ユフィって、可愛いよな
はにかむように、いままで見せたことのない表情を見せた幼馴染に、僕はいま自分の居る世界が、この瞬間ガラガラと崩れ落ちて行っていることを知った。
眸の前にあった薄いガラスが、ガシャーン……! と弾けた音を耳の中で立てて、そして崩れ落ちる。パラパラとした細かい飛沫が、周りの光を集めて僕の心境とは関係なくキラキラと輝いている。だから、綺麗だと思って手を伸ばしても、どうせその破片に血を流されるだけだ。
薄く瞼を伏せてその衝動をやり過ごしながら、ふたたびこの瞼を上げたとき。ガラスの散ってしまった世界は、一体どう変わるのだろうと恐れを抱いていた。そうしているあいだに音がすこしずつかき消えて行ったのを感じ、それでもいつまでもこうして眸を伏せてばかりではいられないので、恐る恐るふたたび眸を開ける。
けれどそこにあったのは、恐れていた世界なんかではなく。色褪せるわけでもなくむしろ鮮やかになったくらいの、いままでと全く同じ世界と、そして晴れやかな幼馴染の笑顔だった。

―――どういうことだ。

自分の想いなんてこんなものだったのかと失望半分、自分が返事をしないことに焦れた幼馴染が「ルルーシュ?」と頸を傾げてきて、何も言葉を発しない僕を覗き込んできた、その心配そうな眸を視界に入れたときに。僕は、僕が選ぶべき道をそこに見たのだ。
微笑む幼馴染。もうひとりの幼馴染を可愛いと云って、頬を染める僕の大事な―――大切な、スザク。

―――ああ、そうか。なんだ、簡単なことじゃないか。

ユフィのことだって、僕はもちろん大好きで、大切な子だ。
視界が晴れて一転して機嫌が良くなった僕は、スザクの台詞に揚々と頷いてみせる。


「そうだね。オヒメサマみたいだ」


実のところ世が世なら本当に姫だった血筋だ。
名前を聞けば判ることだが、だがそこまでいまのスザクが知る必要はないだろうし、難しいことを云うなと怒られてしまうかも知れない。
何より、スザクがユフィを可愛いと思う背景にそんなことは関係ないだろうから、僕も素直に笑った。
そんな僕をちらちらと見つめ、何かを云い吃るスザクに、大体の予測は付きながらも「どうしたんだい?」と促してやる。
スザクは案の定一瞬だけ、うっ、と詰まって、けれど拳を握りしめたかと思うと、途端大声で叫んだのだ。それこそ、隣の家のユフィに聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいに。


「俺―――オレ! ユフィが、好きだ!」


こちらが恥ずかしくなるくらい顔を真っ赤にさせたスザクが、力強くそう宣言する。
そのひたむきさに、零れかけた涙はきっと。
ガキ大将の典型のような幼馴染の情緒の成長を歓ぶ、子どもらしくない感情の顕われだったのだろう。



五重奏
-quintetto-











     ***










三人分にしても量の多いルルーシュお手製のお弁当を抱え上げ、まだ陽の昇り切っていない薄暗い通学路を歩く。
この道をルルーシュと歩いたのは久しぶりだった。
元々登校は一緒にしていなかったので、余計新鮮だ。素直に湧く嬉しさを抑えきれずに鼻唄が出てしまったが、ルルーシュはそんなスザクを見て「朝っぱらから元気だな」と呆れ半分呟いただけだったのでほっとする。
どうせスザクが浮かれているのはお弁当だけだとルルーシュは思っているのだろう。それはそれで良い。―――だけど。
ちらりとスザクが伺い見た横顔は軽く瞼を伏せていて、足取りも覚束ない。元々大会で朝が早いとは云え、自分とジノに迫られたお弁当作りのせいで更にかなりの早起きをさせてしまった自覚はあるので、眠そうなルルーシュをスザクはハラハラと見守った。どうせ昨日の夜から仕込みもしていただろうから、寝る時間も遅かっただろう。
そんなことを考えていたら、タイミング良く眠いと隣で文句を垂れるルルーシュに、すかさずバスで寝てて良いよと云ったら当然だと頷かれてしまう。僕の隣に座って、凭れかかって良いから―――とまでは、云えなかった。


「お前らが好き勝手リクエストして来るから、こんな早く起きなければならない目に遭った」
「だからって律儀に全部作ってくれる辺りが優しいよね」
「それは当然だ。優しいとかじゃない」


