五重奏
-quartetto-
そうだ、あの朝の会話。さすがに大会に集中していて、忘れかけていたけれど。あのとき確かに感じたはずの違和感を、どうして見過ごしてしまったのだろう。
―――どうして。
ルルーシュは、笑っていたじゃないか。記憶の中の微笑みと、全く一緒の微笑みで。―――ルルーシュがスザクを裏切った、あの微笑みと。全く、一緒の。
―――でも、だからと云ってまさか、こんなことだとは思わないじゃないか。
「……お久しぶりですね、スザク」
ルルーシュがご褒美をやると云った、その場所に。
―――どうして、ユフィがいるのだろう?
「ユ、フィ…?」
半ば反射的に名前を呼んだスザクに対し、「はい、ユフィです」と咲いた笑顔は、不思議なほど記憶と変わりはなかった。
髪は少し、伸びたのかも知れない。
けれど微かな風にさえ靡かせて煌めく、その柔らかな輝きには一切記憶との遜色も、また逆に取り立てて美しさが増したというわけでもなく。
スザクの記憶あるがままのその姿に、一瞬幻覚を本気で疑ってしまったほどだった。
ユーフェミアが、目敏くそんなスザクの様子に気付く。
「スザクったら、信じていませんね」
「え…」
ふわりと優しげに微笑む目尻のその角度に、何故だろう、急に、既視感を覚える。
(あれ……?)
いまのユフィの笑顔は、スザクの記憶ではなく、いま現在のルルーシュと同じではなかったか?
スザクが思い出していたあの微笑みではなく、普段見せている類のものと。
「ちゃんと私はここに居ますよ。ルルーシュにお願いして、スザクに会いに来たんです」
「ルルーシュに…?」
「はい。あ、大会、スザクの活躍で優勝したそうね! おめでとうございます!」
「あ、ありがとう」
最近の、と云うより、正に数時間前の出来事を云われてしまえば、さすがに本物を疑わざるを得ない。
だが、それだとルルーシュはユーフェミアと連絡を密にしていたことになる。そして、それでいながら男の恋人なんか作っていたということに。
腸が煮えくり返るかと一瞬思ったが、眸の前に入るのはその張本人ではないということに気が付いて、なんとか取り繕った。
「ルルーシュに……聞いた、んだよね」
スザクの問いに、ユーフェミアは風に舞った一房の髪を耳の横に掛けながら微笑んだ。
「ええ、そうです。一時帰国することになって、お兄様を通じてルルーシュに連絡を取っていたんです。一時帰国とは云えそこまで短い期間でもないので、ちゃんと話さないと、と思って。決まったのも、ルルーシュに繋いでもらったのも、つい最近、ですけど」
「そう、なの」
ユーフェミアがスザクの気持ちを読み取ったのかどうかまでは判らないけれど、ユフィが最近≠セと付け加えたことに、心を抉り取られたのかと思った。
けれどいまのルルーシュと違い、どうやら変わらずに純粋でいてくれたらしいユーフェミアが嘘なんてつくはずないので、スザクは乾いた笑顔で笑った。
けれど―――喉元が裂けるように引き攣って、すごく喉が渇いていることに気付く。緊張、しているのだろうか。
「あの、スザクは……」
そんなスザクを見て、ユフィが眉を顰めていた。
ああ、そうだ。ユフィはナナリーみたいに人の痛みにすごく敏感な子で。
(……ナナリーみたいに?)
