四重奏
-quartetto-
***
ギイ、と。
やけにレトロな音を響かせる鉄扉をずらすと、途端白い光が暗く落ちた踊り場に射し込む。
そろりと足を踏み入れた先。そこはコンクリートの地面を無骨に浮き上がらせるばかりで、鳥が遠く羽ばたく他は何の音もしていなかった。
居るとしたら、ここしかない。
そんなジノの期待を裏切るように気配の感じられない屋上は、しかし重く沈黙を決め込んでいた。
背後にドアを閉める音が響く。
その音に導かれるようにして、後ろポケットに入れた携帯に手を伸ばす。既に何度も確認した、けれど。
「……連絡ナシ」
デスクトップには何のアイコンも浮かんでおらず、期待する着信音が鳴る様子もない。こちらからのコンタクトは当然とったが、返信がない。
体調不良らしいと云っていたので、もう帰ってしまったのだろうか。
ここで落ち合うことを毎日の約束にしているわけではないが、ルルーシュが休んだときや生徒会の用があるときなどは、律儀に事前に連絡をくれる。だから、何も云わずに帰ってしまうのは考えにくい。
あのルルーシュが周りに気付かれるほどの体調不良の原因と云えば、もちろん昨日のことしか思い浮かばない。だからジノに黙って帰ってしまったのだとしたら、嫌な予感しかしない。
けれど昨日の時点では、ルルーシュは殊更何でもない風を装っていた。いや、あくまでも装っていたので、本心ではこういうつもりだったのかも知れない。
けれどジノは賭けに勝った。―――勝ったはずなのだ。
そういうところでは頑ななルルーシュの性格は、ばっくれるだなんていう結果は望まないはずだった。
だからこれは考え過ぎなのかも知れない。
だがそれならそれで、今度は本格的に体調が悪いということになるので、心配になる。後処理はもちろんしたけれど、場所が場所だったし、自分のせいだ。冷静ではいられない。ルルーシュに関して、ジノが冷静になれるはずがない。
もし冷静でいられたなら、そもそもこんなに早く賭けの勝敗が決まることはなかったのだ。
ジノは殊更ゆっくりと、時間を掛けて、ルルーシュの視野を拡げようと思ってきたのだから。
「ルルーシュ……」
家までは行ったことはない。
だが場所は知っている。
突然押し掛けて良いものだろうか。ルルーシュはそれを許してくれるだろうか。
鬩ぎあう選択肢に、迷いに揺れた手がドアノブを擦り、向こう側から回される気配にはっと顔を上げる。
「ル、」
「―――悪いな。ルルーシュじゃなくて」
「リ、ヴァル……」
「先輩、だろー? なんて、まぁ今更だけど。全くお前は、ルルーシュ以外を敬う気がホンットにないよなぁ」
「あ…えっと、」
切羽詰まったジノとは対照的に、カラリと朗らかに笑ったリヴァルは、こじ開けたドアの隙間に小柄な身体を捩じ込ませて、屋上へと足を踏み入れた。
「へー、ここ狭いと思ってたけど、結構気分良いのな」
「あ、ああ。……ルルーシュの、お気に入りだから」
「アイツはマジで、何処から見つけて来るんだろうな。いくつ隠れ家があるんだか」
呆れたように笑って伸びをしたリヴァルは「そうそう」とジノと視線を合わせる。
「クラブハウスにも隠れ家があってさ」
「…え?」
「今は存在しないクラブの部室。何の部だったか知らねーけど、ソファどころかコーヒーサーバーまで設置してあって居心地良いの何の」
「へぇ……」
それは知らなかった。
リヴァルの云う通り学園中を知り尽くしているルルーシュは、色々な秘密基地を持っている。そのうちのいくつかは、「サボるときにでも使え」と教えてもらった。この屋上もそのうちのひとつだ。
だがその部室とやらは教えてもらった覚えがないので、それはつまりルルーシュとリヴァルの隠れ家だということだろう。
