不安定な時を示す時計を抱えている
そして針を止めてしまうのか、再び動き出すのか

















【 第7章 / 高等部2年・春 / 決着 】










 目覚ましのすこし前に目が覚めるのは、最早習慣だ。
 それはセットした時間が違おうと、毎朝変わることはない。体内時計は正確なのか狂っているのか、判らないけれど、平日と休日で変化するはずの時刻のほんのすこし前に、俺は目が覚める。
 それでも俺は目覚まし時計が喚きたてるまで、ベッドの上を動かない。動かずに、ただ、深呼吸をする。音は俺が発する布ずれの音と、ひゅうひゅうという雑音の混じった俺の息だけ。
 ひとりの空間で、ひとり息をしているというその事実。それを確かめる。
 そうしているうちにけたたましく時計が朝の訪れを告げ、俺は億劫に思いながら時計を宥めるべくスイッチを押す。そして喧騒を得た部屋がふたたび静寂に鎮まるのを辛抱強く待つ。その静寂にひたっていると、五分後にまた時計が鳴り出す。
 そのサイクルを三〜四回繰り返してから、俺は漸く起き上がった。

 今日は月曜日で、学校はあるけれど、俺は休みだ。

 先週のうちに休暇届を出し、認められているから問題は無い。
 毎朝学校へ行くよりは遅く、始業時間よりは早くに起きてみたけれど、あまりいつもと変化ない朝の空気にもっと寝ておけば良かったと悔やんだところで、今日に限って妙にすっきり目覚めてしまっているのだから始末に負えない。
 俺はカーテンを開けて、朝の空気に身体を馴染ませてから、ほんのすこし考えて、携帯電話を手に取った。
 友人もいないし、興味も無いそれを何故俺が持っているのかと云うと、それは偏に父の親としての体裁の問題であって、実際、あまり使い道も無く放置されている。ただ最近、何かと俺の周囲に纏わりつくキラにせがまれて番号を教えて以来、大活躍とでも云うほどに面白みの無い電子音を鳴らしているわけだが。
 それはそれとして、俺は別にキラに連絡を取ろうと思ったわけではなかった。
 きっとメールが来ているのだろうと、そう思ったからだ。
 開いてみると、案の定、それは味気ない一言を伝えていた。


-------------------
AM7:55
F:::オルガ
Sub:::
-------------------
よ。起きてる?


- - - END - - -
-------------------


 俺のメールの素っ気なさもキラに相当云われたが、これも相当だ。
 いや、オルガに懇切丁寧だったり絵文字満載だったりなメールを送られても困るけど。趣向返しに俺も凝ったメールを送ってみようかと一瞬悪戯心が湧いたが、向こうだって困るだろうと思い直したから俺もひとこと、「今起きたよ」とだけ送ってみた。
 すぐに返事がくる。
 珍しいな、と思いつつ、いくつかタイトルにRe;の表示のつづくメールを遣り取りして、俺は時計を見た。
 そろそろ朝練のあった者も遅刻常習犯の者も揃って、教室が埋まってゆく頃だ。ついさっきまでひっきりなしに鳴っていて今は沈黙を保っている電話をもう一度開いてみて、ちょっと考えた挙句、ニコルにだけくらいは今日休むことを伝えようと思った。
 そう云えば先週、今日休むことを伝えようかどうか迷って伝えなかった気がするから。
 前もって「来週休むから」と云うのは怪しいし、当日伝えたら伝えたで体調を崩したのだと心配してくれることは判っている。だからどうしたものかと思ったのだが―――変に気を遣わせない分、後者の方がお互い良いだろうと思ってのことだった。前者だったら、何かありますと云っているようなものだし、ニコルがそこを突っ込んで聞いてくるような性格じゃない分だけ、逆にやりにくい。

 さて、と携帯を置いて立ち上がり、シャワーでも浴びようかと思ったところで、来客を告げるベルが鳴った。
 いつもはさらりと無視するその音に反応を示したのは、単にこの時間に珍しい、と思ったからというだけでは無い。
 予感―――とりわけ厭な予感というものは、不思議とだれにも作用するものだ。


