光と、温もりの記憶を抱いて
俺はただ眠りたい、それだけなんだ






















 光も、熱も、今は翳りを落とした夜道をふらふらとふたり歩く。
 オルガの手には朝と同じくらいの大きさのコンビニ袋が下げられていて、それはオルガが足を踏み出す度にガサガサと不粋な音を立てた。だけどそれを五月蝿いと指摘することの方がもっと不粋で、無遠慮だ。だから俺は何も云わない。オルガも何も云わない。沈黙の隙間を、風に葉が擦れる音と、微かな虫の鳴き声が縫う。それが静寂をよりいっそう深いものにしていた。
 ふわりと何処から吹くのか判らない黒い風が髪を撫ぜる。火照ったような冷めているような頬にそれは心地好い温度で触れて、俺はふと、夏が近いのかな、とぼんやりと思った。春の夜風は、昼の呑気な暖かさが嘘のように冷たく鋭い。だけど今俺を追い立てる風は、包み込むような温かさで、ブレザーを着込んだ肌はほんのすこしだけ汗ばんだ。夏が近づく、これは兆候だろうか。俺を苦しめることしかしない春が、漸く終わりを迎えているのだろうか。










 「DVDを観よう」とオルガを誘ったのは、俺だった。「じゃあ酒を買って行こう」と云ったのは、オルガだった。オルガは俺の誘いを了承したし、俺も了承した。それ以上のことは何も云っていない。何を云ったら良いのか判らなかったから。だけど伝えたいことは総て伝えきったし、これ以上何を云う必要も無いとも思っている。オルガだって同じはずだ。
 再び母の墓前に立ち、足を向ける方向を迷っている様子のオルガに、俺は頭の先から爪先までを駆け巡る羞恥と緊張を理性で必死に押し留めて、ただ提案したのだ。


「俺の部屋にあるDVD、まだ全然制覇してないんだ」


 オルガは片足を僅かに投げ出して、その方向を見定めるようにぶらぶらと足元の芝を蹴りながら、顔だけ怪訝そうに俺の方を向いた。多分その瞳を見てしまったら俺は絶対萎縮してしまう、と思ったから、俺はオルガと入れ替わりに石に刻まれた母の名を見据えた。


「でも俺は、ひとりだとテレビの電源も入れない」
「……なんで」


 低い、迷いの鎮み込むような重い声音に、実は内心ビクビクしていたんだけど。オルガが話の方向に戸惑っていることだけは判ったから、俺は勇気を振り絞った。これを勇気と呼ぶなんて、なんだかとても、歴代の冒険物語の勇者たちを冒涜しているような気もしたけれど、俺にとってこれは多分一世一代の勇気の物語だった。


「だって、もったいないじゃないか」
「……はぁ?」
「ひとりでテレビを観るのも電気がもったいなければ、折角買ったDVDを観ないまま終わるのももったいない」
「はぁ……」
「だから、お前が観れば良いんだ」


 俺的自分大改造、とまで云えるほどの勇気の割に、些か間抜けな台詞だ、とは自覚しながら。俺は恐らく数時間前味わった緊張よりも数倍、緊張していたんだろうと思う。しっかりした声音を出すために、手足の震えという犠牲を払わなければならなかった。


「……じゃあ、酒とつまみを買っていこう」
「……は?」
「酒と、つまみだ」
「はぁ……」
「お前はアレか、酒ナシで素面で真面目ぶっこいてふたりで映画を見ようってか」
「……気色悪いな」
「だろ?」
「主にお前が」
「俺かよ!」


 そのときのオルガはもうすっかり、いつものオルガだった。気兼ねすべきではなく、かと云って腹を割って話し合えるでもなく、正反対でありながら似たような立場の、俺とオルガが、母の墓前に立って低レベルな会話を本気で云い争っていた。


「でもお前、家の冷蔵庫の中身把握してるだろ? 酒、他のものが入らないほどいっぱいあるぞ」
「ビールばっかじゃねぇか。今日は焼酎の気分なんだよ」
「親父臭いな」
「ホントの親父がどういうのか大して知らないくせに」
「お前こそ」
「「…………」」


 お互いなんとはなしに気まずい空気に黙り込んだ数秒後、ぐるぐる考え込む俺をスルーして、オルガはオルガにしては小さな声で妥協案を示した。


「酒、なんて……結構もつんだからさ。お前ん家の冷蔵庫に保管しといてくれよ」
「は?」
「ウチ実は厳しいから飲めねぇんだ。だから、お前ん家で飲ませろ」


 飲みたいときに、と付け加えられた台詞がまるで何かのCMのようだ、と思って俺は吹き出した。吹き出した後でしまった、と思ったけれどもちろん後の祭りで、オルガは八割ほど落ちた陽の中でも判るくらいに顔を染めて、「笑うな!」と喚いた。それが可笑しくて、俺は更に笑った。
 遠慮も何も無い笑いは、実は初めてじゃないかと俺は思った。










 そうしてふたり軽く云い争ったまま街に出て、コンビニに寄って、酒だの弁当だのお菓子だのアイスだのを大量に買った。スーツとは云え高校生なのに堂々としているオルガも、微塵も疑っていなさそうな人の好い顔をした店員も、俺はどっちもどっちだと舌を巻いて、それからは話題も尽きて黙ったままマンションへの道を歩いている。

 沈黙は好きだ。

 だけどそれは孤独とはちがい、いままで俺は孤独の方を愛していたはずだった。なのに今はこのふたりで居る沈黙の方がずっと心地好い。
 普通はこれを良い傾向だと捉えるべきだろう。
 だけど俺は、俺にとってはどうなのか良く判らなくて、でもオルガとこうして隣歩いていることに後悔はなくて、どうせならこの道がずっとつづけば良い、と、そんなことを願っていた。
 そうすればこれ以上余計なことを考えずに済むのにと、そうやって考えるときにはいつもちらつく顔を、疾うに決別しようと誓ったはずの顔を、今日もやっぱり思い出していて、ほんとうに俺は馬鹿で甘えたで女々しくて未練がましくてどうしようも無い、と思っていた。


「……およ?」


 ガサ、という音が途切れ、オルガが不可解な声を上げる。
 考えと自嘲に耽っていた俺は、特に疑念もなくオルガの方を向いた。


「なんだよ?」
「いやぁ……」
「?」


 オルガは真っ直ぐ前を、荷物を持たない方の身軽な手で目の上に日陰をつくり窺い見ている。こんな街灯だけの灯りでどうしてそんな目を凝らす必要があるのかと、俺はオルガのそんな横顔を首を傾げて見ていた。


「なに……」
「予想外の展開」
「は?」
「―――王子サマのお出ましだ」
「はぁ……?」


 もう数十メートルで俺のマンションの入り口があり、けれどそこまでは一本の街灯があるだけで、動くものは何も無い。だけどいつだって真実は闇の中で蠢いていて、白日に曝されるものなどほんの一握りでしかないのだ。それを象徴するかのように、暗く真っ直ぐ伸びた道の横から突き出た、ほんのりと照らされたマンションの灯の中に、その光以上に白くけぶる人影が現れた。闇の中から這い出た、まるでひとつの真実のように。





 ―――ああどうして、


「イザーク……?」


 誰も彼も、俺を静かに眠らせてはくれないのだろう。

 生温く湿った風が、ただひゅうひゅうと音を立て俺の両脇をすり抜けて、春の終わりを俺に報せていた。