記憶された痛みをひとつひとつ辿ってゆく、その行為は、まるで拷問のようでいて、
それでいて、救われるような気になっていた






















「なあ……良いの?」
「何が?」


 イザークとディアッカが話していた、入り口近くのカウンターのすぐ側にある棚には、雑誌類が置かれている。毎刊取り寄せているはずの各雑誌類は、しかし、いつからか忘れ去られ今ではすっかりプレミアがつくほど古いものしかない。きちんと保管されていれば良かったのに、紙は色褪せ風化していて、それが図書館の中の時の流れを如実に表している。

 ―――いや、そんなことはどうでも良い。

 とにかく、俺とオルガは、その棚の影に隠れていた。





 ニコルと自販機で飲み物を買おうとしていたら、お金を入れようとしたところで後ろから手を伸ばされ、先に小銭を入れられた。俺が戸惑ってるうちに、「コレ?」とミネラルウォーターのボタンが押される。
 困惑しながら振り返った俺に、オルガはシニカルに笑って「オゴルからさ、ちょっと付き合えよ」と云ってきたのだった。そして自分の分のコーラを買って、怪訝そうに睨んでいたニコルに「借りてくぞ」とか何とか云って俺を此処まで引っ張ってきた。人目につかないようにしてくれたことだけは感謝しようかと思う。
 何となく察しはついていた俺は、ニコルに「大丈夫だよ」と微笑みかけることは忘れずに、大人しくオルガに付いていった。引っ張って行かれた先が、図書館であることも予想済みだった。多分朝礼の時間内に済ませようと思ったのだろう、いつもならば奥まで行くはずが、今朝は入ってすぐの場所でオルガは立ち止まった。そして、いざ話そうとしたとき開かれた扉と第三者の気配に、咄嗟に隠れて―――会話を、イザークとディアッカの会話を、聞いてしまったと云うわけだ。





「お前がさ、直接云えば……」
「……今更だよ」
「…………」
「で、お前こそ話があるんだろ、オルガ? ―――ああ、もう一限間に合わないかな」
「手っ取り早く済ませるつもりだったけど……また後にするか?」
「ヤだよ、面倒くさい。ニコルも心配するし。サボリで良いだろ」
「お前、優等生面してよくもヌケヌケと……」
「優等生面だから、サボっても怪しまれないんだよ」
「そりゃお前は良いだろうけど……俺はちょっと単位ヤベーなぁ……」
「それこそ今更だな」


 笑った俺に、オルガもほっと息をついたようだ。


「何か……俺の所為だよな」
「利用させてもらったのは俺。オルガが気にする必要ないよ」
「お前……ほんとに、それで良いわけ?」
「だから、何が?」
「いや、だってよ……」


 云えないだろう、オルガ、その先は。そしてそれは優しさでもあり、残酷さでもあり、傲慢さでもある。
 誰だってきっとそうだ。俺に向かって、その先を云える奴なんか居ないだろう。その感情を纏めて同情と呼ぶことくらい俺はとっくに知っていたけれど、それ以上に心地の良い想いなど他にないこともまた、知っている。
 何の反応も起こさない俺に、オルガはあーっと叫びながら髪を掻き毟った。俺は大人しく、オルガが落ち着くのを待つ。判っている。大変なのは、周囲の方だ。判っている。
 暫くしてオルガはほっと溜息をつくと、俺を見ないままにきょろきょろと静かな図書館を見回した。


「……つか、流石にもう誰もいねーだろうな」
「さあ。探してみるか?」
「どうせなら篭るか。此処は声が響いて、誰も居ないとしても聞かれてるみたいで厭になる」
「同感だ」


