四重奏
-quartetto-











     ***










「―――あら、スザクさん。いらっしゃい」


玄関扉越し、ぱたぱたと聴こえてきた軽やかな足音に、これはルルーシュではないなと当たりはつけていた。


「今晩は、ナナリー」


だけど実際にドアを開けて出迎えてくれたのがルルーシュではなかったことに、自分でも驚くくらいショックを受けてしまって。
せめて相手には気取らせないよう、スザクは笑顔に努めた。
だけど声のトーンにまでその努力が行き渡らなかったのは、今は見逃して欲しい。


「お兄様にご用ですか?」
「あ、うん。そうなんだけど……帰ってきてるかな?」


スザクの望み通り素直に首を傾げたナナリーは、その質問に途端表情を曇らせてしまい、スザクはどきりとする。
まさか。まだ帰ってきてない、なんて。


「ええ、お部屋にいらっしゃいますよ。……けれど、最近はご一緒じゃないんですね」


ナナリーの返事に一度はほっとしたスザクだったが、鋭い質問に一瞬怯んでしまう。スザクの訪問をいつも歓迎してくれるナナリーなら、そう思ってしまうのも仕方の無いことかも知れないけれど。


「僕は大会が近いし、ルルーシュは……その、僕より他の人が良いみたい、だから、」
「そんなことはありません!」
「…え?」


力強いナナリーの否定に、俯きかけていた首をぱっと上げたスザクは、ナナリーが自分以上に戸惑った表情をしていることに気付き、自然ゴメンと唇から謝罪を漏らした。
それは何に対しての謝罪だったのだろう。気を遣わせてしまったこと、だろうか。それとも、もっと根本的な? 自分の口から出た言葉なのに、良く判らない。
スザクのそんな戸惑いに、ナナリーが我に返って顔の前で手を振った。


「いえ、私こそ。大声出してしまってすみません」


恥じ入る様子を見せるナナリーに、ううん、と首を否定の形に振る。


(……君が謝る必要は全く無いのに)


云ってやれれば良いのだけど、人の痛みに敏感なナナリーに下手に口を出すと心配されてしまう。


「……でも、お兄様に限って、そんなことは絶対にありません。きっと、大会の近いスザクさんを邪魔しないよう気を遣ってらっしゃるんですよ。大会、頑張ってくださいね」
「……うん、ありがとう」


年下の少女にこんなことを云わせている自分こそ恥ずかしい。
ナナリーの声はとても優しくて、その彼女と内面は似ているはずの兄からは与えられないそれに、涙が出そうになる。
自分はそんなに、ナナリーに気を遣わせてしまうくらいに落ち込んでいたのだろうか。


「どうぞ、上がってください。今はお友達がいらしてるみたいですけど、スザクさんも知ってる方でしょう?」


お友達。
ナナリーの云い方からして、ルルーシュはジノをナナリーに紹介したりはしていないらしい。
いや、単に今誰が来ているのか把握していないだけかも知れないが。大事な恋人であるはずのジノを未だにナナリーが知らないのは、どこか不自然な気がした。
そりゃもちろん、恋人と紹介するわけはないけれど。ジノと会わせるくらいはしそうなのに、どうしてだろう。
とりあえず彼女の云う、今家に居る友達がジノであることはほぼ確定情報だろうけど。


「あ、うん。多分……」
「スザクさんがいらしたと聞いたらお兄様歓びますよ。お呼びしましょうか?」
「ううん、大丈夫。それより、ルルーシュ大丈夫そうかな?」
「え? 何がですか?」
「その…ルルーシュ、今日は体調が悪そうで、ずっとどこかで休んでるみたいだったから……」


きょとんとしたナナリーを見て、知らなさそうだなと思ったけれど、一応スザクは聞いてみることにした。実はルルーシュ以上にブラコンのナナリーが、ルルーシュの体調が悪いと知って、こんなに落ち着いていられるわけがないのは判っているのだけれど、念のため。