「―――スザクは、」
「ユフィは、」
「? はい」
遮って云い掛けたスザクに、ユーフェミアがきょとんと頸を傾げた。―――ああ、その一挙手一投足まで、すべて。スザクの記憶の引っ掛かりと、それは綺麗に一致していて。
そこにある意味に、今更、ようやく気付いた。
「ユフィは、ルルーシュやナナリーと……良く似てるよね」
ロロはちょっと違うかな
でも、どうして気付かなかったのか不思議なほどだ。
ほぼ断定の響きで問いかけたスザクに、ユーフェミアはその瞬間破顔した。
「嫌ね、やっぱりそうなのかしら。離れて過ごしても、似るものなのね」
言葉の割にその声は嬉しそうで。
唇の前に人差し指を立てて、何かスザクには判らないことを呟くユーフェミアは、置いて行かれているスザクに気付いて「ええ、そうよ」と頷く。
「ルルーシュたちとは、兄妹なの。ふふ、やっと気付いたわね、スザク」
「え……」
やっぱり、とは思った。
けれどそれは予測してはおきながら意外な答えで。血の繋がりを感じたけれど、それは精々がイトコとかその辺なのかと思ったから。そして親戚であるのなら、ユーフェミアが一時帰国でルルーシュと連絡を取るのも判る気がしたから。短い逡巡でそこまで考えていた自分に驚く。
けれどユーフェミアはそのスザクの驚愕に別に理由を感じ取ったらしく、「黙っていてごめんなさい」と眉尻を下げて申し訳そうに微笑んだ。
「私たち、腹違いだから母親が違うの。いまはマリアンヌさん……ルルーシュのお母様が正妻になっているけど、当時は違ったから、ルルーシュは妾腹の子の扱いで、色々と複雑だったから」
「……そう、なんだ」
ルルーシュとユーフェミア、ふたりに初めて逢ったときの彼らはただの幼馴染を貫いていて、スザクは仲が良いんだなくらいしか思わなかった。
「それでも、私は……兄妹だと判っていても。ルルーシュのことが、好きだったの」
「うん……」
ユーフェミアの思い詰めたような瞳に、「知ってるよ」と宥める。
そう……スザクはそれを良く、知っていた。
***
誰も居ない閉館間際の図書館。スザクの部活の帰りをそこで待っていてくれるやさしい幼馴染を迎えに、胸を弾ませながらいつもの道を駆け抜けて。
最近恋心に気付いたほんわかした優しいお嬢様と、この世の綺麗なものすべてをかき集めたみたいな親友が、仲良く教科書や本を開いて、まるで宝石箱みたいな光景で待っていてくれると信じて疑わなかった。
名前を呼んで、図書館のドアを思い切り良く開ける。
今日は部活が早く終わったから、皆でアイスでも食べて帰ろうと誘うつもりだった。
―――だった、のに。
そこには、ステンドグラスに照らされた夕陽のカラフルな色彩に彩られ、唇を合わせているふたりの姿があって。
美しい光景に魅入られてしまったスザクが数秒、もしかしたら数分。
じっと見つめていた中で、ふたりがくすくすと笑いながら、触れ合わせていた唇を離した。
***
あのときのキスが、ただの兄妹の親愛であるはずがない。
だから兄妹と聞いて驚きはすれど、それでスザクの中のふたりに対する印象が変わったわけではなかった。
ユーフェミアは、本気でルルーシュが好きなんだと思う。
それはもちろんユーフェミアを好きだと自覚していたスザクにとって寂しいと思ったけれど、ルルーシュなら仕方ないと諦めることはもちろんできた。倖せになって欲しいと、思うことができた。
―――だけど、ルルーシュは。ルルーシュは、
あれはスザクがユーフェミアを好きだと宣言した、そのすぐ後のことだったのに。
思い出に奥歯をギリ、と噛み締める。
その強張りを溶かすように、ユーフェミアの掌がスザクの頬を包んだ。その、動作まで。こんなに似通っているのに。
「それから、スザクも」
「…え?」
「スザクのことも、私は大好きなんです」
ふわりと微笑んだユーフェミアの表情には慈愛しか見えなくて、スザクは泣きそうになる。
「……でも、」
「ええ、だから……ごめんなさい」
頭を傾けたユーフェミアは、そう真摯な眸で呟いてスザクから手を離す。
―――すまなかった。
その謝罪はつい数日前にルルーシュの口からも聞いたと思い出し、はっと気付く。
……あのとき。既に、ルルーシュはユーフェミアと連絡を取っていたのだろうと。
ほぼ確信したその予測に、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。それは呼吸の仕方を忘れるほどで。
「……スザク?」
「あの……何、が」
ルルーシュは、まだ良いとする。
だけどユーフェミアは、一体何に謝っているんだろう。スザクはユーフェミアに、その気持ちを告白したわけでもないのに。
そのスザクの問いかけに、ユーフェミアはやはり穏やかな微笑みのまま、薄い唇を開いた。