「オルガ……」


 通話のボタンを押したわけでもないのに、画面に向かって手を上げているオルガこそ、俺が画面越しに見ているという予感が働いているのだろうか。
 これで俺が無視したとしたら寂しい奴だな、と思いつつも、結局俺はオートロックのボタンを押した。会話も無く、単に「開錠」のボタンを押しただけだが、オルガは上げていた手を顔の前で縦にして、颯爽と横のドアへ向かったようだった。


 ―――サンキュ。


 声が聞こえていたら、まさにそう云っていたのだろう。
 その残像を見つめつつ、画面を見遣っていた俺は、すぐにさきほどとは違う音で来客を告げるベルに我に返った。
 もう部屋の前まで来たのかと呆れながら玄関へと向かう。


「なんだよ、まだパジャマか、お前」
「お前が早すぎるんだろ」
「さっきメールですぐ行くつっただろうが」
「こんなすぐだとは思わないだろ、普通」
「まあまあ。とりあえず入れてくれよ。差し入れ付きだし」
「ったく……」


 中身のめいっぱい詰まったコンビニ袋を掲げたオルガが中へ身を滑らせてきて―――そこで漸く、オルガの出で立ちに気がついた。


「―――なんだお前」
「は?」
「その格好だよ」


 てっきり制服姿だとばかり思っていたのに、オルガは普通のスーツ着用だった。いや、普通でもない。礼服に近いのだ。でもネクタイは落ち着いた色とは云え普通っぽいような気がするし、礼服というわけではないのだろうか。


「ま、良いだろ。気持ちの問題だよ」
「ああ、そう……。俺は制服だけど」
「構わないだろ。つか、それが普通だ」
「自覚はあるのか……」
「そりゃあな。おっじゃまー」


 何度か来たことのあるオルガは勝手知ったりと云う様子でリビングを目指す。その途中でしっかり上着を脱いでネクタイを緩めて寛ぎスタイルに入っている辺り、この部屋に慣れている証拠だ。
 実際のところ、業者の類いを除けば、この部屋に足を踏み入れたことがあるのは、俺と、父と、オルガと、その三人だけだということに思い至った。


「……寛ぐのはお前の勝手だけど。俺はシャワー浴びてくるから、好きにしてろよ」
「あいよ」


 云うまでも無くとっくにDVDの陳列棚を物色しているオルガに、呆れを通り越していっそ感心した。もう慣れたということもあるが、別に厭というわけでもないので放っておく。そもそも、特に物欲の無い俺が何故DVDを取り揃えているのかと云えば、それは偏に、この部屋に入り浸るオルガのためでもあるのだった。なんだかんだで時間潰しに役立っているので別に構わないのだが、そう云えばどうして俺はこんなにオルガに合わせているのだろうかとちょっと不思議な気分になった。どんなに考えたところで、結局は「今更だ」という結論しか出てこないわけだけれど。

 結論の出ない論法というものは、永遠を連想させる。

 だから今の俺が考えるには、一番良い論題でもあった。
 我ながら暗いなぁ、と思う考えをシャワーで冷やしてから、寛ぎきっているオルガの居るリビングへと戻り……そして拡がる光景に、俺は、愕然とした。


「……何故朝っぱらからこんなものを見なければならないんだ」
「景気付けだろー。お前も付き合えよ」


 悪びれも無いオルガに思わず頭を抱える。彼が掲げたのは―――歴とした、ビール缶、だった。
 いや俺だって別に未成年なのにとか云うほどお堅い優等生でもなければ、オルガがうちで酒を飲むこと自体は初めてというわけでもないのだが、しかし。
 今はまだ朝に分類される時間帯のはずで、しかも俺たちはこれから出かけなければならないのに、何考えてるんだ、コイツ。


