ずっと、夢を見ていたのだろうと思う
そして、今は、その夢を辿っているだけなのだろうと、思う

















【 第1章 / 高等部2年・春 / 日常 】










 部屋全体が映りそうなほど大きな姿身に、軽い違和感を覚えた。
 全く無駄の多い家だと、帰る度に思う。それでもついこの間まで、俺はずっとこの無駄を享受して過ごしていたはずだ。それなのに離れていた今、違和感を覚えるというのは意外にも俺の順応性は素晴らしいものだったということだろうか。


(……ただの貧乏性かな)


 ひっそりと嗤って、ネクタイを締める。多少いびつではあるけれど、俺が自分でやったにしては充分合格点だ。
 全く毎日毎日繰り返している単調な作業の一環はずなのに、ちっとも上達の兆しを見せないのはどういうことだろう。まさか、その歪みを指摘し、且つ直してくれる存在を期待しているわけじゃあるまいしと、今日は環境が違ったから調子が悪いだけだと自分自身に云い訳をした。いつもと同じ環境だろうと何だろうと、どうせできないものはできないんだけど。
 何にしろ、ネクタイばかりに時間をかけているわけにもいかないのだった。今日はいつもよりも数十分早く家を出なければならないし、食べたくもない朝食を食べなければならない。いつものようにひとりで過ごす朝の数倍、忙しいのだ。
 総て身支度を整えてから、慌てて重いドアを抉じ開けて廊下へ踊り出た。意味もなく煌びやかな内装に、一瞬くらりとする。決して色合いが派手というわけでもないセンスの良い調度品は、しかし、俺のつつましく生きたいと祈る心をわけもなく掻き立てる。
 それでも何とか持ち直して、エントランスの正面に聳え立つ階段をみっともなくばたばたと駆け降りたところでハッとして動きを止めた。
 右手にある食堂から、父がスーツの上着を腕に掛けネクタイを締めながら悠然と闊歩してきた。


「朝から慌しいな、アスラン」
「父上。―――おはようございます」


 眉間に寄っている皺に一瞬身を竦ませたけれど、どうせそんな表情はいつものことだと思い直した。


「ああ」
「もう、お出かけですか」
「遅いくらいだ。お前も遅刻しないよう、早く用意を済ませて出なさい」
「はい。―――行ってらっしゃい」
「ああ、アスラン」
「何でしょう?」


 父はするすると深い青色のネクタイを操って、綺麗に結んで見せた。
 俺の脳裏に、やっぱり不器用な父に母が「仕方ないんだから」などと微笑みながら、ネクタイを直してあげている光景が甦った。あの堅物の父にも苦手なものはあったのだと、奇妙な安堵を覚えた記憶が沸き起こる。
 もう母は居ないというのに、父は完璧に身支度を整えていた。後ろでメイドが慌てて上着を受け取って着せようとしていたけれど、自然な流れで無視をしている。あの役目はいつも母が果たしていたはずで、そして父もそれを受け入れていたはずで、俺はほんの少しの違和感と寂しさを感じた。
 父は母が居ないからひとりでも出来るようになったんだろうか。それとも、始めからあのくらいひとりでも出来ていたんだろうか。
 意味のない問答だとは気付いていたけれど、何となく父が口を開くまで俺はそんなことを考えた。


「……何でもない。もうすぐ試験だろう。―――体調管理は、しっかりするように」
「はい」


 父は複雑そうな表情でそれだけ云うと、俺の返事も待たず身体を翻して出て行った。
 その表情の意味するところくらい、俺は何となく察しがついたけれど。そして、それでもあの態度が父なりの精一杯の譲歩なのだと、そう思うけれど。


(『何でもない』って云いながら、試験だとか取り繕ったようなことをつづけるなんて、そんなの……)


