ただこの時だけ、昔のなんでも話せた頃のイザークをふと思い出してしまって……思いっきり甘えさせてくれた頃の記憶が甦ってしまって……ただそれだけのことだ。
 だから俺は大丈夫。もう、大丈夫。
 生きていけるさ。

 とりあえず、あの危うい状態だった俺を知っているイザークなら、例え理不尽であろうとオルガに突っかかって行ってしまいそうだから……そうなる前に、どうにかしなくてはならない。オルガも傷ついたということが、今なら判る。だから俺の問題でオルガに更に傷をつけさせてはならない。思い出させてはならない。どんなにオルガが構わないと云っていても、それだけは避けなければならない。イザークにも厭な想いはさせたくない。俺のことは、後で考えれば良い。

 だから止めなくちゃ。

 今にもオルガに追いついて問い詰めそうなイザークを止めて……それから、それから。


 掴んだ腕に縋りつきそうな俺の心情なんか、どうでも良いから。