ふたりは悪友だと判っているので変な想像をするわけではないが、嫉妬に胸がぎゅっと唸る。ルルーシュが今まで付き合いをしてきた男の数を考えると、秘密基地もどんな使われ方をしてきたのか大体の想像がついた。
苦虫を噛み潰したような気持ちになって俯いたジノに、リヴァルはちらりと視線を投げると、一瞬何かを考える素振りを見せた。その様子にジノが俯いたまま気付かないで居るうちに、よし、と一言呟くと、人差し指を立ててジノの目前に掌を持ち上げる。
視界に入り込んだそれに、ジノが反射的に顔を上げた。
それを確認して、リヴァルがニヤリと笑う。
「そこまでルルーシュに必死な可愛い後輩君に、今日はご褒美をやろう。その特別室に、特別に案内しちゃる」
「―――え?」
「ソコ、何せソファがあるから。横になるには、一番最適な場所なんだよな」
「……それ、って」
「うん。アイツ、保健室は人の気配がするから嫌だとか我が侭云うからサ」
それは、つまり。
ぱっと視界に光が射し込んだような錯覚に、自然と笑顔が零れる。
「あ…ありがとう!」
「おう。感謝しなさいな」
そう笑いながら、来た道を引き返すべく振り返った背中がとても頼もしく見えた。
「するする! 今度何か奢るよリヴァル先輩!」
「調子良いなー、お前はホント」
呆れたように肩を竦めたリヴァルの態度は、潜む感情に暗いものは何も見えなかった。
一瞬だけ、ルルーシュの居場所を何故リヴァルだけが知るのかという疑いを抱いた自分を恥じる。
元より、スザクとはまた違ったルルーシュとの関係を築いているリヴァルに、多少妬みのような気持ちはあった。スザクへのそれとは比較にならないものだが、一年遅く生まれた自分を心底悔やんだほどには。
あと一年。
それだけ早く生まれてさえ居れば、きっともっと早くルルーシュの隣に立てたのに。スザクが居たって、そんなことは関係ない。あんな鬱々としてはっきりしない奴なんて、どうとでも蹴散らしてみせる。
―――別に、ルルーシュのことを除けば、スザクのことをそんなふうに思ったことなんてないのに。
こんな感情が自分にあるということが信じられなくて落ち込んだりもしたが、ルルーシュに笑顔を向けられただけでそんな悩みも吹っ飛ぶのだから、確かに自分は現金なのだろう。
ふらふらと歩くリヴァルの背中を追い掛けながら、そんな自分に苦笑した。
リヴァルが案内してくれるということは恐らく、少なくともルルーシュに拒まれてはいないと云うことだ。つまり、自分の考え過ぎ。そう思うだけで随分と心が軽くなる。
きっとルルーシュは、心配しすぎだと笑ってジノを受け入れてくれる。―――そうだ、きっと。
そうやってルルーシュが笑っていられるために、ジノは敢えて"賭け"に走ったのだから。
目の前を歩くリヴァルのように、付かず離れずの友人という位置付けを目指すこともきっとできた。
だけど、それでは楽なのは自分だけ。
ルルーシュは、今でもずっと罪の意識に苛まれているのだろう。だからスザクしか見えなくて、スザクもルルーシュを離したりしない。
そんなのってないじゃないか。
自分はそれをずっと知っていたから、早く解放してやりたかった。
スザクは弓道を始めとする武道のプロで、碌に練習に参加しないジノにもなんだかんだ面倒見が良くて。一度思い込んだら一直線、真面目すぎるのが玉に瑕だとルルーシュも笑っていた。その通り、スザクはきっと落ち着いて見直せば、もっと良くなることだってあるのに。
でもいざそうなってしまうとルルーシュが惚れ直してしまうかも知れないから、このままで良いのかも知れないと思っている自分が居ることも、否定できないけれど。
