ひとりきり、哀しみに浸り、流されずに止まったままの涙を溶かす場所
欲しかったものは、此処に在る






















 何だか懐かれている。

 席替えで隣になって以来、キラは事在るごとに俺に構ってきた。
 正義感に溢れるタイプのようだから、クラスに溶け込んでいない俺に気をつかっているのかとも思ったが、それにしてはキラひとりだけが空回りしている、という方が正しかった。……振り回している俺自身が云うのも奇妙しいけれども。


「ねー、アスラン。今日この後用事ある?」
「え?」
「僕らてきとーに街ブラついて帰るんだけどさ、一緒に行かない?」
「え、っと」
「……無理にとは、云わないけどさ」


 迷う素振りで視線を泳がせた俺に、キラはしゅん、と項垂れて鞄を持つ手を下げた。思わずニコルを探してしまったが、そう云えば吹奏楽部に顔を出すニコルとはさっき挨拶を済ませたばかりだった、と思い直す。

 それにしても、と俺は不自然ではない程度に顔を見回した。

 隣にキラ、斜め前にイザーク、イザークの前にラスティ、その両隣にディアッカ、ミゲル。
 よくもまあ、くじ引きでこれだけ上手い具合に纏まったものだと思う。運命を翻弄する神ですら、彼らのことは贔屓しているのかと思うほどだ。それに比べ、前にニコルが居るとは云え、その中に放り込まれてしまった俺は相当な嫌われ者だろう。
 話し掛けてくるのはキラだけだったが、そのすぐ後ろでは無駄だって、というような顔をしたディアッカたちが居たし、そのまた後ろではクラスメイトたちがこちらに意識を向けているのが判った。


「ごめん。今日は、ちょっと。用があって……」
「そっか。じゃあ仕方ないね」
「折角誘ってくれたのに悪いけど……」
「良いよ良いよ。じゃあ、今度の機会にね」
「え……」
「絶対ね!」
「わ、判った」


 聞き分けの良いふりをしていたが、キラが落ち込んでいるのは目に見えてはっきりしていた。何で俺に断られたくらいでそんなに落ち込むんだろう、とは思いながら、全面的に俺が悪いような周囲の視線に居た堪れなくなった。
 別に俺が悪者になること自体は何とも思わないし、そういう視線には慣れているはずだったのに。気付いたら、俺は踵を返しかけたキラを呼び止めていた。


「……何処に行くんだ?」
「え?」
「駅までなら」


 一緒に行けるけど、という言葉を遮って、キラが鞄を放り出し俺の手を掴む。


「本当!?」
「あ、ああ」
「やった! じゃあアスランの気が変わらないうちに、行こう行こう」


 キラは嬉々として俺の手を片方だけ掴んだまま、離した方の手で鞄を持ち直し、そのまま教室を出ていこうとした。


「え!? ちょ、ちょっとキラ……」


 こんな展開を予想していたわけでは、と視線を巡らせると、複雑な顔をしたキラの取り巻きたちと目が合った。瞬間、悪いことをした、と思う。彼らの空気は、俺が居たら壊れてしまう。なのに俺は俺の居た堪れなさのためにすごく傲慢なことをしてしまった。……イザークも。イザークも、キラの隣を俺が奪ってしまって、面白くないにちがいない。
 どうしよう、とは思ったけれど、総ては今更のことで。
 俺はキラの話に頷いたり、質問に答えたりしながら、後ろを付いてくるみんなの気配ばかりを気にしていた。


「僕らここから一番線で行くんだけど、アスランは?」
「……俺も、だけど。準急しか止まらないところだから」
「え。じゃあ一緒の乗って行こっか」
「い、良いよ!」


 やっと逃げられると思ったのにそれさえも付き合おうとするキラに、思いっきり否定してしまった。
 驚いたような顔をするみんなに、取り繕ったようにつづける。


「いや、俺は急がないし……次丁度急行が来るんだからさ、乗って行きなよ」
「そう……?」
「どうせ俺はすぐ降りるし。楽しんできなよ」
「そっかぁ。じゃあしょうがないけど、次は絶対ぜったい! 一緒に遊ぼうね!」
「あ、ああ」
「じゃあ、また明日ねー!」
「……また明日」