「コレ一杯で止めとくからご心配なく。時間までには抜けてるさ」
「そういう問題か?」
「こうでもしないとやってらんなくてよ。ま、今日くらい見逃せよ」
「今日くらいも何も、普段お前が飲んだ酒缶の始末を、誰がしてると思ってるんだ」
「そーいやそうだな。んじゃ、はい、やる」


 そう云って渡されたのは、レトルトのスープのカップだった。
 さり気ない気遣いと、保護者のようなこの行動に、俺はもう何も云えなくなる。


「朝はちゃんと食えよ。スープなら平気だろ? サラダもあるけど」
「……まぁな」
「お湯は沸かしといたから」
「もう、好きにしろ……」


 寛いでるどころか、半同居人と化している。
 何度も云うが、別に厭ってわけじゃないのだ。ただすこし、距離の取り方について、戸惑ってしまうだけで。


「ソレ食ったら行くか」
「……早くないか?」
「今日は良い天気だぜ。外の風に当たるのも、悪くはないだろ」
「その方がアルコールも早く抜けるしな」
「そゆこと」


 妙に明るいオルガの様子に、彼もまた不安なのだろうと思った。
 いくら年齢確認もされずにアルコールを買えてしまうくらい老けて……いや、大人びていると云ったって、オルガも俺も、年齢や経験値にそう変わりはなくて、出せる答えなんて高が知れているのだ。
 平常心を装う下では、不安が渦を巻いて沈んでいるにちがいない。

 だって、俺だってそうなんだ。

 むかしよりは冷静になることができても、不安はそれに反比例するように膨大になっていく。そしてそれを必死で隠そうとすることで悪循環を生み出し、俺は、俺たちは、ゆっくりと壊れていく。そうして、段々とオルガとの距離は近くなっていった。

 今、俺を構成する不安の要素のひとつに、今後のオルガとの関係についての懸念がある。

 そりゃ俺たちは、正反対のようでいて、その実似ている環境が縁で、今こんなふうに俺の家で共に時間を過ごすようにまでなっている。けれどそれはただ不安で、縋る相手が欲しかったからという、それだけに他ならない。
 考えが似ていて、境遇も同じ相手というのはひどく楽だ。何を云っても赦されるような気になれるから。(実際のところ、俺たちの間の会話はすくなかったけれど。)
 逆に、慰めというものは大嫌いだった。アレは俺をだめにさせる。その点、オルガは慰めを口に出せる立場ではない。だからオルガの存在は、俺が俺として在るためには一番丁度良かったのだ。オルガにとっての俺も、同じようなものだったのだろう。


 だから―――だから。
 今日のこの日を終えた後、俺たちが離れるのは、ごく自然のことのように思えた。
 だって今日は決着のつく日なんだから。これからは相手が必要の無い日々が、俺たちを迎えてくれるのだから。


 だけど、本当にそうだろうか?
 いくら決着がつくとは云っても、それはごく表面的なものだ。それでも俺は、今日を切欠にオルガの存在が遠く離れても、これ以上壊れないでいられるだろうか?






 共に過ごした時間が長すぎたのも、ひとつの要因だと思う。
 それに、本当は気付いているんだ。
 事情を知っている相手というのは、それだけで気楽でいられるんだということ。
 俺は事情を知らない相手に、それを話さずに側に居られるほど器用ではなくて、けれど総てを話せるほどの強さを持っていないんだということ。
 そして、結局、―――俺はひとりでなんて寂しくていられないんだということ。
 厭な云い方だけど、俺はその気持ちを誤魔化すためにオルガを利用していたのだろうということ。


 今日を終えて、俺はそれでもオルガとこれからも同じような関係で居たいと、そんなことがこの俺に云えるだろうか?
 イザークの手でさえ離してしまった俺が、まだ何かを繋ぎ止める、そんな傲慢なことができるのだろうか?
 そしてそれを、彼―――オルガは、どう思うのだろうか?


(……総ては、今日の判決を終えてからだ)



 そうしたら、母さん、
 貴女だけは、漸く穏やかな眠りに就くことができるから。