呵責の熱に苛まれながら
それでもまだ、永遠の先に在る夢を見つづけている
「……ごめん。変なこと、云った」
「そうじゃない」
「えっ、と。……ありがとう?」
「説教がましい小説の読みすぎだ。ごめんじゃないならありがとうだなんて、感謝の念が何処から湧くのか判ってない奴が云って良い台詞じゃない」
「えー……?」
「お前な……」
イザークはひとつ深いため息を吐くと、俺の手を取って項垂れた。その表情から最早怒りは消え失せていて、俺はほっとする反面、残された穏やかで優しげな感情の欠片に戸惑いを覚えた。
「……俺は、お前が大変なとき、出かけていて」
「うん」
「帰ってきたら家の中がばたばたしていて」
「うん」
「メイドが、俺の姿を見つけて慌てて何か説明しだしたんだけどとても要領を得なくて」
「うん」
「落ち着かせようと思ったんだが、その中でお前が事故に遭ったという言葉だけははっきりと聞こえて」
「……うん」
「そしたら、もうメイドを落ち着かせるとかいう問題じゃなくなって。俺の方が、慌ててた」
「……うん?」
「そこで不思議がるな。とにかく、その後のことは覚えてないんだ。何だか何も見えなくなって、気付いたら此処でお前の手を握ってた」
「手、を?」
「握ってた。繋ぎとめておきたかったから。……自分勝手な俺の我が侭で、お前が遠くに行ってしまうのは厭だったから」
「……何だか、良く、判らない」
イザークが何を伝えたいのか、良く判らない。ただ、前のように側に居てくれなくなったイザークが、それでも俺を心配してくれたんだということだけは気付いて、それだけが嬉しかった。混乱する中で、イザークの心の平穏のために、俺は生きていて良かったと思った。
「判らないけど、助かって、良かったんだと、思う。多分」
「……多分て何だ、多分て」
イザークの突っ込みを無視して、俺はイザークに据えていた視線を逸らせるついでにまた視線を廻らせた。
「俺、何か変になってるのかな。母さんには、会えない?」
「……今、小父さんが色々と駆け回ってる。お前の様子ももちろん見にきたよ。……ああ、忘れてた。小父さんにお前が目覚めたと伝えないと」
「イザーク」
「……明日の検査のこともあるから今夜は安静にしていないとダメだろうが、その後どうにかできないか聞いてみるから。だから……」
「判ってるよ。何だか、あの中で不思議な時間を過ごしたんだ。哀しいことを云うと思われそうだけど、その時に感情は清算された気がする。だから平気だよ。母さんの最期の顔を、見たいんだ。俺からは、腕しか見えなかったから」
何度も何度も、血と雨の匂いの交じり合う空間で名を呼び合った。けれど俺は多分どこかで気付いていた。あの、脳裏に焼きついた腕の白さは尋常じゃない、と。雨とオイルに紛れる血の量と色は、そこに生命を宿さない、と。
……薄っすらと気付いてはいながら、俺はそれでも縋ったんだ。
「……そうか。此処は病院だから携帯を使うわけにもいかないし、かと云って病室に公衆電話があるわけじゃない。小父さんと、それから俺の母も相当心配していたからせめて連絡だけでもしたいんだが」
「俺は大丈夫だよ。だけど、父上がそんな心配してるとも思えないけど」
「莫迦を云うな。俺は小父さんに必ずお前の容態に関して連絡を入れるように何度も何度も念を押されたんだ。打ちひしがれてる感じはしたけどな、それでもお前の部屋を出なければいけないときは名残惜しそうだった」
「そんな莫迦な」
「だからそれこそ莫迦だと云っている。いい加減認めろ。お前が無事で、皆喜んでる」
「……イザークも?」
「当然だ」
ああどうして。
如何してこんな時ばかり、彼は優しいのだろう。如何して一度放してしまった手を繋ぎとめるような言葉を、同じ唇から放つのだろう。
「イザーク……」
「何だ」
「やっぱり、行っちゃやだ」
―――ほら。
イザーク、君が優しくなんてするから。また、俺が我が侭で自分勝手でイザークを放さない嫌な奴になっちゃうじゃないか。
「ああ。それで良い。と云うか……良かった」
「え……?」
「泣きそうな顔で"大丈夫"だと云われてもな。平気だ、ここの院長はお前の父親と知り合いだから、心配しなくても、さっきの医師が伝えてくれるだろうさ」
「そう、かな」
でもイザークが、と云い掛けた俺を、イザークがそっと手を伸ばして俺の髪を撫でたことで遮った。
「それこそ大丈夫だ。例え一瞬でもお前を一人にさせたら、その方が却って怒られそうだ。あのときは気が動転してて俺にああ云い残して行ったが、小父さんも判ってくれるだろう。……それに、」
「それに?」
「それに、俺がお前を一人にさせたくなかったから。……お前がそう云ってくれて、安心した」
「イザーク……」
良いのかな。俺はぼんやりと思った。
甘えて、良いのかな。前みたいにして、良いのかな。
「やっぱり、ありがとう」
イザークがどうして俺の側を離れたんだとか。どうして今だけはこんなふうにいつも通りなんだろうとか。
そんなのは、随分とちっぽけなことのような気がした。
だから、俺は感謝というよりも懇願に近い祈りの気持ちでそう告げると、イザークは昔のまま、普段他人に見せている無表情からは信じられないほどの綺麗な笑顔を見せてくれた。
―――ああ。俺の視界が滲んでいて、その顔をきちんと見られなかったことだけが残念だ。白く霞がかったフィルターの向こう、彼がどんな表情で俺を包み込んでくれているのか、俺は知っている。知っていて、良かったと思う。知っていて、それでもやっぱり見たいと思う。
「無理はするなよ。疲れてるなら、寝てろ。―――俺は此処に、ちゃんと居るから」
本当に?
呟いた声は彼に届いたのかどうか、それは判らなかったけれど。その言葉があるから、眠るのは怖くない、と思った。彼の笑顔が迎えてくれるなら、目を覚ますことも、きっと、きっと怖くない。
例え目覚めた後にそのけぶるように耀く光がなくとも、俺はもうひとりで立って歩いてゆけるだろう。
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