 何か他に云いたいことがあったのだと、云っているようなものだ。
 そして、昔から会話の少ない俺たち親子の間で交わされる言葉など、ひとつしか思いつかない。特に、今この状況ならば尚更だ。
 どうせ俺には答える気などなかったのだから、助かったと云えば助かったのだけれど。父があそこで何か云ってくれれば、何かが変わったかも知れないと、そう無責任にも考える。どうせ俺からは何も変える気はないのだと、そんなことは厭というほど自覚はしていながら、それでも考える。俺はやっぱり、期待している。
 何か―――そう、何か、この陰鬱と過ごす日々を変えてくれる何かが。若しくは、変えてくれる誰かが、現れてはくれないだろうかと。浅ましくも、俺はきっと願っている。
 すこしの間俺はそんなことを乱雑に考えながら、父の出て云ったドアを何とはなしに見つめていた。
 その間もずっと呼びかけていたらしいメイドに急かされて漸く時間に気付いた俺は、慌てて食堂へ向かい、申し訳ない気はしながらもスープだけ食べることにした。本当はコーヒーだけで充分なのに、昔から身体の弱かった俺を気にしすぎるほど気にしている古参のメイドは、まるで己の息子を見るかのような顔をして「それでも少ない」と零しつづけた。
 彼女の好意は、時に重荷に感じることはあれど俺は素直に嬉しく思っている。感覚としては二人目の母親だ。だからこそますます居た堪れなかったけれど、いつもは水分すらも抜く朝食をこれだけ食べているんだから俺にとってはこれが最大級の譲歩だ。
 ともすればスープだけでも吐き気のする身体を叱咤して、「ごちそうさま」と手を合わせて俺は学校へと向かうべく食堂を出た。
 彼女は食器を片付けることもなく後をついてくる。それは予想されたことだったから、俺は何も云わなかったし、扉を開ける直前に彼女に向き直った。


「じゃあ、行ってくるよ」
「……次は何時、お戻りになられるんですか?」
「さあ。父上に呼ばれた時かな」
「そうですか……。御当主様も仰ってましたけれど、体調管理にはくれぐれもお気をつけくださいね」
「判ってるよ、大丈夫。心配し過ぎだって」
「はい、申し訳ございません。けれど私は、坊ちゃまのお帰りを何時でも待っておりますからね」
「有難う。婆やも、元気で」
「そんな長い別れのような言葉など仰らないでください。またすぐにお会いできますでしょう?」
「……そうだね」
「そうなんです。では、行ってらっしゃいませ」
「行って来ます」


 こう、見送られることは。歯痒い気がして苦手だけど、割に嬉しいものだと思った俺は素直に彼女の言葉を受け取って、家を出た。慕われていることは嬉しいんだけど、道路まで着いて来るんじゃないだろうかという勢いのメイドたちを何とか押し止めることに苦労したおかげで、朝から身体は疲労を訴えている。特に執事は学校まで送ると云って聞かなかくて大変だった。俺はずっと昔から其れを厭がっていたはずで、自分で歩いて行けると云っているのに毎朝毎朝、彼とは口論になるのだ。そんな昔を思い出して、ふと笑みが零れた。
 玄関から門の間まで、庭園の広がるそこは結構な距離がある。もう既に疲れたかも知れないなどと思いながら振り返ると、もの惜しそうな表情でまだメイドたちは手を振ってくれていて、俺は複雑な気分で手を振り返し、今度こそ前を向いて学校へ向かった。
 駅まで歩いて五分ほど。学校の最寄駅までは、そこから電車で十分。俺の通うザフト学院は名門中の名門で、ザフトに通うためなら距離など厭わないというひとは多いのだから、俺はこれでも近い方だ。俺はそのザフトに、幼稚園から通っている、云ってみればエリートの存在だ。その多くは自宅から高級車で送迎つきだが、あまりそういうことを好まない俺は、常識を身に付けるべきだという意見を持つ母の助言もあって、小さい頃からずっと電車で通っていた。自分の家柄が良いというのは一応自覚はあるし、人の上に立つ者としての態度を父に半ばむりやり身に付けさせられたけれど、そんな日々は俺をひどく疲れさせた。俺はどちらかというと慎ましく生活する方が性に合っているのだと思う。高級住宅街の此の街はその嫡子のほとんどがザフトへと通ってしまうため、邸宅数の割に公立の学校はすこし離れているのだけど、俺は寧ろ寄付金だの無駄にお金を掛けていないで普通に公立に通いたかった。多分、昔忙しい両親に代わって母方の祖父母に育てられたことが原因なのではないかと思う。母方の実家は華族の流れを汲む、いわゆる旧家というやつらしいけれど、老夫婦だけで住んでいるということもあって派手な生活とは無縁だった。多分、そこで大方の感覚を身に付けてしまったのだろう。おかげで、今門から自宅に沿って走る公道に出たはずなのに、まだ見えるものはザラの屋敷のみ、という状況にも辟易してしまう。
 それでも、顔を上げた先につづく並木道は久しぶりで、朝露に濡れた木々は自宅の部屋よりも俺の存在を優しく迎え入れてくれている気がした。一本一本に挨拶するように、路を踏み締めながら駅まで向かう。ザラ家の敷地を抜けたあたりでふと上げてい頭を擡げると、隣家の門で、何かがキラリと耀いた。それはあちこちで朝陽を浴びて光る葉の合間を縫って、真っ直ぐに俺の目に飛び込んできた。