「その、兄妹だということを隠していたことも含めて。私は今日スザクに謝るために、ルルーシュに我が侭を云って連れてきてもらったんです」
「……ルルーシュに?」
「ええ。夜道は危ないからと、ここまで送ってくれました」
ユーフェミアが振り返った場所には特に何の人影も見えなくて、そこに広がる夜の空間に胸の空洞が更に空いた感覚を味わった。
「そう……それで、ルルーシュは」
「話をしている間は席を外してもらうよう、私が頼んだんです」
ではルルーシュは今頃ひとりで夜道を歩いているのか。
咄嗟に危ないと心配してしまう自分の心を恥じて、その懸念を自分からも隠そうとスザクは無理に笑った。
「そ、っか。その話って……?」
スザクの催促に、ユフィの眉尻が下がる。
ユーフェミアは身体の前で指を組んで、その白い指先を見つめていた。
「……さっきも云った通り。私はスザクに、謝らなければならないことがあるんです」
「何…?」
「私の懺悔を、聞いてくださいますか?」
真っ直ぐな眸。それはこちらが怯むほどの。
それを真っ向から受け止めて、スザクは頷いた。
直感で、悟ったことがあるから。ルルーシュもユーフェミアも、何かを決めてそうしてスザクに謝った。そこにどんな真意があるとしても、ならば自分も動き出さなければならないのだろうと。
―――あの日のまま、あのステンドグラスの明かりに置き去りにした、心を拾いに。
「うん。きっと僕が、聞かなきゃいけないことなんだよね?」
決意を新たに顔を上げると、そこには眸を丸くしたユーフェミアの姿があった。
「びっくりしちゃいました。スザク、自分のことを『僕』って云うんですね」
「え……」
そう云えば、一人称を変えてからずっとユーフェミアとは会っていなかったのだ。ユーフェミアが知らないのも当然だろう。
「うん、そうなんだ。高校に上がったくらいからかな」
「そうですか……ルルーシュは『俺』って云ってたし、なんだかふたりが入れ替わっちゃったみたいですね」
ふふっと微笑んだユーフェミアは懐かしい表情をしていて、三人でただ笑っていられた頃に戻ったみたいだった。
「そう、ルルーシュはなんだかがさつになったよね」
「でも、相変わらず……いいえ、記憶よりもずっとずっと美人さんで、一緒に歩くとこっちが恥ずしくなっちゃうくらいです。女性に恥をかかせるほどの美人って、ずるいと思いませんか」
何と答えていいのか判らない。ユーフェミアはもちろん顔が整っていると思うけれど、そのふわふわしたイメージからは可愛い≠ニいう言葉がしっくりくる。
そしてスザクは、ルルーシュが美人≠ニいう表現をするのを否定する気はなかった。
思ったまま、ユフィは可愛いし、端から見たら美男美女カップルに見えると思うけど、と云うと、ユーフェミアが笑い出す。
そうね、それは嬉しいけど。と云う。それはもちろん、ルルーシュのことを好きなユーフェミアにとっては嬉しい言葉だろう。良かった。どうにかして絞り出した答えだけれど、間違ってはいなかったようだ。
でも、いまスザクすっごく困っていましたねと云われてぎくりとする。それにもユーフェミアはくすくすと笑っていた。
「―――スザクは、逆に男らしくなりましたね」
「そ、そうかな」
そんなことを云われると、さすがに照れる。あまり云われたことのない賛辞だ。
ユーフェミアはにこにことスザクを眺めている。
「ええ。背もずいぶん伸びたみたいだし、もういまはルルーシュと変わらないんじゃないかしら?」
「そうなんだ! あと二センチなんだよね。ルルーシュはもう止まっただろうなんて冷たいこと云うけど」
「あら。じゃあ頑張ってくださいね。ルルーシュを見返してやりましょう!」
「うん!」
笑い合う掛け声に、三年のブランクは何の効果もなく消え去ったことを感じた。
それが良いのか悪いのかは、スザクには判らない。
朗らかに花が咲いたように微笑む、ユーフェミアはあのころと全く同じようにそこにいるのに、あのころのように胸が高鳴るわけではない自分を自覚して泣きたくなる。
―――そうスザクが置き去りにした、その心。それは、
「……スザクとルルーシュが、相変わらず仲が良いみたいで安心しました」
鋭過ぎるユフィの呟きに、咄嗟に反応しそうになる口を抑えた。
「私のせいで気まずくなってしまっていたらと、ずっと心配だったの。でも杞憂だったみたい」
そんなことないよ、と。
云ってしまえば良いのだろうか。でも吹っ切れたように微笑むユーフェミアにそれを伝えることはなんとなく憚られる。
「すごく仲良しさんで、お互いをいつも気にしていて、私が嫉妬したあのころのまま。……ふたりは、いつも一緒だものね。私、あのころ、ふたりがすごく羨ましかった」
ユーフェミアの昔語りに、耳を傾ける。
