げつようびにうまれて、 |
暑い。汗を拭おうとして、ハンカチを忘れたことに気付いた。紳士を志す身としてこれはいただけない。袖口で拭おうとするも、その皺を目敏く見つけ怒る人物がいることを思い出して諦める。この気温だろうと、長袖を着るのはささやかなポリシーだ。おかげでどれだけ街で好奇の視線に晒されたか知れないが、これだけは譲れない。もとから不良品じみた体温調節機能は、おかげさまでますます壊れてきた。それでも汗をかくんだから、今日は相対的に暑い。相対的。何と? 誰と? そんなのは自分でも判らない。 カツンカツン、音を立てて石造りの階段を昇る。白壁に木製のドア。一般的なアパルトマン。 熱気から逃げるようにしてドアノブを捻り中に逃げ込むと、待ち構えるのはだだっ広いただの部屋だ。玄関は無い。広さは、ベッドが縦に三個、横に五個入るくらい。正面、左右、それぞれ一方ずつに白いドア。全部で三つ。どこが引き戸でどこがノブのついた扉だったか、まだ覚えきれない。やっとこの前、どのドアがどの部屋につづくのかを覚えたところだ。 向かって左側。その先がダイニングだったと思い出す。部屋の中央に広げられたまっしろなラグマットを避けて壁際を通り、ドアの前に立つ。抱えていた荷物を右手で持ち直し、空いた左手を伸ばし、暫し躊躇。思い切って、右に引いてみる。しかし失敗。前に押してみる。だけど開かない。ノブが無いから、まさか手前に引くなんて無いだろう。ちょっと考えて、わずかに躯を横にずらし左に引いてみる。ぎぎぎぎ、ぎぎ。ほとんどを棚で埋め尽くされた、ダイニングが現れた。成功だ。 中央に進み出て、持っていた紙袋を逆さにして中身をぶちまける。ゴン、ごろごろ、ごろごろごろ。缶詰とグレープフルーツ(ルビーが四個、ホワイトが六個)が見えない暗がりへ転がった。 コンロの横、細かく刻み込まれたような棚には膨大な種類のパスタ。種類を間違えないように慎重に選り分けて、それぞれの決められた引き出しに詰めてゆく。スパゲッティ(拘りは1.6mm)、リングイネ、フェットチーネ、ペンネ、マカロニ、シェル、ツイスト、違いは家主に叩き込まれたから完璧だ。この色々と偏った家の持ち主であり、支配者は、ドアの開け方は教えてくれないくせにパスタの違いだけ口うるさく語った。あとは、コーヒー豆と、紅茶の茶葉についてを。ダイニングの奥に、豆と茶葉の保管専用の部屋がある。それから多分、その先にワイナリー。入室許可はまだもらっていない。だけどパスタの補充は任された。 パラパラと音を立て、スパゲッティが折れていないか確かめる。折れてしまったのはサラダ用に避ける。家主は非常に繊細で、口うるさかった。繊細な神経質。まさにその表現がぴったりだ。 「帰ったか」 窓があるのに、ダイニングは真っ暗だ。窓が暗いのは、その向こうにビルがある所為だったか? 判らない。とにかくダイニングはいつも暗い。今は開けっ放しの入り口から四角い光が差し込んでいる。その光の中で作業をする。 しかし、その光にヒトガタの影が落ちた。作業は中断。その影の意味を考える。声は後から認識する。帰ったか。そうだ、影はそう云った。帰ったか。 「……イザーク」 「この部屋は常にドアを閉めておけと。何度も云っているだろうアスラン」 「……だけどそしたら、暗くて作業ができない」 「ここにライトがあるだろうが」 ぱち。カシャ、チカ、チカ。 イザークは身体を預けていたダイニングの入り口から身を起こし、手を伸ばした。アスランの頭上で、まぁるいライトが億劫そうに点灯する。蝿が一匹、ライトのケースの中に入り込んで、生き絶えている。白い光に黒い斑点。けれど部屋の明かりに翳りは見られない。不思議だ。アスランは思った。イザークは不機嫌そうにも見える怪訝な顔つきで、そんなアスランを見遣っている。イザークはアスランを見、アスランは蝿を見る。蝿は何を見ているのか? それはきっとあの中だ。アスランはぐるり、視線を巡らせて、ダイニングの景色を制覇しようとする。あの棚には野菜の缶詰。その下が乾燥させたスープの具。上の台には香辛料。そうだ、サフランが切れていたから瓶に補充をしなくてはならない。ストックは何処だっただろう? 部屋は明るさを全体に行き渡らせた所為で、とても、とても見通しが良かった。 「そうか。ライト、点けて良いんだっけ」 「それも何度も云った。一体いつになったら覚える?」 「今覚えたよ」 「それは前にも聞いた」 「そう? でもきっと、次は大丈夫なんじゃないかな」 「それも前にも聞いた」 「え、そうか……? じゃあ、俺に"次"が許されるまで、俺は覚えようとするんだろう」 「……貴様、そう云いながら、結局ここに何年住んでると思ってるんだ」 「―――さぁ?」 アスランは首を傾げた。毎日は一日の繰り返し。一日は一分の積み重ね。そんな膨大な量の記録、いちいち取っておくなんてアスランの趣味じゃない。 「ああ、すまない。ドアを閉めるんだったな」 アスランは立ち上がり、イザークの元へ歩む。左に手を伸ばしたけれど、戸は無かった。 「あれ?」 壁に埋め込まれているわけでもない。首を捻ってイザークを見上げると、イザークは盛大なため息を吐いて後ろを振り返った。 「……貴様は、本当に……」 まだあるのかってほどの息を漏らしつづけながら、イザークは向こうの部屋へ手を伸ばす。真ん中にラグマットがひいてあるだけの、何も無い部屋。その中から、蝶番を全開に開け放たれたドアが、イザークの手に導かれて戻ってくる。ドアノブ。バタン、音を立て、扉が閉まる。部屋は人工のライトに包まれる。 「……引き戸じゃなくて、扉だったんだっけ」 閉じ込められた部屋は冷気を纏っている。外はあんなに暑かったのに。紙袋の一番上に置かれ、陽射しの熱を受けていたオートミールの箱に触れる。いつの間にかすっかり冷えきっている。 アスランの頭上で、白いライトがジ、ジ、ジ、と鳴いていた。 |
罪に堕ちる。 |
しかし罰は回避 |