 ―――彼だ。間違いない。

 遠目からでも、はっきりと俺は彼の存在を認めることが出来る。
 だってそれだけの時間を一緒に過ごしたから。それだけの時間、俺は彼を見つづけていたから。……人ごみの中から彼を探し出す能力は、俺の密かな自慢だ。
 今では誰に語ることも出来ない、俺だけの、俺のためだけの、そんなちっぽけな誇り。けれどそれは俺にとって大きな宝でもある。


「イザーク……」


 そっと、驚きと嬉しさを声に乗せた。届かなかったのならそれはそれで良い、そう思いながら。
 けれどイザークは朝の静謐の中に俺の声をしっかりと聞き届けたらしく、怪訝そうに振り返った。


「―――何だ、貴様か」
「何だって、何だよ」


 イザークと俺とは家が隣で、親同士も仲が良いから、小さい頃は良く一緒に遊んだ。当然のように、生活に余裕のあるイザークも学校が一緒だ。昔から何をするにも一緒で、学校だってイザークも一緒に電車で通っていたけれど、ある一点を隔てて余所余所しくなった関係は、今ではすっかり修復不可能なんじゃないかというところまで来ている。

 ―――喧嘩だとか、無視しているだとかなら逆に良かったんじゃないかと、そう思うほどに。

 俺は綺麗で格好良くて、優しくて、病弱な俺をいつも守ってくれたイザークが大好きだった。今でも好きだ。一緒に居られることを誇りに思いもした。そう思えるくらい、イザークは格好良いし皆の憧れの的でもある。イザークも何より俺を優先してくれていたから、決して想いは一方通行ではなかったはずだ。
 それなのに今の俺とイザークの関係は、単なるクラスメイト、否、挨拶を交す程度のクラスメイト、だ。それでもよほどのことがない限り話をしないどころか視線も交さない。きっと学校で俺とイザークが幼馴染ということを知っている人間なんて、ほとんど居ないだろう。初等部が一緒だった奴だって、俺たちが仲良かったことなんて忘れているに違いない。その割に、いざ話そうとするとすくなくとも表面的には昔とあまり変わらぬ空気が取り巻くので、俺はいつも混乱しかけた。
 俺は数少ない彼との会話の機会が廻る度、毎回毎回、ああ普通に話せていると安堵する。―――話をすることが出来たと、心の底から嬉しく思う。
 だけど、呼び方が「お前」から「貴様」になったのは、一体何時からだっただろう。
 俺の胸に、身を凍らせるような冷たい風が吹いた気がした。


