記憶は俺を慰めるものではない
ましてや励ますわけでも、癒すわけでもなく、ただ、俺を生き急がせる






















 世界から取り残された場所で、ひっそりと咲き誇る花々
 白く孤を描く雲と、それから晴れ渡った空と
 それはどこまでも青く、蒼く
 落ちてくる陽
 薫る風
 それは髪を攫い、外の世界へと花の香りを届けゆく





 明るくまもるように照らされるひかりのなか、やさしく朽ち果てる場所というものを、俺はここしか知らない。





 花に埋もれて立ち並ぶ石は、象徴通り、世界の終着点を俺に思わせた。

 ―――いのちの終わり。果てた骸。それらを苗床にして、美しくその身を風に揺らす花。





 ひとはここから始まり、そして、ここに還る。





「久しぶり……母さん」


 俺の目の前にひっそりと佇む石には、レノア・ザラの名と、それからあの日の日付が刻まれている。
 あの日。
 総ての終わりと、いまの始まりの日。
 それだけで沈黙を秘するこの無骨な石が母さんを示すだなんて何だかすこし考えられなくて、でも俺はこの下に母さんが眠っているのだと、ちゃんと知っているはずだった。
 俺はあのとき、足は骨折していたし検査の結果もまだ出ていなくて慌しかったけれど、母さんの告別式だけは無理を云って出た。
 俺の中での決着は既についていたけれども、儀式というものは節目のために必要なものだと思ったのだ。事実、俺はけじめとして、決別を迎えることができた。俺はひとの群れからすこし離れた場所で、母さんの最期の声の記憶を呼び覚ましながら、かつて母さんだったものに土のかけられていく様を見ていた。その俺の車椅子をひいていたのは、片時も離れようとしなかったイザークだった。俺は不思議と穏やかだったが、もしかしたら必死に感情を押さえつけているようにも見えたのかもしれない。イザークは何を云うこともなく、ただ、俺の車椅子の後ろに立って、ハンドルを握り締めていた。その無言が、とてもここちよかった。
 記憶は鮮明に甦る。例え、あれからいくばくかの刻が過ぎ、事態が大分変わっていようとも。もうイザークが俺の隣に立つことはなくとも、あのとき確かにイザークが俺とともに居た記憶は、薄れず俺の中に咲き誇る。それは幸福の象徴にちがいないと、俺は思った。思ったのだ。現実よりも、記憶や夢の方がずっとずっとやさしくて、そして美しい。
 俺は過去の映像を脳裏に映写しながらちらりと横へ視線を遣り、そこに立つ人物にすこしの違和感を覚えた。


「……何だよ」
「いや。何でも……何でも、ないよ」
「俺より見るもんがあるだろう」
「そうなんだけど、」


 オルガは、それきり黙り込んだ俺を一瞥すると、そんな俺の態度を気にすることなく、視線を元に戻した。
 隣に立っているのだから、もちろんその視線の先にあるものは母さんの墓でしかない。
 俺とオルガが、俺の母さんのお墓参りをする。それは不自然なような気もするし、理にかなっているような気もする。何が正しいのか、俺には良く判らない。だけどオルガが来たいと云って、俺がそれを承諾しているのだから、間違いということはないと思う。
 何故オルガがレノア・ザラの墓参りを、と云うひとは居るだろう。その中には父も含まれているかも知れない。だけど俺はそうは思わない。そもそも、そんなことを気にしていたらオルガと行動を共にしたりしない。だから良いのだ。
 オルガが母さんと何か関係があったわけはもちろんない。オルガは生前の母さんに会ったことはない。だけど、オルガの母さんの墓を見る視線は、俺のものよりも真剣なそれだ。
 俺はオルガに、何回も気にしなくて良いと云った。オルガはその度に、お前は気にするか、気に入らないかと訊いた。だから俺は、そうじゃない、と答えた。オルガが気にすることはないのだと。気に入らないわけじゃないけど、気遣いは無用だと。
 するとオルガは安心したように、ならやらせてくれ、と云った。お前がどんなに気にするなと云ったって、俺は気が済まないんだ。
 そこまで云われて拒絶したら、まるで俺が気にしてるみたいだし、事実オルガが気にするような意味で気にしてはいなかったから、良いよと俺は云った。良いよ。だけど、申し訳無いけど、父さんは気にするかも知れない。顔を合わせてしまうことも、もしかしたらあるかも知れない。そしたら気まずい想いをするのはオルガだ。俺はそれが我慢できない。だから、行くときは俺と一緒に行くのはどうかな。
 そうして、俺とオルガは一緒にこの地に立っている。もう何度目になるのか、すくなくともあの日からの年数と同じ分だけの回数を、この場で共に過ごしている。
 俺のこの申し出を、オルガがどう思ったのかは知らない。余計に気にしたかもしれないし、煩わしく思ったかもしれないし、ほっとしたかもしれない。だけど、俺がそれを知る必要はない。オルガが今、母の墓を前にして何を思うのかも。