 電車がホームに滑り込んできて、キラたちはその電車に乗って行った。大袈裟に手を振るキラに合わせ、俺はちいさく頷く。
 ここ数日は妙にキラが絡んでくるので、イザークの顔をまともに見られなかった。そう思ってそっとイザークの姿を探したけれど、イザークは奥の方に入り込んでいてしまって見ることは叶わなかった。
 走り出した電車が俺の髪を攫ってゆく。その空気の流れに沿って顔を向けて、その電車の姿が見えなくなるまで、ずっと見守った。

























 用を済ませると、街の喧騒と迫り来る夜の闇から逃げるようにしてとっとと家へ帰った。

 十五階建てのマンションの十階、ひとりで住むには広すぎるけれど、一般的な広さのマンションだ。マンションの良さはその密閉性にある。通路側の部屋のカーテンを締め切ってしまえば、中にひとが居るのかどうかなんて判らないし、隣同士の付き合いなんてものもないし。オートロックだから、居留守も余裕で通用する。ザラの系列の建築会社が手がけたマンションの中でも特に良い部屋を選んだらしい父上の気配りのおかげで、上下両隣の部屋の音も響いてこない。何より、この部屋の住人は俺だけで、合鍵を持っているのは父上だけだ。
 だからこの部屋は、俺の、俺だけの、空間だ。父上が訪ねてくるわけは無いし、俺はこの部屋でどこまでも孤独に浸ることができる。父上が用意して、(どうせ選んだのは秘書のだれかだろうけど)家具もすべて取り揃えてくれた、この部屋で。俺はたった、ひとり。総ての感情が渦巻くのを押さえつけて、そうしてひっそりと息をする。
 用事のせいで増えた荷物をダイニングの方へと投げやり、リビングのソファにどかっと横になる。
 俺がそうして落ち着いてしまえば、部屋は完全な無音になる。何も俺を縛らない。何も俺に構わない。

 ああ俺は―――自由だ。どうしようも無く、自由だ。イザークのことも、オルガのことも、キラのことも、総てこの部屋からは断絶された場所に在る。俺を悩ませるものなど、何も……何も、無い。
 総ては俺から遠く離れたところで吐き出された、顔も知らぬだれかの戯言だ。

 天井に向けていた頭をふいと横にして、その視界に映し出されたものに、今までの感傷をひとつ、覆した。


(違った、ひとつだけ……)


 リビングの隅に置かれた姿見は、俺が実家の母さんの部屋から持ち出してきた唯一のものだ。よろよろと立ち上がり、姿身の方まで歩く。そこに映るのはいつも俺ではなく、母さんだ。
 母さんが微笑んでいる。母さんの前でだけは哀しい顔は見せられないので、俺もぎこちなく顔の筋肉を動かした。


(母さん、今日もイザークと話ができたよ)


 イザークとの不仲をずっと気にしていた母さんにだけは、素直に話せる。もちろん、その奥に在る想いだけは伝えられないけれど。


(それと、多分、すぐにまた父上と会うことになると思うんだ)


 そこで総て―――俺の想い以外の総てに、決着がつく。そしたら母さん、貴女も浮かばれるだろうか。
 貴女の最期のか細い声と、真っ白な腕が、未だに俺をあの日に縛り付けているのです。





 イメージは、白と無。
 その中に何か絶対的な力で浮かんでいるような姿の母さんの腕が、静かに伸ばされた……ような気が、して


(いっそその手で……)


 それ以上をつづける前に、視界が総て白に掻き消え、母さんの温もりの宿る姿身の前で、力尽きて倒れこんだ。
 しまった、床暖房をつければ良かったと、身に滲んでくるような冷たさにぼんやりと思った。だけどこの床の冷たさが俺を現実に縫いとめるものだから、抗い難い。……でもそれで良い気がした。穏やかな眠りと、夢という現実逃避は、俺には赦されない。

 俺はこのひとりきりの部屋で、孤独に膝を抱え、静寂に耳を澄ませ、自由に歓喜し、そうやって生きている。……生きて、いる。

 無意識に伸ばした手の先に、一体何が在ると云うのか。何も無いと判っていながら、ぎゅっと掌を掴んで、空を切る感覚に絶望を覚えた。