「いや、貴様はいつもギリギリに来るだろう。朝に顔を合わせるのは久々だと思ってな」
「……君が早すぎるんだよ」
「俺は普通だ。―――今日は早いんだな」


 ク、と口端を吊り上げる貌は、それこそ良く見たものだけど。あの頃と同じ表情のはずなのに、どうしてこんなに、感じる温かさが違うんだろう。今の彼は彼という存在を引き立たせる銀髪と朝の気温そのまま、まるで氷のように冷たい。
 ……いや、忘れよう。俺は動作には出さず頭を振った。秘訣は動じないことだ。イザークに何を云われたとして、こんなものだと思い込むことだ。とっくに、あのときからとっくに、イザークの優しさなど諦めている。
 そんなことより、俺は結構危ないかも知れないと思っていた時間だったのに、まだイザークが出る時間だったのか、とむりやり話題を逸らせた。俺はどうも、学校までの時間さえ忘れているようだ。そう考えて、ふと気付いた。

 ―――そうだ。彼にはまだ、云っていなかった。


「―――ああ、云ってなかったっけ」
「何だ?」
「俺、家出たんだ」
「……はあ?」


 常ならば優勢を保とうと余裕の構えを崩さない彼の態度が、久しぶりに瓦解した。慌てた気配など、彼が隠そうとしていても俺は昔からこっそり察知したものだったけれど、こんなにあからさまに俺の前で崩すのは初めてじゃないかと思うほど久々だ。
 紛れもない焦燥と困惑がそこには見て取れて、俺は己のささやかな野望が成功したことを悟った。


「どういうことだ」
「そのままだよ。あ、家出したわけじゃないからな。父上が用意してくれた部屋で、今は一人暮らししてる」
「…………」


 目を見張っただけの彼は、けれど内心は、表情以上に驚いているのだろうと判った。こういうことだけ、俺はまだ敏感なままですこし厭になる。そんな、イザークの感情の見分け方だなんてそんなこと、忘れてしまえば俺はきっと今こんなに苦しんではいなかっただろうに。


「今日はちょっと帰ってきてたけどさ、ほとんどそっちで暮らしてるから。顔を合わせないのも当然だよ」
「……いつからだ」
「んーと……高等部上がって結構すぐ、だったかな」


 俺たちは今二年生だから、越してからそろそろ一年になるのだけれど、何だか随分と前のことのように思えた。実際実家が懐かしいような、自分の部屋が他人行儀なような気さえした。
 云うのをすっかり忘れてました、というように振舞ったけれど、俺がイザークに家を出たことを話さなかったのはわざとだった。どうせ普段から偶発的にしか話などしないのだから、教える必要性もないのだけど。かと云って、隠しつづけるのも意識しているようで問題だ。だから、今日は素直に話した。久々にイザークと会話できたというその事実が、俺を饒舌にさせただけかも知れなかったが。
 まあ、驚いてくれたから良しとしよう。満足する反面、こんなことで彼の感心をひく自分がとても惨めにも思えたけれど、俺自身がそういう生き方を選んでしまったのだから仕方がない。


「良く許したな。あの小父さんが」
「反対するどころか、逆に二つ返事だったよ。云い出したのは俺だけど、仄めかしたのは向こうからだったし……」
「まさか」
「嘘ついてどうするんだよ。すれ違ってばかりだからね。この方が、助かるんじゃないかな」
「…………」


 イザークは、俺の家の事情を知っている。元より折り合いはあまり良くなかった俺と父が更に険悪になったあのとき、既にイザークは俺の側を離れた後だったけれど。あの時だけは、同じように側に居てくれた。昔を除けば、後にも先にもそれ一度だけ。その時だけは、イザークは昔以上に優しかった。
 あれ以来この話題に触れることはあまりなかったから気付かなかったけれど、イザークはイザークなりに気にしていたようだ。数秒黙り込んだ後、「悪かった」と、ぼそ、と呟いて顔を背けた。