「……俺は今でも、思うんだ」
「オルガ?」
「悪いのはアイツだよ。それは確かなことだ。俺は悪くないって、理屈では判ってる。だけど俺は、そう思うことは赦されない気がしてならない」
「……実際、オルガに責任なんてこれっぽっちも無いじゃないか」
「相変わらず、お前は良い云い方をする。“お前は悪くない”なんて慰めるだけの奴等よりは、よっぽど。身も蓋もない云い方だもんな、責任なんて」
「気持ちなんて、いくらでも追及できる余地がある。俺はそれを、知ってるから」
「だよな。だけど、そんなお前だからこそ、俺はここまでお前を引っ張っちまって良かったのかと、今でも思うんだ」
「……別に俺、オルガを恨んでなんかいないけど」
「……ホントにお前、どこまでお人好しなんだよ……」


 それきり、オルガは黙り込んだ。俺がそろそろ行こうと促すまで、ずっと。身動きもせず、難しい顔をしたままでその場に立ち竦んでいた。
 その間、何を思っていたかは知らない。俺がそれを知る必要は無い。
 同じように、オルガも俺の考えていることを知る必要は無い。

 だから不安なんだ、と俺は思う。

 言葉なんて、不明確なもの、いくら交わしたって判り合えることなんて無いんだ。
 それよりは、俺の部屋に並ぶDVDや、堂々と冷蔵庫に保管されている酒や、オルガが俺に買って来る健康食品だとか、俺たちふたりだけがつかえる図書館の開かずの間の存在の方がよっぽど判りやすい。そこに言葉なんて付随しなくても、相手の想いくらい簡単に推し量れる。
 俺はオルガの考えなんて知る必要はないし、云うことなんて何もないけれど、オルガもそれを気付いていると良いと思う。
 お互いもっと簡単な気持ちで、この場に立つことができたらと思う。


 俺はほんとうにオルガを恨んでなんかいない。
 オルガはそう云う俺を馬鹿だお人好しだと云うけれど、寧ろ立場は近いと、思っている。
 確かに自分を馬鹿じゃないかと思わないではない。だけど、恨んだってどうしようもなくって、それはオルガを追い詰めるだけで、それは俺の本意ではないのだ。
 そりゃ、始めからこんな風に穏やかに考えていたわけではなくて、恨みにちかい気持ちを抱いたこともあった。
 だけど、だけど、オルガは何も悪くない。悪いのは、オルガの云う通りだ。だけどそのひとに対しての憎しみさえ既に薄れている俺は、多分どこかが壊れているんだろう。


「―――オルガ」
「……何だよ?」
「今、メール来て……父さんの秘書から、時間あるなら向こう行く前に寄って行くようにって」
「ああ、ギリッギリで漸く連絡来たか」
「うん。一応、その通りにしようと思うけど」
「それが良い。俺と一緒に行くよりはよっぽど自然だ」
「自然と云うより、親子で別に来る方が不自然で体裁が悪いとか思ってるんだよ」
「素直じゃねぇなぁ……しかし、秘書にメールさせるようがよっぽどか」
「どっちもどっちだな」
「自分で云うなよ」
「自覚が無いよりはましじゃないか。でもそんなわけだから、俺はもう行くけど。お前はどうする?」
「ああ、途中まで一緒に行くよ。駅で別れる。てきとーに時間潰すわ」
「そうだな。じゃあ、母さん、また後で」


 水差しを持って歩みだす俺の後ろで、オルガが母さんに向けて深々と頭を下げていた。
 俺は俺で父さんと顔を合わせなければならないことで気が重くて、それ以上にその先に待ち構えることの不安で押し潰されそうで、そんなオルガに構っている余裕はなかったけれど、ちらりと盗み見た視線の先、オルガの顔は不思議と晴れ晴れしているように見えた。