遠く、鳥の羽ばたきが聴こえた気がした
名も知れぬその天高い行き先に、今なら俺もたどり着けそうだ、と、そう
【 第4章 / 中等部2年・冬 / 腐敗 】
それは、毎日は全く同じように過ぎ去って行くと、ただ只管にそう思い込んでいた日々の、ほんの一過点でしかなかった。
一日はイザークと過ごすことで終わり、また次の日も同じように展開されるものであって、思い出はそうして時の流れを意識することなく積み重ねられてゆくのだと、そう信じて疑わなかった頃の……それは、ほんの一過点だった。
だから俺は、その日が一体どんな会話が交わされた後に訪れたものだったのか、良く覚えていない。
ただ、いつもと同じように、空が突き抜けるような青さを貫いていたことだけは覚えている。そして、俺はその下で呆然と立ち竦んでいただけだった。俺の頭上では、きっと、桜の花が餞のように舞っていた。けれど、俺はその幻想的な光景にも気付くこと無く。その餞別をただ事実として受け止め、そして静かに、納得した。
イザークは俺と一緒に居るときが嘘みたいに社交性はあまりなくて(それはもしかしたら俺以上にと云っても良い)、一緒に居るのなどディアッカくらいしか見たことがなかったはずが、ある日の朝のこと、それは仲良さそうに見知らぬ人物と二人で登校しているのを見かけた。とは云え、それが前日にクラスで行なわれた自己紹介の中に居た人物だということくらいは覚えている。それは偏にその人物が目立っていたからで、俺は基本的にはクラスメイトの顔と名前など無理に覚える気はなかったのだ。けれどその人物は、そんな俺が一目見ただけで覚えているくらいに目立つような、人の視線を否応なしに集めてしまう人物だった。きっと、イザークの側だけという閉鎖的な場所で生きる俺とは決して相容れない存在だろうと、そんな感想を持ってしまうくらいには、そいつは―――キラ・ヤマトは、眩しい存在だったのだ。
それはあまりにも唐突な出来事だった。
俺はその日、中等部に入学したばかりなので身体のことなどを担任や体育担当の教師と話し合おうと早く登校していた。だから明日は先に行くと、前日の放課後一緒に過ごしているあいだにイザークに話しておいたのだが、そのときはイザークは普通だった気がする。日常に埋没する一場面でしかないから、確かなことは覚えていないのだが、とりあえず入学式から帰った後いつも通り一緒に過ごしたはずなのだから間違いではないだろう。イザークは普通に接していたのだ。
なのに、次の日。キラ・ヤマトと二人で居るところを見かけてから、ほんとうに突然。イザークは余所余所しくなったのだった。
朝は先に出ていかれ(しかも俺はそのことをジュール家の執事に聞いた)、休み時間は放っておかれ、昼休みはイザークはヤマトと何処かへ食べに行ってしまうし、帰りもヤマトたちと何処かへ寄ってから帰るらしく、俺はひとりで帰るようになった。もちろん、最初は俺から誘ったりもした。挨拶だってした。けれどいつも上手く躱されてしまう。けれど、別に素っ気無いというわけでもなく。だから、ああ、そうかと。優しい彼は俺を尽き放すことまではできないだけで、俺とはもう居たくないのだろう、と。と云うよりは、大して面白い反応もできない俺なんかと居るよりは、ヤマトと居る方がよっぽど楽しいんだろうと、そう納得した。
俺はそれからは基本的にひとりで過ごしていた。
いつからか何かを切欠にしてスキップしてきたニコルとは話すようになったが、他には特に学校に居てだれかと共に過ごすということはなく。俺がもう大丈夫だと云った所為で、二年からは初めてイザークとクラスも別になった。
そうして別々に過ごしたまま、二年ちかく。
事故を切欠にして、イザークはまた、俺に対し優しくなった。
嬉しい反面、ああどうしてもイザークにとって俺は放っておけない弟のような存在であって、こんなことでもなければイザークは俺を見てくれないのかと、そんなことを思って―――そして俺は、唐突に気付いてしまったのだ。イザークのことが、どうしようもなく好きなのだと。女の子に対して抱くようなものとも違うが、けれどそういう意味合いを確かに含む、そんな気持ちで、俺はイザークのことが好きなのだ。殻を帯びていたその想いが、護る存在を無くした所為で、そのとき初めて剥き出しになり、俺を内側から食い破ろうともがく。足掻く。俺は必死に、その侵蝕を拒む。足掻く。