 全体で四階建ての図書館の二階の奥に在る、グループ閲覧室は俺とオルガ専用の会談室だ。既に色々な俺たちの私物が置かれている。俺が鍵をつくったんだから、ばれる心配もない。きっと時折訪れる物好きや司書には、開かずの間として認識されていることだろう。図書館は見かけに寄らず読書好きのオルガのテリトリーだから、他にもそんな場所が数多くある。オルガの専用部屋にも俺が鍵をつけてやったから、どうせそこで良くさぼっていることだろう。
 今回は朝礼の時間だけで済ませるつもりだったが、一時間時間を潰すともなれば話は別だ。俺とオルガは途中で適当に本を見繕いつつ、秘密基地を目指した。


「あー、落ち着くなぁ此処」


 茶色の革張りのロングソファ(さすがに元からあったものだ)にどかっと腰を下ろすオルガに、俺はその斜め横に設置されたラブソファに腰掛けながら呆れたように声を出した。


「……そうか、それだけの時間を此処で過ごしてるということか……」
「だって此処以上に気兼ねなく寝られる場所なんか校内にないだろ」
「保健室のベッドは良いぞ」
「やだやだ。これだから保健室登校のお坊っちゃんは」
「悪かったな。どうせ今日も三,四限は保健室だよ」
「ああ、お前のクラスは体育かー……」


 俺の虚弱体質は、昔から体育での運動すら俺に許してはくれなかった。かと云って、見学のために寒い場所でじっとしてるのも辛い身体だ。だから、特別措置として保健室で自習が課せられていた。本当はそのときやってる競技のレポートやなんかを書かなきゃいけないんだけど、すっかり保険医と仲良くなった俺はレポートそっちのけで世間話や昼寝ばかりしている。


「俺も午後体育だ」
「体育はただでさえ授業数少ないからな。出れる時出とかないと、後で単位に苦しむぞ」
「……判ってるよ。どうせ、再来週は休まないとだからな」





「…………」


 ああ、話。
 そう云えば、オルガとは話があって此処に来たんだった。
 そうか、そう云えばもうそんなに時間が経ったのかと、俺はその会話からオルガの意図を悟って静かに納得した。


「再来週か」
「ああ。漸く、最終審判だ」
「……そうか」


 そうか。もういちど、何かに念を押すように俺は頷いた。それはまだ引き摺っている俺自身にだったのか、それとも神妙な顔をするオルガにだったのか、それとも全く別の、意識上に存在する何かだったのか、それは判らない。


「俺は絶対に見届ける。……例え体育の単位がヤバかろうともな」


 お前はどうする? と。オルガは冗談を交えながらも、置いてけぼりにされた仔犬が縋るように見せるような視線で、俺を見遣った。俺はその視線、其処に込められた想いを、しかと受け止める。


「行くさ。……例え、誰もそれを望んでいなくても」
「そんなことはない。すくなくとも、俺は望む。多分、あのひとも」
「有難う。でも、変な目で見られることは確かだろうな」
「……お前の親父さんは当然出るだろ? ……平気か?」
「と云うか……俺、この週末実家に帰ってたんだ。唐突に父上に呼ばれてさ」
「へえ? でもお前、今初めて知ったような顔してたよな」
「うん。今朝家出るときになって漸く、父上が何か云い掛けた。俺は土曜から居たんだから、それまで充分時間はあったはずなんだ。なのに顔を合わせたのは食事時くらいでほとんど話し掛けもしなかったし、今朝になって、やっと」
「あの親父さんらしいじゃん。タイミングはかってた様子想像すると笑えるけどな」
「でも結局、何も云わなかった。俺はどうせ、あのことについて話したいんだろうと思ったんだけど……違ったんだな」
「確実にこの件に関してだな。でもそれは、呼び寄せた理由にしか過ぎない。今朝云いたかったのは、きっと、お前が思った通りだと思うぜ」
「……でも、結局何も云わないで出掛けてった」
「ホントお前ら、不器用な親子だよなぁ」
「…………」
「そんで、それは俺らもだ」