そしてルルーシュは、スザクのあの一本気すぎる性格が自分のせいだと思ってばかりいるから、あんなに溢れる魅力を隠してしまっている。隠しきれるものではないから、周囲は敏感に察知してルルーシュに惹かれるけれど、ルルーシュが何よりも綺麗なのはその普段は隠してしまっている優しさによるものなのに。
ふたりが有りのまま、昔そうだったというように朗らかに笑っていてくれたら良い。
かと云って、ルルーシュとスザク、ふたりが素直になって和解したとしたら、それは。
―――ふたりの間に大きく横たわる溝、それこそジノが息をし、生きている場所なのに、それがなくなってしまうということだ。
想像にぎゅっと胸が唸る。締め付けられるようなその痛みは、けれどジノにとって懐かしいものだった。
(大丈夫―――。ルルーシュは、今は私のものだ)
ルルーシュの望まない賭けを持ち掛けて、弱みをむりやり暴いて、そして手に入れた。ルルーシュは、そんな自分をそれでも受け入れてくれた。あの笑顔は、本物だったのだと信じたい。
だから大丈夫。
大丈夫だ、笑っていられる。
階段を駆け上がるリヴァルに続いて四段飛ばし、ぴょんと飛び上がって横に並んだジノに、リヴァルが驚いたようにひゅう、と口笛を鳴らした。
「タッパがある奴は良いねー」
「これでも昔は小さかったんだが」
「何ソレ。嫌味? 赤ん坊の大きさは、人間だれしもあんまり変わらないもんなんだけど?」
「それもそうだ」
ははッと笑うジノに、リヴァルがぶーと片頬を膨らませる。
「良いよなぁ、お前もスザクも」
「ん? 何がだ?」
「タッパはあるし、運動もできるし。俺もせめて、もーちょい背があればなぁ」
リヴァルが誰を思い浮かべてそんな台詞を云うのかジノには判らなかったが、ルルーシュではなさそうな気がしたし、何よりその気持ち自体は理解できた。
だから。
「強く願えば、意外になんとかなるものだと思うぞ」
「何その投げやりなアドバイス」
「投げやりなんかじゃないって、経験者は語るって奴だ」
「またまたー」
リヴァルは全く信じてない様子で手をぱたぱたと振っていたが、ジノは真面目そのものだった。
「いやホントに。元病弱少年の云うことを信じなさいって」
「いや、あのさぁ。増々信じられない方向に話が行ってるんですケド」
それでも信じたい気持ち半分、といった様子のリヴァルの表情を見て、ジノはそっと笑った。
「大丈夫さ。大体背なんて、男はハタチ超えても伸びるものなんだろう?」
「お、そうそう。そういう励ましを俺は待ってたの」
「なんだ結局、願えば叶うって信じてるんじゃないか」
励ましと云ったって、今からでも大丈夫だよなんてそんな台詞はただの気休めであることはリヴァルも判っているだろう。それでもその言葉を待っているのは、少しでもその可能性に賭けたいからだ。
「そりゃね。そのくらい信じてないと、体質とか才能だけで決まるってのも夢がないしね」
「それもそうだな。……うん、確かにそうだ」
判ってくれるかー? と酔っぱらいのように絡んできたリヴァルは、もう一瞬前に悩んでいたことなどとっくに吹っ切れた様子で、鼻歌を唄っている。
だれだって皆そうだ、とジノは思った。
だれでも皆願っている。
夢が叶うかどうかは、生まれたときの条件によるものだけではないのだと。願う気持ちを努力に変えて、それはやがて身を結ぶのだと。
だからジノは願った。
幼馴染なんていう関係がなくても、ルルーシュを手に入れられると信じて。
願って願って願って―――そして、叶えた。
けれどこの気持ちが、ずっと想い描いてきたころのような輝きを今は失ってしまったように感じるのは、それはきっと。
ジノの願ったことが、いつの間にか夢なんていう可愛らしいものから、姿を変えてしまっているせいかも知れなかった。