「まぁ…そうだったんですか。帰られたときは気付きませんでしたけど……だからお友達とご一緒だったんですね。珍しいと思ったんです」


案の定ナナリーは心配そうに眉根を寄せて、ルルーシュの部屋へ続く階段の方向へちらちらと視線を投げていた。
もしルルーシュが、心配性なナナリーには気付かせないように強がっていたのだとしたら、後でスザクはルルーシュに怒られてしまうかも知れないけれど。
……少しくらい、ルルーシュは思い知れば良いんだ。
隠してばかりではダメだということを。こんなに心配してくれる人たちに対して、なんともないと云い張るのは却って逆効果なのだということを。
その一括りにされた人間の中に、確かに自分という存在が含まれるのを自覚しながら、スザクは知らず険しくなってしまう顔をなんとか平常に戻した。


「それで心配して来て下さったんですね。…あ、ごめんなさい玄関先で。どうぞ」


ナナリーがドアを大きく開けてスザクを中へと促すのを、半ば反射的に遮る。
ルルーシュの体調は気になる。
今日は一度も姿を見ていないから、もし大丈夫なのだとすれば顔を見て確かめたい。―――だけど。
だけど、そこにはジノが居るんだろう?
あの気難しいルルーシュが、自分から認めて受け入れた、ジノが。


「……良いんだ、ルルーシュが大丈夫そうならそれで。ジノがまだ居るなら邪魔しちゃ悪いし、僕はこれで失礼するね」
「え、でも……」
「ホントに、気にしないで。ちょっとついでに寄ってみただけだから」
「あ…スザクさん!」


ナナリーの制止を振り切って、呼び止める声を背にスザクはランペルージ家の門を抜けた。
そこから自分の家へと向けて、決して長くはない距離を走る。
走る走る走る。
頭の中は考えたくないことばかりが渦巻いている。
走ることでそれを振り落とせるのではないかという気がして、とにかく走る。


「あれ、スザクさん。必死の形相してどうし……」
「ごめんロロまた後でッ!」
「はぁ…?」


呆れたような声が背後に遠ざかるのを聞きながら、また走る。
頭の中は聞きたくなかった言葉ばかりが渦巻いている。
走っても走ってもその残像は消えてくれない。
もうとっくに自分の家など通り過ぎていて、それでもスザクはとにかく走った。
同じ道を早朝、健やかな気分で走っていたのはほんの数日前のことだ。あのときはまだ疑ってはいなかった。いや、きっとその疑惑はその前からあったのかも知れない。
だけど気付きたくなかったから、見えないふりをしていた。見えていなかった。見ようとしていなかった。


『ジノってさぁ、アイツさ。何でルルーシュと付き合えたんだろう』


黙れリヴァル。
その先を云うな。


『ルルーシュいつも云ってたよな。ダチに手は出さないって。でもジノって、友達だったよな。少なくとも俺にはそう見えた』


黙れ黙れ黙れ。


『ルルーシュが云ってた。スザクが応援してくれたから、ジノは特別なんだって』

特別―――

ルルーシュの中でそう呼べる存在は、もうずっとユフィが独占していて、そのまま変わらないと思っていたのに。
石に躓いて、転びそうになった体勢を立て直す。顔を上げるとそこには大きな水の流れがあって、スザクはそこを終着点として走るのを止めた。
 けれど考えは止まない。
考えたくない意思とは無関係に、それはぐるぐると渦巻いてスザクを翻弄する。
走ることを止めた胸がばくばくと煩い。呼吸は荒く、思考を邪魔する。
ジノがルルーシュの部屋に来ているのか。送ると云っていたから、それは当然のことなのかも知れない。でも、まだ居るとは全く思っていなかった。
どうしてそんなふうに信じ切っていたのだろう。―――それは、ジノがルルーシュの友達だから? それとも、恋人だから……