 俺とオルガの関係は、非常に危ういバランスの上に成り立っている。共通した話題と、決して交わらない想いが、俺たちを引き合わせた。もちろん、その辺で噂されているような甘い関係では在り得ない。確かに隠れ蓑として大いに噂を利用させてもらったふしはあるが、通わせるような想いさえも俺たちは持ち合わせていないのだから。

 最終審判。

 本当に、それで終止符は打たれるのだろうか。中学の終わり頃からつづいたこの関係にも、名がつけられるときが来るのだろうか。
 俺は例えば今、オルガへどんな想いを抱いているのかと問われれば、“共犯者”に抱く想いだと答えることだろう。では、最終審判を終えたら、どうなるのだろうか。何かが壊れることは必至だけれど、何かが生み出されることはあるのだろうか。
 ――― 一体、俺たちは何処を目指しているのだろうかとふと考える。俺とオルガが見ている方向はいつも真逆で、意見なんか合うはずもないのに、どうしてか、目指す方向だけは一緒のように思えた。


「お前が居てくれて、良かったよ」


 このときばかり、俺の自我の境界線は曖昧になる。交じり合うはずもない俺とオルガの意識は、まるで同一のもののように溶け合う。だからその台詞をどちらが発したのかさえも判らなかったけれど、お互いがお互いそう思っていることは間違いなかった。


 その後は授業の終わるまで、二人思い思いのことをしながら無言で過ごした。俺はオルガに奢ってもらったミネラルウォーターを口に含みながら、その冷たさに、ひどく安心していた。
 冷気は、俺に彼を思い起こさせる。疾うに諦めた、けれど諦めきれなかった、彼を。


『責任感で一緒に居たってわけね』


 どうしてだろう。
 俺は、ディアッカのその台詞、そしてイザークが否定しなかったことにも、特にショックは受けなかった。
 やっと、俺は俺の望むものを手に入れたということだろうか。それとも―――……

 とにかく、ディアッカの云ったことに間違いはなかった。責任感の強いイザークは俺の身体が弱くひどい人見知りだったから俺と一緒に居ざるを得なかったのだし、俺はそうと知っていながらイザークを解放してやることはしなかった。

 そして―――あの時。

 総ての終わりであり、そしてまた終焉に向けて総てが動き出した、あの時。
 あの時から、イザークは今度は罪悪感で俺を振り切ることができない。彼に中途半端な態度を取らせているのは他でもない、俺自身だ。そして俺はそれを甘美な毒として受け入れている。
 致死量には未だ至らない、その毒に俺はただ酔いしれる。既に常習性をも持つそれを飲みつづければ、辿り着く先は―――破滅。それだけだ。





 ――――イザーク。
 そうすれば、お前は解放されるから。俺からやっと解放されて、お前の在るべき場所へ還れるから。俺が引き千切ったお前の翼を、あともうすこしで返してあげよう。それさえあれば、お前は何処にだって羽ばたける。何処にだって―――あのキラの元にだって、行けるから。
 だから、あとすこし。あとすこしだけ、責任感でも罪悪感でも何でも良いから、



 俺に夢を見させてよ















「……時間だぞ」
「ああ……」


 身体を折り畳んで蹲った俺の肩を、戸惑いがちにオルガの手が叩いた。


「泣いてないよ」


 顔を上げた先に在ったオルガの顔が、無関心を取り繕いながら心配げな感情を撒き散らしていたから、俺は微笑んでそう答えた。


「でも、泣いてるように見える」
「そっか……終わるからかな。もうすこしで」


 多分今、俺以外に俺のことを一番良く知っているのは、オルガだ。だからその言葉に幾重にも込められた意味を、恐らく総て悟っただろう。


「……終わらない。終わらせないさ」
「…………」
「終わるように見えるけど、また総ては其処からつづいてく。そして、俺は今度こそちゃんと向き合う。―――アスラン、お前も」

 そうだろう?


 その無言の問いかけに、俺は答える権利さえも持っていなかった。