「謝る必要はないよ。俺だって、ほっとしてるんだ」
「おい?」
「気ままな一人暮らしだから。学校からも近いしね。有難いと思ってる」
「そう、か……」
「うん」


 俺はきっと、このまま気まずい無言がつづいてしまうんだろうと思った。ならば、俺から適当に云い訳して隣を去った方が良いんだろうか。きっとイザークもその方が助かるんだろうけど、俺は動けなかった。まだ一緒に居たかった。そのくせ、何を云ったら良いのか判らない。俺とイザークの間に横たわる距離は遠すぎて、同じクラスだと云っても共通の話題すら見当たらない有様だ。
 俺が悶々としていたのは、それでもきっと数秒にも到らなかった。思いもかけず隣で口を開く気配がしたから、俺は思考回路を凍らせて、まるで死刑宣告を待つ罪人のように、イザークの言葉を息を詰めて待った。
 ―――罪人。
 それは咄嗟に出たようで、今の俺をまるでそのまま表現した例えだ。


「……お前のことだから、どうせ冷蔵庫は空なんだろう。その割に、惣菜のパック類のごみばかり溜まっているんだ」
「……それは家の皆にも云われたよ……」


 やっぱりな、と云って微笑った、イザークの表情が。まるで仕方ないな、といった、慈愛の表情だったから。“貴様”じゃなくて、“お前”と云ってくれたから。
 俺は泣き出してしまいそうで、必死に顔を背けた。俺の気持ちを汲み取って、折角イザークがさりげなく話題の矛先を変えてくれたんだ。イザークに気分を悪くされないように、そこで会話を終わらせられないように、自然になるように必死に


「何で皆そう思うんだろう……」
「日頃の行いの所為だ。しかも当たってるからお前も文句が云えないんだろうが」
「う、そ、それはそうなんだけど……」
「ほらな。もっと体調管理はしっかりしろ」
「うう……それこそ皆口を揃えて心配された……」


 そう、話題を逸らした先の会話とは云え、父上が云ったその台詞も本心なことは間違いないのだろう。それが、不器用なあのひとなりの、譲歩なのだろう。


「それは何と云うか……お前、少しは成長したらどうだ」
「失礼な」
「全く……そんな奴が一人暮らしなんて、大丈夫なのか本当に」
「自分ではそれはもうしっかり出来てると思うんだけどなぁ。ちゃんと朝も起きれてるし」
「……ああ、それで最近余計朝遅いんだな……」


 俺がギリギリに登校することを、毎朝早めに登校して既にクラスメイトと盛り上がっているお前が何で知ってるんだと。少しは気にかけてくれているのかと嬉しくも思ったけれど、直接訊ねることは怖くて出来なかった。


「そうか? 間に合ってるんだから良いじゃないか」
「お前は……」
「あ、イザーク! おはよ!」


 自然、一緒に来ることになって話しながら一緒に電車に乗り込んだ俺たちだったが、学校まであと二駅、というところで声を掛けられた。
 顔を見ずとも声だけで悟ってしまう己が、いっそ憎い。俺の身体は凍りついたように総ての動きを、呼吸すら、止めてしまった。
 ―――出来ることなら、聞かずに過ごしたい、声だ。


「あ、えっと、アスラン……君。え、一緒に来たの、イザーク? ごめん、邪魔しちゃったね」


 声の主がきょろきょろと視線を俺とイザークに彷徨わせる間に、俺は何とか気を取り直した。気付かれないように、止めてしまった息を深く吐く。


「そんなことないよ、ヤマト君。俺こそごめん」
「え、何が……?」


 きょとん、としてイザークの隣に落ち着き俺と対面するその男――キラ・ヤマトに、俺は内心苦々しく思いながら挨拶をした。


「おはよう」
「あ、うん。おはよう!」


 にこりと。微笑んだ俺の内心を、もうイザークにも悟らせない自信がある。俺は嫉妬と絶望と羨望と、そして微かな希望の果てに、この術を手に入れた。昔は俺の猫被りを簡単に見破ったイザークでも、今はもう全く判らないだろう。俺はイザークの感情の機微を悟ることが容易だけれど、イザークは俺の思惑など、きっと読み取れやしないだろう。


