一体何に対する救いか、一体何に脅かされていたのか、そんなことも判らないまま
ただ、突き刺すような優しさに身を浸し、罰を受けつづけている
「ついさっき窓から、体育館から出てく群れが見えた」
螺旋階段を降りながら、そっぽを向いたオルガがぼそりと呟いた。次の時間もここに居座りそうだったのを、俺がむりやり連れ出したから奴は今不機嫌の頂点に居る。
「……え、さっき? じゃあ一限潰れたのか。命拾いしたな、オルガ」
「うるせーよ。大体、お前から云い出したんだろうが」
「でも受けたのはお前だ」
「ああそーかよ……」
「今からなら紛れられるんじゃないか? お前が先行けよ」
「……いーや。優等生面のお坊っちゃんからドウゾ。マジで一日に二回も保健室行ってる保健室登校だと思われるぞ」
「面を強調するな。実際、体育を除けば優等生だ」
「男喰い荒らしてる優等生なんか聞いたこともねぇよ」
「まあそうだな。でも、優等生こそ裏で何やってるのか判んないもんだろ」
「自分で云うなよ……。実際図書館を私室化してるんだから洒落になんねぇぞ」
「その恩恵にあやかってる奴が何を云う。……男は連れ込むなよ」
いや、女もか。折角場所をつくってやったというのに、俺の安息場所をなくされたら堪ったもんじゃない。
「だーれーが! お前こそ、男どころか女の影もないくせに否定も何もしねぇからシャニやクロトが調子に乗るんだよ」
「あいつらも飽きないよなぁ。そもそも、何で共学なのにそんな噂がまかり通るんだろうな」
“男喰い”。その噂が広まった時期は、中等部の頃で、俺に色々起きた時期と一致する。それどころじゃないからどうでも良いしと思って放っておいた俺も俺だが、まさか高等部に入ってまでつづくとは思ってなかった。おかげで敬遠されて人が寄り付かないのは、人付き合いの苦手な俺にとっては助かったと云えば助かった。それにとりあえず、その噂にイザークが巻き込まれなかったことだけは良かったと思う。
「……それより、その噂をあてにお前に云い寄る男をどうにかしようと思わないのか?」
「ああ、こないだはあわや貞操の危機ってとこだったよ。ほんと情けない限りだけど、女の子に押し倒されそうになったこともあるし……。ちゃんと断ってるのにな。そんなに信憑性あるのか、それとも俺に隙でもあるのか……」
「……どっちもだろ」
「そうか?」
「ああ。そんで俺はそんな大人気のアスラン・ザラをデートに誘おうっつーツワモノだけどな」
「オルガ?」
「……前日。時間あるか? ああ、その後もだ。挨拶と、報告をしておきたい」
「……もちろん、それは俺も行きたいとは思ってたけど……お前は、俺と一緒で良いのか?」
「最後だから。きっと、一緒じゃないと意味がねぇと思うんだ」
「ふぅん……」
「で? お姫さんのお返事は?」
茶化すオルガに視線で非難して、俺はそれでも知らず間に詰めていた息を吐き出すと同時、苦笑しながら告げた。
「……良いよ。行こう」
「ん。じゃあ昼頃……で良いな。迎えに行く」
「判った」
「……これでも一応迷ってたんだ。良かった」
「何だ、お前の殊勝な態度なんて珍しい」
「悪かったな。じゃ、お前が先行けよ」
「ああ。ちゃんと二限は出ろよ?」
「判ってるっつの。ちゃんと時間差で出るからご心配なく〜」
「ったく……今度は呼び出す時もそのくらい慎重になれよ? ニコルへの云い訳が大変だ」
「あの坊や、結構鋭いからな。まあ、頑張れ」
何をだ。
しかしこれ以上オルガに突っかかって時間を潰すわけにもいかないので、俺は大人しく図書館を出た。刹那、肺に舞い込んだ涼やかな空気に、些かの妙な居心地の悪さを感じながら。俺は、ニコルをどう安心させれば良いかを悶々と考えていた。
*
「……さて。俺も出るかな」
アスランが出て行くのを、拭いきれない複雑な気分で見届けながら、オルガは一人ごちた。
「本当なら“男喰い”の噂がこれ以上流されないように、もーちょい時間稼ぎたいところだけど?
アイツのクラスで三人も朝礼さぼってましたなんてそれこそ怪しまれるだけだからな。このオルガ様が気を利かせてやろーじゃねぇの」
伸びをしながら、オルガはゆったりとあくまでも独り言をつづけた。そして扉に手を掛けたところで、不意に振り返って無人のカウンターを見つめる。
「―――まあ、お節介ついでに教えてやるかな。俺とアスランは噂を利用させていただいてるに過ぎない、単なる共犯者だ」
逢引には丁度良いし?
オルガはひらひらと手を振りながら、アスランに云われた通りちゃんと図書館を出て教室へと向かった。今はちょっとクラスメイトのシャニやクロトと会いたくない気もしたけれど、何より再来週は確実に欠席なのだから仕方がない。確かに単位は非常にまずいのだ。
まだぱらぱらと体育館から出てくる生徒を遠目に見届けながら、オルガは最短距離の道を選んで庭園の生垣へ突っ込んだ。
もともと空気の淀んだ図書館に、何とも後味の悪い余韻だけが残された。
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