Worse on Friday, |
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ぽた。 一度崩壊すれば、後は早い。ぽた、ぽたり。紅き水滴は先人の軌跡を辿って、床を染め上げる。 アスランが感情の赴くままに自身を掻き抱いた所為で、塞がりかけた傷口は見事に開き、せっかく摂り戻した鉄分は再びアスランの身体から流れ出ていた。 「ああだけど、結局はみんな云い訳でしか無い」 「それより腕を見せろ腕を!」 「無駄だよ、イザーク」 「無駄なものか! 良いからその抑えた手を離せ!」 「無駄だよ。だって俺はずっと死にたかったんだから」 アスランの目はまるで総てを諦めているかのように、なにも映してはいなかった。けれどイザークは、そこに鏡を見る。緑の色をした瞳の中で、己の銀が、不思議な色合いで瞬いている。 ―――まだ、平気だ。 「死んだだろう!」 イザークのその叫びに、一瞬アスランは我を取り戻したようで、総ての感情が抜け落ちた表情のまま、イザークを見上げた。 「アスラン・ザラは死んだだろう!」 「え……?」 「アスラン・ザラを示す傷は、もう無いだろう!」 「でも……」 「お前は今、ただの“アスラン”だ」 「ただの?」 「名を呉れてやるほど俺は優しくは無いが。目の前で死んで行く奴の最期を看取るくらいの道徳心は持ち合わせている」 「イザークがザラの名を捨ててくれたの?」 「やり方を間違えた所為で、不完全になったがな。良い、それはまた後で、俺が責任持って最期まで殺してやる」 「本当?」 「ああ」 「俺は“アスラン”?」 「ああ」 「“ザラ”は死んだ?」 「まだ残っているけどな」 「何処に?」 「貴様のその胸元に。アスラン・ザラの血に塗れた、薄汚い証とやらがぶら下がっているだろう」 「―――ああ、そっか。これか。これの所為だったのか」 これの所為で俺は苦しむのか。 親から贈られたのかなんなのか、それはイザークの与り知らぬところとは云え、名の刻まれた指輪は確かにアスラン・ザラなりのアイデンティティだったのだろう。事実、選ばれた血族を示す証として、イザークにアスランの正体を教えてくれたりはしたが。指輪と烙印。それはセットでアスラン・ザラに血筋と罪を叩き込むのだろう。 「……ねぇ、イザーク」 「なんだ?」 「イザークは平気なの? 俺を殺しても、咎められないの?」 「此処に法は無い」 「けれど、裁くひとは居るんでしょう?」 「なら貴様が裁け、アスラン」 「お、れ?」 「アスラン・ザラを殺した奴を、貴様が裁け」 「……それを云うなら、俺も同罪だ。俺は俺を殺したから」 「なんでもアリだ。此処ならば」 「……此処は、何処?」 「此処は王不在の王国。選民と云い張る奴等が好き勝手に国で遊んでいるが、誰もそんなものは気にしない。そう、誰も。俺のような奴等は皆、独りで勝手に生きている」 「イザークは……」 「それはお前の方が良く知っているだろう? 俺は俺が生きるためにしているだけで、それを見た奴がどう俺を評価しているかは知らない」 イザーク・ジュールは、国で唯一殺人を許された死刑執行人だ。 死刑になり、もうこの国で生きていけなくなった人物を殺すことを生業にしている。傍目から見れば、イザークほど政府と関わりの深い人物など居ないだろう。 「……ああ、そうやって、イザークは俺みたいなひとたちを殺してきたんだね」 「此処は“逃げ場”だからな。誰も貴様にはこんな逃げ道を教えなかったようだが」 「俺はどちらにもなれなかったから、それは仕方無い。でもイザーク、あんな堂々と表札掲げちゃって、良い度胸してるよね」 「云っただろう。此処は政府の力の及ばぬ場所だ。俺は誰にも縛られない」 「……うん、知ってる。そう、俺はそんなイザークを知ってるんだ」 だから、イザークの名に安堵したんだよ。 アスランは血を流したまま、妖艶に微笑んで、そしてふらり、倒れ込んだ。 磨きもなにもかけていないフローリングに、カシャン、音が木霊する。その音の正体を知っていたから、イザークはなにも云わず烙印の爪痕の血を拭った。 |