―――嘘だ。

咄嗟に自分の中で誰かの声が強くそれを遮った。
ルルーシュが男の恋人のことを、そんなに大事に扱うわけがない。ルルーシュの中では友人の方がランクは上で、だから友人はルルーシュの恋人にはなれなくて。
そこのところを良く判ってるリヴァルなんか、キレイにその枠に嵌って動こうとしない。ある意味で利口だと思う。
その点、自分は中途半端だ。幼馴染で親友。他よりルルーシュの中で優遇されるのは、過去を知っているからというただそれだけ。
そう、ルルーシュの心を独占するのは、過去を共有した、スザクではないただひとり。
そのひとりが今は傍に居ないから、ヤケになって寂しさを紛らわせるために、ルルーシュは適当にその場凌ぎの相手を作っているに過ぎないのに。認められてもいないくせに調子に乗る莫迦が増えてきて、断るのも面倒だとか云い訳するルルーシュが相手が居ない限り簡単にオーケーするものだから、その数は増える一方だ。ルルーシュが本気で男なんか相手にするわけないのに。
その莫迦の中に、ジノが入るなんて思ってもみなかった。
いや、ジノはルルーシュをずっと気にしていたけれど、ルルーシュにとってジノは対象外のはずだった。
だからその場では祝福するようなことを云っておいたけれど、どうせ告白した時点で友人の枠からも外されたジノなんて、すぐに振られるだろうと思ってた。
だから―――
ジノは未だに友人のレベルでルルーシュの中で優遇されているということに、ずっと気付かないフリをしてきた。
休みの日もジノと会わないでルルーシュは家に居たから、やっぱりジノは友人じゃなくなったんだなと、色々な理由を探してはむりやりそこにはめ込んでいた。
気付いてしまったことがあっても、そんなものは忘れてしまうよう自己暗示を掛けた。
そうしていれば、まだ少しの間は穏やかでいられた。
なのに、部活が終わった後ふたたび会ったリヴァルが、変なことを云うから。



『スザクが応援してくれたから、ジノは特別なんだって』



……どうして。
僕は、素直に応援なんてしていなかったのに。またどうせすぐに別れるんだろう、それで当然だって思っていたのに。


(君には、僕の声なんて届いていないんだね……昔から)


自分とルルーシュになら、何も云わなくてもテレパシーみたいなことで通じ合えると信じ切っていた頃もあった。
だけどルルーシュは全くスザクの心を判ってくれないどころか、読もうともしない。
そうじゃなきゃあんなひどいことはできないはずだし、その後のことだって、こんなふうに上辺だけ幼馴染を続けるなんてこともなかったのに。
スザクが本当は男だけじゃなく誰とも付き合わないで欲しいと思ってることだって、ちゃんと気付いてくれただろうに。
だってルルーシュが好きなのは、それまで紛うことなき唯一無二の親友だった自分を裏切ってまで欲しかったのは、お前らじゃない、ジノじゃない、自分でもない、彼女ただひとりだけで。
忘れられるはずがない、そう簡単に忘れられるものじゃない、だからルルーシュはきっと今でも彼女を想っている。
スザクと笑い、リヴァルと悪ふざけをし、ジノにまとわりつかれながら、ルルーシュは今も彼女だけを。
だって、そうじゃなければ、自分は一体なんのために身を引いたというのだろう。
スザクを裏切ってまで手に入れておきながら、今までの恋人たちのように簡単に捨てるだなんて、そんなことは許さない。
だって、そうだとしたら
それは、つまり、


(僕が、ルルーシュの中でその程度の人間ってことになるじゃないか……)


別に裏切ったことで離れて行っても構わない、その他大勢の中のひとり。
そんな、そんなことは。
ルルーシュに限って。あんなに綺麗で、笑顔が似合って、清廉潔白だったルルーシュが、





「―――スザク!」





「…………え?」


振り返ったスザクの眼に映ったのは、肩で息をするルルーシュその人だった。