一体なにが始まりだったのか、既に覚えていない
けれどひとつ確かなのは、此処こそが俺の罪の分岐点だった、ということだろう

















【 第2章 / 中等部2年・冬 / 崩壊 】










命の消えゆく様を、俺はこの目で見ていた。
―――見ていることしか、出来なかった。























 突き刺さった、一陣のヒカリ。
 ―――覚えているのはそれだけだ。
 気付くと俺の身体はなにかに圧迫されていて、茫洋とした意識の中、それは白いエアバックなのだと朧げに気付いた。
 此れが一体、何を守ってくれたのだろう。
 俺の周りには黒くて硬いものが取り巻いていて、原形など見えもしないけれど、雨に紛れて微かに匂うオイルに、此れはトラックだったものの一部なのだろうと考える。考える。只管に、俺はただ考える。……一体、何が起きた?
 再び視線を正面に戻すと、俺と同じように瓦礫に圧迫されたエアバックがあった。
 ―――此れが一体、何を守った? ―――ああ、俺を守ったのか。
 この小さなものに守られたはずの俺の足は一体何処にあるんだろうと思いながら、ひどく静謐な車内を見遣った。破壊されたそれを、車内と表現するのはどうかと思うけれど、其処は確かに、閉鎖された空間だった。
 街中を走っていたはずだから、人に気付かれていないはずはないのに。外には人が居るはずだと思うのに、此処は見捨てられた場所のように静かに朽ちかけようとしていた。


「……ラン。ア……ス…―――」
「―――え?」


 声、が。
 微かに、断続的に漂う声が、そうして俺が現状を把握したころになって漸く、俺の耳へと届いた。
 ―――きっと、ずっと、その声はこの空間の中を彷徨っていたのだろう。俺が意識を失っていた間、行き場所を見失いながら、それでもずっと漂っていたのだろう。


「母さ、ん?」


 そうだ。今日は、母さんと一緒に買い物に出たはずで。
 バレンタインが近いから、プレゼントを買いに行きたいのだと微笑んだ彼女に、俺は彼女の希望で付いて行ったんだ。
 そうだ、母さん。母さんは。
 もういちどきょろきょろを視線を彷徨わせたけれど、相変わらず其処にあるのは瓦礫ばかりで、隣りに坐っていたはずの母さんすらも、その瓦礫は隠してしまっていて。


「母さん? 無事なの?」


 手を伸ばせばすぐだったはずの距離が、今はこんなにも遠い。
 狭い空間で身動ぎすることは危険かもしれないとは思いながら、俺はそろそろと母さんが居るはずの方向を向き直って手を伸ばそうとして―――

 其処に、まるで置き去りにされたもののように横たわった、白い腕に

 ―――俺は、息を詰まらせた。


「母さん!?」
「ああアスラン、無事なのね。返事がないから、どうしたのかしらって……」


 暗闇。
 まだ夜ではなかったはずだけど、俺はそんな長い間意識を失っていたのだろうか。それとも、単に光が遮られているだけだろうか。


「気を失ってた。けど平気だよ、何処も痛くない。母さんは? 母さんは平気なの?」


 ぴくりとも動かない手。
 血の気の感じられない、真っ白な手。
 俺はその手を凝視しながら、しかし、頭だけは妙に冷静で、母さんの声だけを信じて母さんの言葉を待った。


「平気よ……アスラン、大丈夫よ……助けを、待ちましょうね……」


 掠れながら、それでもしっかりと瓦礫の合間を縫って届いてくる声に、俺はひどく安心して。その白い腕の下に流れる、どす黒いものと、背筋の凍るような香りに、気付きたくなくて。そっと目を閉じて、その声を身体中に響き渡らせた。
 けれど思ったよりも、声を出すという行為は力を使うものらしい。それだけの会話で体力を消耗してしまった俺と母さんは時折、絶妙のタイミングで名だけを繰り返し繰り返し呼びながら、時が経つのを待った。
 時間は恐ろしく緩やかで、或いは虚無と化していて、断絶された空間に漂うものは死の香りと、徐々に体温を奪う雨、それだけだった。
 雨は様々なものを洗い流す。俺が何かで切ったのか知らぬ間に流した血も、雨に紛れてもう見えなくなっていた。けれど色濃く支配する厭な香りだけは、掻き消してはくれない。雨と血の混ざり合った匂いは、ひどく背徳的で、何か得体の知れないものが身体を這いずり回るような感覚に苛まれた。
 ふと、空はどこにあるんだろうと考えた。瓦礫の合間をすり抜ける水の流れだけでは、雨がどこから落ちてきているのかが判らない。俺は椅子に坐ったままの体勢で居たつもりで、けれど、良く考えると反転しているような気もした。
 けれどそんなことはどうでも良い。そのときは間違いなく、俺の世界にあるものは母さんの手だけだった。
 俺は母さんの手を、奇跡を無邪気に信じつづける子供のように、ただじっと見ながら、段々と弱くなる母さんの声を聞いていた。
 母さんの声が途切れるたび、俺は身体の器官総てを叱咤して声を発し話し掛けた。繋ぎとめておくことに、必死だった。
 母さんの手は、指すら、一度も動かぬままだった。