「じゃあ、俺はこれで」
「え、何で。折角一緒になったんだし……何か話してたんでしょ? あ、僕の方が邪魔だったかな……」
「おい、キラ」


 立ち去ろうとするキラの腕を、不機嫌な顔で引き寄せたイザークが可笑しかった。本当、笑えるくらいに可笑しい。けれど此処で笑ってもきっと泣き笑いにしかならない。それに何より、ここ数年の俺の努力がふいになってしまう。だから、耐えた。
 それでも、数年前まで、俺はあの位置に居たのかなとぼんやりと思う。――今はヤマトが我が物顔で鎮座する、あの場所に、俺は


「……偶然一緒になっただけだし、気にしないで良いよ」
「そう……? あ、じゃあアスラン君も一緒に行こうよ」
「え、いや俺は……」
「折角同じクラスになったのに、ほとんど話したことないからさ。折角の機会じゃない」


 でかしたイザーク、と微笑みかけるソイツに、舌打ちしそうになる己を止められそうにない。
 俺が望むものはただ穏やかな日々、それだけで、お前が居るような明るく騒がしい場所など欲しくないと云うのに。


「そんな……俺、邪魔だろうし。それに、知り合いを見つけたから」
「え……」
「じゃあ、また教室で」


 今度こそ止められないように颯爽と手を振って、返事も待たず都合良くドアの開いた電車から身を躍らせた。
 どうせ社交辞令で云っているのだから、今ごろほっとしているんだろう。―――それはヤマトだけじゃない、イザークも。
 自分で決めて、そして覚悟をしておいたはずなのにそれでもつきんと痛む胸を抑えながら、俺は振り切るように視界の中、淡い緑を探し当てた。


「ニコル!」
「……え? アスラン?」
「おはよう」


 駆け足で歩み寄って、何故か呆然としているニコルの横へ並ぶ。ニコルは、クエスチョンマークを頭に浮かべて見遣る俺を数秒はじっと見て、それからはじけるように声を上げた。


「おはようございます!」
「……どうしたんだ、ニコル」
「だってアスランから声を掛けてくれるなんて、嬉しくて」
「え……そんな、珍しいことじゃないだろう?」
「そんなことないです。いつも僕ばっかり追いかけてるから、不安だったんですよ。ああ良かった!」


 満面の笑顔で喜ぶニコルに、俺は多少の罪悪感と、そして多大な感謝と嬉しさを感じた。
 俺の存在をこんなに喜んでくれるひとはと問われれば、俺はきっと、真っ先にニコルを挙げるだろう。間違いなく、俺はニコルには救われている。だからこそ、俺は一人で過ごすと決めたのに、ニコルとだけは学校生活を共に過ごしている。
 本当、自分の覚悟がこんなにも弱々しくて悔しくもなるけれど。それでも俺は、ニコルの優しさと無邪気さに感謝していたし、そして同時に利用もしていた。
 ―――ごめん、と心の中でしか謝ることしかできない。ニコルほど良い子なら、きっともっと、俺なんかよりニコルのためになるひとが側に居てくれるはずなのに。それでも俺は、一度知ってしまった温もりを、自分から手放すことがどうしてもできなかった。
 矛盾している、と思う。
 俺は、俺の身勝手な願いのために、たったひとつを残して総て棄てようと決めたはずだ。或いは、総て、失くしてしまったはずだ。
 それなのに今になって俺を繋ぎとめるものがたくさんたくさん出てきて、それらを俺は切り捨てられずにいる。本当に莫迦な話だ。
 難しい顔になった俺を、ニコルが心配そうに見上げていた。


「どうしました、アスラン?」
「……いいや、何でもないよ」
「そうですか? 今日は朝礼ですからね。まだちょっと時間あるし、講堂行く前に自販寄って良いですか?」
「良いよ。俺も喉渇いた」


 何だか今日は、朝から色々あって疲れた。喉の渇きはきっとその所為だろうとごまかして、上機嫌なニコルの後を付いて行った。