唇を尖らせるルルーシュは妙に艶に満ちているように見えて、ぼんやりと眺めていたスザクはその視線に気付いたルルーシュに「コラ、」と軽く頭を小突かれてしまい、ドキリとする。


「だから全部持たなくて良いと云ったのに。小さい方、渡せ」


……なるほど、そっちか。
重い荷物に不満があると見事に勘違いな方向に判断したらしいルルーシュが、スザクがお弁当箱で固定していた肘に手を入り込ませて奪おうとする。


「い、良いってば!」


密着する距離に、咄嗟に一歩引いてルルーシュの腕を振り解いたスザクは、きょとんとするルルーシュと眸が合って、それからしまったと思った。
案の定、ルルーシュは「…悪い」と神妙な顔になってしまいスザクからまたわずか離れる。
嬉しいと思っていた距離が開いて、不自然な隙間を空けたスザクとルルーシュの間を早朝の突き刺すような風が通り抜ける。その音までもが聴こえそうな気がして、スザクは「あの、」と口を開いた。
云いたいことも纏まっていないスザクが後先考えずとにかく喋り出してしまうのは良くある癖のようなもので、それを判っているルルーシュは静かにその先を待っていた。無理に促すこともなく、かと云って自分がその替わりを引き受けるわけでもなく。
こういう、物理的ではない心理的な距離感は、とても居心地が良い。幼いころから一緒だったスザクたちが自然身に付けた、お互いへの気遣いのようなもの。
幼い頃はそれだけで良かった、のだと思う。
そこに成長するに従って増えることになった恋愛という項目が、スザクとルルーシュの距離をおかしくさせた。そのせいで、いままでのふたりではいられなくなってしまった。


「こんなにたくさんの量、ルルーシュが作ってくれたんだから……ムリさせちゃった自覚はあるし、せめて僕が持つよ。持たせて」


明らかに話題を逸らしたスザクに、ルルーシュがこちらを見る気配がする。けれど誤摩化したとは云え、嘘の気持ちというわけではないから、スザクは自信を持って前を向いていた。
ルルーシュはそんなスザクに薄い溜め息を吐くと、自分も前に向き直る。


「……だが、お前は選手だろう。大会の朝に、そんなに腕を酷使してしまって良いのか?」
「ウォーミングアップだよ。この程度で使えなくなるような、そんな柔な鍛え方はしてないから大丈夫」
「ふうん……」


興味のなさそうな返事だなと思った。
ルルーシュも幾分かスザクの助言を聞いて体力作りはしているようだけど、日常的に筋トレをするほどやる気があるわけではないから、スザクのこういう話題は心底どうでも良いようだ。幼いころは、スザクが道場に通うときにしょっちゅう一緒にやろうよと連れてっていたけれど、鍛え甲斐があると張り切る藤堂に苦手意識さえ持っているようだ。
ルルーシュらしいと云えばルルーシュらしいので、スザクも詳しく語るようなことはせずに、「だから安心して」と笑っておく。どれだけ長い付き合いで、無言の空間も珍しくない関係であろうと、話題がつまらない奴だとは思われたくない。
それに、ここまで云えば、さすがのルルーシュも大人しく引き下がるだろう。そんなスザクの期待通り、ルルーシュは眉を顰めながらも「それなら任せる」と吐き捨てた。


「だが重くなったら無理せず早めに云えよ。俺も全部は持てないから」
「はは、うん判った」


ルルーシュの細い腕に、こんな大荷物(しかも、自分とジノがワガママを通したお弁当)を持たせるわけにはいかない。
だからそれは絶対有り得ないことだと思ったけれど、「そのときはよろしく」と一応頷いておく。
ルルーシュはずっと前を向いたままで、その横顔しか見られないことを残念に思いながら、本人にはバレないようちらちらと眺める。いつもだったら妙な視線や人の気配には意外に聡いルルーシュだが、今日ばかりはさすがの眠気に気が緩んでいるようだ。
気怠げな様子を見せるのは朝から大量の料理をこなして単純に疲れたせいだろうが、どうしても違う方向へ想像が行ってしまうのだからいけない。
ルルーシュが何かを喋るたび、その唇に視線が行く自分をどうしても止められない。
―――どうせ、傷つくだけの結果になるのは判っているのに。
大会当日だと云うのに、こんな考えで正直平気なのだろうか。副将としての責任云々は、ルルーシュの言葉によってすこし肩を軽くしてもらえたからいまは平気だけれど、そのルルーシュ本人に問題と云うか、どうにかして欲しいことがあるのなら一体スザクはどうしたら良いのだろう。こういうとき、相談できる相手がルルーシュ以外に居ないのは辛い。でも、ずっと、欲しいとも思ってなかった。自分から行ったわけではなく、自然と仲良くなったリヴァルやジノはまた別の関係として。
そんなことを考えていたスザクに、ルルーシュが茫洋と口を開いた。


