Re;volver
星と野良犬


マリアンヌの助言に従って廊下を進み、じわりと湿度の高い温室を抜けると、そこにはまるで別世界のような庭があった。先ほどまでお茶会をしていた中庭ともまた趣きが違う。
まるで絵本の中みたいな景色に圧倒されてしまう。
マリアンヌは薔薇の植えられた迷路と云っていたが、そこに広がる景色は、マリアンヌの台詞を受けて浮かべていたスザクの貧相な想像とは全く異なっていた。
白い石を敷き詰めた通路が温室から婉曲しながら伸びていて、その道に沿うようにして流れる小川の先では、小さな噴水が陽光を反射して水の光を煌めかせている。噴水の下は泉になっていて、その端にはどこかで見たことのあるような金のライオンのレリーフが水を吐き出している。
アリエスの離宮に入ってすぐスザクを出迎えた、あの立派な庭を小さくしたようでいて、それよりもずっと凝った造りだった。
マリアンヌが薔薇と云った通り確かに植えられているのは茨が多かったが、それだけというわけではなく、かと云って無秩序に伸び放題でもない。迷路を形作るために細かい計算の上で手入れされていることがスザクにさえ一目で判った。 だが、造り込んだ印象の割には、不思議と来る者を拒むような雰囲気はなく。
圧倒されながらも、いまはかくれんぼ中なのだという意識がスザクを前へと進ませる。訳のわからないうちに加わることになってしまったただの遊びだが、罰ゲームは怖い。一体何をさせられるのか判らない上に、そう云ったときのマリアンヌがものすごく愉しそうだったからこそ。
わずかな焦燥感さえ抱きながら辺りを見回しているうちに、迷路とは云っても、確かにマリアンヌの云うように難しい造りではないようだということが判った。木々に阻まれた通路も幅は広いし、分かれ道になっても、片方は行き止まりだとすぐに判るようなくらいだった。それほど入り組んでいるわけでもなさそうだし、方向さえ覚えていれば、迷い込んで出て来られなくなるということもないだろう。
ただ茨やその他の木々の背は高く、スザクにはどのくらいこの迷路が広がっているのか全貌を掴むことができない。
だが視界の先で、ひときわ背の高い木が伸びているのが見えたので、まずはそこを目指すことにした。
その木には、りんごのような色をした果実がたわわに実っていて、良い目印になる。ほぼ見上げるようにして目指した結果、唐突に開けた場所に出てから、スザクは呆気に取られた。


「すご……」


周囲の地面は芝に覆われているのだが、スザクの歩いて来た通路から先、広場の中央の地面は、今までの道に敷き詰められていたものとはまた別の石材で覆われていた。スザクの視界にギリギリ収まるくらいの広さで、正方形をしている。
そして、その地面の上にはチェス盤を模したオブジェが置かれていた。チェスに造詣があるわけではないが、さすがにこの駒と盤は見たことがある。
駒はスザクの背と同じくらいの大きさで、ナイトの頭はスザクよりも大きかった。
苔のようなものが生えているが、放置による汚れなどではなく、これもきっと計算の上なのだろう。何より、まるでチェス盤のように色の濃淡の異なる石によってクロス模様の施された地面は、磨き上げられてぴかぴかだ。
いくら好きにしろ、と云われていても、さすがにこの上を土足で堂々と歩いたりなんてできない。
しかしこのままここに居ても、迷路の入口からほぼ一本道と云っても良いくらい判りやすい道を通って来たので、まったく隠れられてなどいない。仕方なくスザクは、周囲の、チェス盤で云えば枠の部分をそろりそろりと歩きながら、その周りを見回した。
スザクが来た道を含め、チェス盤の四方にそれぞれ迷路の入口のような通路が延びていて、どうやらここは行き止まりではなく、むしろ迷路の中央付近のようだということが判った。
戻るのも何だし、進んでみようか……それとも、このチェス盤の中に足を踏み入れて良いのだとしたら、駒の影に身を潜めるだけでも、十分ナナリーの目からは隠れられそうだ。
と云っても、もちろんそれはこの中に足を踏み入れられれば、の話で……
もしこの場で、入って良いよと云われても、土足のままで簡単には入れないような雰囲気がある。どうしようか。
迷いながら視線を転じた先、いつの間にか近付いていた、来たのとは別の通路の先で、人工的な建物のようなものが見えた。
東屋か何かだろうか?
まだあっちの方が良いかも知れない、そう判断したスザクは、ナナリーがこちらに来るような気配がないことを確かめてから、そちらの方へと歩き出した。




