その先に続くことがスザクのざわめく心を落ち着かせてくれるとはとても思わなかったけれど、それはとても耳に心地好く子守唄のような優しさを称えていて、それに包まれて眠りたくなる。
「そして……妬ましかった。ふたり、両方とも。私、すっごく我が侭なんです。無いものねだりばっかり」
それは皆そうだよと。
相槌さえ望んでいない様子のユーフェミアに口を挟むことはしなかったけれど、自分もそうなのだと心の中で激しく同意した。
言葉だけを聞くと確かに我が侭なのかも知れないけれど。
全くそんなことを感じさせないのはユーフェミアの人徳故、だろうか。
「ルルーシュをいつも独占するスザクが妬ましかったし、ルルーシュにいつも優先してもらえるスザクが羨ましかった。私のことが眼中にないって、そういうことじゃないことは判っていましたけど。私、ルルーシュにはナナリーやロロにするみたいに優しくして欲しかったし、友達にするみたいに適度に突き放しても欲しかった。それでいて、恋人にするみたいに、お姫様みたいに扱ってもほしかったの。本妻の、腹違いの妹なんて、そんな面倒な存在と仲良くしてくれているだけでも素敵なことなのに」
ユーフェミアの独白に、スザクの想像以上に複雑な思惑が絡んでいたことを知る。スザクはそんな難しいことなんて考えもしないで、ただ毎日を愉しんでいただけだったのに。
「―――だけど、スザクもとても魅力的で。小さいころの私は、お姉さまに守らればかりでいつも自信がなくて。そんな私をいつだって引っ張り上げてくれて、味方をしてくれた。ルルーシュだって味方になってくれていたけれど、真綿に触れるように優しく慰めて、力付けてくれて、その種類は全然違っていたの。お互いがお互いにないもの、全部持ってるんだものね。やっぱりふたりって、すごく良いコンビですよね」
ふふっと笑ったユーフェミアが見ていたのは、その頃の記憶だったのか、いまの、ルルーシュに二センチだけ届かないくらいに背が伸びた、自分のことを僕≠ニ云うスザクだったのか。懐かしんでいるようにも見えるし、いまをちゃんと見据えているようにも見える。
私、ルルーシュの愛もスザクの愛も全部欲しかったの。あのころの私、本当に何も見えていなかったから。自分のことだけ、考えてた。だから、ルルーシュに云ったの」
そこで声を詰まらせて俯いたユーフェミアに、スザクはできるだけ優しく、負担にならないよう「……何を?」と尋ねた。
ユーフェミアはそれに顔を上げて、泣きそうに顔を歪めて、それでも口を開く。
「賭けをしましょう、って」
―――”賭け”。
それは、一体何を指すのだろう。
スザクにとって、それは意外な言葉だった。賭け?
「何かを失うなんて、考えてもいなかった。それに、ルルーシュは笑って良いよって云うから。だから私……、ッ、ごめんなさい……」
「…ユフィ?」
涙を堪える眸を拭ってやりたかったけど、溢れ出す直前で塞き止めたその決意まで一緒に取り去ってしまいそうだったから、スザクはその手を止めた。
「賭け、なんて……スザクの気持ち、ううん、ルルーシュの気持ちも、全部、莫迦にしてたみたい。ほんと莫迦。私って」
「……僕も、」
「……スザク?」
「僕も、莫迦なんだ。何も知らなかった。知らないで、何も聞かないで、ただ何も云わない、云ってくれないルルーシュを責めた。だからユフィだけがそんなに気にしないで良いんだよ」
ゆるゆると頸を振ったスザクに、ユーフェミアが力強くいいえと答える。
「違うんです。ルルーシュは、優しいだけ。……何も云わなかったのも、全部。私の所為で、私を守って、何も云わなかっただけ。スザクもよ。スザクも優しいの。賭け、なんて、騙すにも近いことなのに。だから、スザクこそ気にする必要は全くないの」
「でも…、」
賭けの内容。
それをユーフェミアは断言しないけれど、当然予測はついた。
あのころそんなそぶりを全く見せなかったふたりの、突然のラブシーン。
それ以外に、何があると云うのだろう。
だけど、そうだとしたら。
「ルルーシュは私のことも責めなかった。でも、それじゃいけないのよ。だって私、邪魔をしたんだもの」
「……え?」
「あのとき、気付いてたの、私はちゃんと。私が居ても、ルルーシュとスザク、ふたりはお互いしか見ていないっていうことに」
「な、に……」
「ふたりといつも一緒に居た私は、じゃあ私は一体なんなのって、置いて行かれた気持ちになっちゃって。だから、」
地面を向きかけていた視線を、スザクのそれと合わせる、その瞳は、
「ルルーシュに、お願いしたの。スザクはルルーシュと私、どちらを選ぶのか、賭けてみましょうって」
あの衝撃の瞬間、向かった嫉妬の対象がユーフェミアだったことを信じきれなかったスザクの動揺を、確かに肯定していた。