「今日、そんなに遅くまでかかるわけじゃないんだろう?」
「え、うん。決着がつかなくて長引かない限り精々夕方までには撤収できるはずだから、道が混んでなければ遅くても七時には戻って来れるんじゃないかな」


頭の中で計算をしながらのスザクの答えに、ルルーシュの眉が寄るのが見えた。


「……ゴメン、何か予定あった?」


土曜日だし、普通に授業に出ていたとしたら昼で終わるから何か予定があってもおかしくない。そりゃそうだ、ルルーシュがマネージャー代わりに参加してくれることに舞い上がって何も考えていなかったけれど。いくらルルーシュ自身が了承してくれたこととは云え。
恐る恐るのスザクの問い掛けに、けれどルルーシュはいや、と軽く頸を振ったのでそこは安心する。


「そういうわけではないんだが……祝杯とかその場で上げるのかと思って」


一瞬そのまま受け取りそうになったが、けれどコツンと爪先に引っ掛かりを覚える。


「え……優勝前提?」
「そりゃそうだろう」


何を云っているんだという表情でスザクを見据えたルルーシュの瞳は真剣そのものだ。


「……わぁ、プレッシャー」
「スザクなら大丈夫だよ」
「ちょ、更に!」


あわあわと慌てても両手が塞がっているので何もアピールできない。せめて声には表したつもりだったが、ルルーシュは朗らかに笑うだけだ。


「まぁ、この辺にしておいてやるか。……じゃあ、そうだな。打ち上げ的なものはやらないのか?」


最初からそういう云い方をしてくれれば変な汗をかくこともなかったのに。だか云われてみれば、あってもおかしくないような気もしてきた。


「…あ、どうだろ。考えてなかったなぁ……やりたい?」
「何故俺に訊く」
「いや、訊いて来たってことは行きたいのかと思って」
「逆だ逆。俺は御免被る」


ルルーシュが参加すると云うのなら、今日の大会には行かないメンバーまで部員百パーセントの参加率になるだろうけど。大勢のどんちゃん騒ぎが好きではないルルーシュからすれば、そういう返事になるだろうとは思った。
でも、じゃあルルーシュはどんな思惑でそんなことを訊いて来たのだろう。
それは判らないが、純粋に心配しているようなので、スザクはひとまずは副将らしく答える。


「今日は大会当日で疲れもあるだろうしね。やるとしたらまた後日、ちゃんと計画立てて部員全員で、ってことになるかな」
「……そうか」


そう返事をしたルルーシュはわずかほっとした様子で。


「そのときは呼ぶからね」
「要らない」
「ダメダメ。ちゃんと連れて行かないと、部員たちに怒られちゃうから」
「……余計なことを云ったか」


別にルルーシュがいま打ち上げに言及せずとも、それは大会が終わればだれかからは必ず出た話だろうし、今回協力してくれるルルーシュにお誘いが行くのは必然の流れだ。そう思ったが、ルルーシュはどこか云いにくそうな様子で難しい顔を俯けている。


「……ルルーシュ?」
「……スザク、」


呼んだ名前に被せるように呼び返されて。傾げた頸に、ルルーシュの吐いた冷たい溜め息の風が靡いた気がした。


「何? どうかした?」
「スザクも、今晩は疲れてる……よな?」
「え? いや、そんなことないと思うけど……」


これからまずは大会というときに、そんな終わったときのことなんて想像が付かないが。いままで本番疲れというものは特に味わったことがないし、走り回る競技でもないので、あったとして精神疲れなのだろう。それは何とかなりそうな気がする。