想像した通り、辿りついた先にあったのは東屋のようだった。
六角錐の形をした青い屋根から漆喰の塗られた柱が伸びていて、大人の腰くらいの高さから下は木枠が取り付けられている。それほど大きくはなく、中には鉄製の円いテーブルと、三つの椅子が設置されているだけだ。
レース模様をしたテーブルの上には、一冊の本が置かれていた。
重厚なハードカバーの分厚い本で、表紙が開いたまま置かれているので、ときどき吹く風にページが攫われている。しかし風化したような様子はないので、ずっと置き去りにされているわけではないらしい。
はて、と思いながら更に視線をきょろきょろと転じると、その更に先に、ひらけた場所があることに気が付いた。
なだらかな丘のように盛り上がっていて、一面を芝生で覆われた頂上にはまた別の木が植えられている。
死角の関係でどうやら今まで歩いてきた場所からは見えにくかったらしいが、この辺りでは一番高台にあるようだ。
いくら高い場所にあるからと云っても、いままで見えなかったということはそこに登ったところで迷路の全体が見えるわけではないのだろう。
だがなんとなく、高いところの方が安心できそうだな、と思って、スザクはそちらに足を向けた。もしナナリーが来たのが判ったら、あの木の根元に隠れれば良いだろう。
そう考えながら、そうして段々と近付いてゆく木の根元。

そこに、何かが転がっていることに気付く。

なんだろう、と疑問に思う気持ちに吸い込まれるようにして、歩いてゆく。最初こそ不気味に思い、けれどどうしてか、いくばくかの興味を引かれながら。
黒っぽい色をしたかたまりという最初の認識から、近付くにつれ、段々とそれはかたちを帯びて行く。 細長い、と思っていたものが、どうやら人の腕と伸ばされた足のようだと理解してゆく。
そうして恐る恐るではありながら、けれど不思議と引き返そうとは思えないまま、スザクはその人の前に立った。
木の根に頭を預け、目を閉じているそのひとは恐ろしいほど白く透き通った肌をしている。一瞬本気で人形か、いっそ死体かを疑ったが、静かに耳を澄ませば、丘を吹き抜ける風に混じり、すう、と微かな呼吸音が聞こえ、注視した胸がゆっくりと上下していることに気がついた。
寝ている……のだろうか。こんなところで。
閉じられた瞼の上に、簾のように黒く真っ直ぐな髪がかかっていて、不意に吹いた風に攫われた髪はさらさらと靡いて、触れたらきっと気持ちが良さそうだ。
風によって露になった眉も、目も、鼻も、口も、肌も、髪も、総てのパーツが完璧だと思った。位置と云い、形と云い。その瞳が閉じられていてさえそう思うのだから、瞼を開けたら一体どうなってしまうのだろう。
ユーフェミアに始まり、マリアンヌ、ナナリーと随分と美形の皇族たちを間近で見て来てそのたび魅入られてしまったが、ここまで心臓を鷲掴みにされたような感覚になることはなかった。
一体このひとは、と、すっかり凍り付いていた思考を稼働させようとしたタイミングで、ずっと見つめていた口から「ん…、」と声が漏れる。


「あ……」


咄嗟にスザクの口からそんな慌てたような声が出てしまって、それはとても小さい声だったけれど、まるでその声に反応するように麗人がぐずった。
そして、ふ……と開かれる瞳。焦点の合っていなかった視線が、この場で異物でしかないスザクに段々と合わさってゆく。
その視線と、ぶつかり合って。

心ごと、身体を撃ち抜かれたような気がした。