そう、これは……今、突如として湧き起こったものではない。もうずっと以前から、俺の中に在ったのだ。
―――自覚した途端、怖くなった。
それまでにイザークはキラ・ヤマトとの噂があったりしたが、俺は全く気にしていなかった。俺自身にも男喰いの噂はあった。けれどいちいち否定するのも面倒だし、それでイザーク以外の人間が近付いてこないのならそっちの方が却って良いと思って無視して過ごしていた。人との接触を絶っても耳に入るそれらの噂に、俺は馬鹿馬鹿しい、と思っていたはずだ。思っていたはずなのに。
俺はイザークへの気持ちを自覚して初めて、それらに渦巻く、噂をする人々の思惑が、急なリアル感を伴い俺に襲い掛かってきたような錯覚を覚えた。
怖い。怖い怖いこわい。何よりそんな気持ちをイザークへ投げかけてしまう俺が怖い。
けれどイザークは、そんな俺をまるで腫れ物のように扱うんだ。―――それがまた、怖い。
精密検査と、母の告別式と。寝てる暇なんてないんだと云う俺に、イザークは何度も何度も念を押した。
「大丈夫か?」
「平気だってば。イザークはさっきからそれしか云ってない」
「お前の“大丈夫”はあてにならないからな」
「……じゃあ、いちいち聞かなければ良い」
「拗ねるなよ。それでも心配なんだから仕方ないだろう」
「………」
「そこで不思議そうな顔をするな。悪かった。悪かったから」
そっと、俺の手を握る。その動作は、まるで懇願にも祈りにも見えた。力強かったその肩が弱々しく震えたように見え、急に、彼も俺と一つしか違わない単なる少年なのだという実感が湧いた。
「なに、が……」
「今までのことだ。お前が辛いのを判っていて、それでも俺はお前から遠ざかった」
「自覚……」
「あるに決まっているだろう。お前も俺とばかり居ては視野が狭いままだろうと思って。他の世界を知るべきだろうと、離れる決心をしたんだ」
「……なに、それ」
「ああ、ほんとうに俺はなにを考えていたんだかな。お前が厭じゃないのなら、俺はお前の側から離れるべきじゃなかったのに」
「俺はイザークしか知らないのに、何で厭だと思うの」
「……それだ。それが、あまり良いことだとは思えなかったんだ。俺が側に居るばかりでは出逢えなかった人と出逢って、知り得ないこともたくさんあるのだろうと」
「それは、イザークと一緒じゃだめだったの?」
「……だから、悪かった、と」
ぎゅ、と握る手が強張った。彼の表情は俯いていて見えない。
「きっと俺は怖かったんだ。お前の表情を引き出すものが俺以外にもあるのだと、側で見ることが怖くて、勝手にお前に自由だけ与えて、自分は逃げ出したんだ」
「………」
「だが、お前は世界を遮断した。俺はそれを、嬉しい、と。思ったんだ」
最低だ、と、彼は呟いた。
「イザーク?」
「俺は最低だ。自分から逃げ出しておきながら、お前が俺以外を選ばずひとりで居たことに、心から安堵した」
「………」
「悪かった」
……これは、何? ……何だか、良く、判らない。
イザークは、きっと、俺の気持ちに気付き、それを厭わしく思ったから去ってしまったと思っていたのに、違うのだろうか。何でこんなときにこんなことを云うのだろう。……その謝罪は、一体何に対するものなんだろう。
「もう、良い。良いよ、イザーク」
「アスラン……」
「良いんだ、別に。俺は厭じゃなかったし、別に怒ってるわけじゃない」
だってお前はそう云うけれど、結局戻っては来なかった。
俺があまりの寂しさに泣いたときだって、お前は他の誰かと遊んでいたんだろう?
俺にこんなことが起きてから初めて、俺の隠してきた表情に漸く気付くんだろう?
……総ては、今更だ。
俺が彼への気持ちに気付き、今こうして優しく震える指に云い様のない感情を覚えたとて、何が変わるわけも、無い。
イザークの温もりを掌に感じ取り、まるでそれだけがともすればどこか知らない遠い世界へ逃げようとする俺を現実に繋ぎとめるただひとつの楔のように想い―――そしてそっと、瞼を伏せた。
―――ねえ、イザ―ク。
好きだよ。好きなんだ。
けれどきっと、一生、お前がそれを知ることはないのだろう。
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