「明日は休みだし、平気じゃないかな?」


多分、と一応注釈を付けてルルーシュに先を促すと、わずかほっとしたような、けれど何か思い詰めたような笑顔で、スザクに笑い掛けてきた。


「―――じゃあ、今日の夜。そうだな……九時くらいになってしまうか。ちょっと遅いけど、会えないか?」
「……え?」


ルルーシュの笑顔はいまになって本格的に昇り始めた太陽の逆行のせいで、明暗に彩られた輪郭だけを認識する。
会う、って。


「……僕が、君の部屋に行けば良いの?」


思い返せば随分久しぶりだななんて考えながら、それくらいと思い、良いよと快諾しかけたスザクをルルーシュが遮る。


「ああ、いや。別のところにしよう」


スザクから視線を逸らしたルルーシュは斜め前の道路だけを見ているようでいて、その実もっとどこか遠くを見ているようだった。


「? 別?」


どういうことなのかと頸を傾げる。
もちろん、お誘い自体はとても嬉しい。ルルーシュは最近ジノとばかりでスザクなんか誘ってくれなかったから。元々遊ぶときも、スザクが連れ出すばかりでルルーシュから誘われることはほとんどなかったし。あったとして、荷物持ちだ。
だから珍しいななんて朗らかに思っていたスザクの心に、ルルーシュの言葉が突き刺さる。


「この前話した、河原の公園。あそこにしよう」
「……え?」


場所が判らなかったわけじゃない。ただ、すぐに直感して言葉を失った。ルルーシュの云うこの前というのが、あのときのことなのだと。
ルルーシュの中で、きっと何かが終わってしまった、あのとき。


「あそこで…何―――」
「ちょっとな、話したいことがあるんだ」
「話…?」


そう、と微笑んだルルーシュはもう笑顔以外にそれを翳らせるものは何も持っていなくて。すこし前に見せていた躊躇は、一体どこに消えてしまったのかと内心焦る。


「そう身構えなくて良い。絶対に、悪い話ではないから」
「そう、なの……?」
「ああ。大会を頑張ったお前に、ご褒美をやろうと思って」
「ご褒美…?」


そんなものは、今日大会の間ルルーシュが近くで見てくれていると云うことと、昨夜から下拵えをしてくれた丹誠込めたお弁当があるから、それでじゅうぶんなのに。
そう思って腕に持つものに視線を落としたスザクに気付いたのだろう、ルルーシュは片方の腕を伸ばし、スザクの頬にそっとてのひらを置いた。ひんやりと冷たいその指が、火照るスザクの頬を冷ます。


「―――これは、激励だ」


お弁当へ視線を下げて、ルルーシュが示す。


「……げき、れい……」
「そうだ。頑張って来いと、背中を押すためのもの」
「……うん」


その言葉に、腕にかかる重みがずしりと増した気がした。
重々しく頷いたスザクに、ルルーシュがふわりと笑う。


「だからな、頑張った後のお前に、また別のご褒美をやるよ」


眸を柔らかく細め、すこしだけ、小頸を傾げて。薄い唇が紅く艶めき、弧を描く。そこだけ花が咲いたみたいな。
冷笑することが多いルルーシュがこんなに優しく笑ったのは、最近の記憶だと二度目。あのジノに殴り掛かって、ルルーシュが落ち着かせてくれたとき以来だ。
だけどあのときとは柔らかさの種類が違って、あのときは感じたのは慈愛だけだったけれど、いまはどこかスザクを翻弄するような響きを帯びていて。
その微笑みに頭を溶かされそうになりながら、こういう表情は前にも見たことがあるけれど、あれはいつのことだっただろうと茫洋と考える。考える考える考える。

―――思い出せ。

そうでないと、取り返しのつかないことになるような予感がある。
そうして、ようやくスザクの頭に思い浮かんだのは。
スザクがユフィを好きなのだとルルーシュに教えた、あの秘密の時間。スザクのカミングアウトにすこし驚いたルルーシュが、それでもすぐ後に見せてくれた笑顔が、これと全く一緒だった。もう三年も前の記憶。
それでも引っ掛かりを取り出すだけで、記憶は奔流のように湧き起こり。


「な、に……」
「―――だから、それ目当てにでも、頑張って来い」


そう云って離れて行ってしまう指先を視線で追い掛けて、その指がまた戻ってきてスザクの涙を拭ってくれるような、そんな錯覚に陥った。
もちろんスザクは泣いていないし、ルルーシュはそのまま、またスザクに触れるそぶりも見せないけれど。
それでもそんな気がしてしまったのは、既に遠退いた日々の残櫃だったのか。


「……うん、頑張る」


それをルルーシュなりのエールとなるべく良いように受け取って頷いたスザクは、けれどちゃんと気付いていた。
ルルーシュの期待を持たせるような喋り口に、しっかり魅せられてしまっている自分自身を。
そして、大会の後ジノではなく自分を優先させてくれたことに、歓びを覚えた自分の心を。