本当に、誰からも好かれる子だった。
それはもちろん俺自身も例外ではなくて。春の麗らかな陽、咲き誇る満開の花のような笑顔に、魅了された人間のひとりだった。
あの子が望むものは何だって叶えてやりたくて、それは誰にとっても同じことで、実際にあの子が願ったもので手に入らなかったものはなかったのだろう。
ただひとつを除いては。
四重奏
-quartetto-
睨みつけるように見据えた視線の先。
そこに在ったのは灰色にくすけた天井に浮かぶ、ただの無骨な染みだった。ふわふわと形作るそれが命を持ったように感じてしまったのは、感傷故か。俺は一体、何処の乙女だと自分自身の思考に奥歯を噛み締める。
視力は良いはずなのに、ここ最近はありとあらゆるものを見間違えることが多い。それは今のように無機物だったり、或いは実際に遠目の人影だったり。
―――つまり、あの子がここに、俺とスザクの傍に、帰ってきたのだと。
「おーっす、どうよ具合」
突如として幻想に割り込んだ現実に、半ば夢見心地で眼を向ける。
リヴァルがビニール袋片手に、入り口から顔を覗かせていた。
「……別に、最初から何ともない」
「ハイハイ。そういう強がりは、もーちょい顔色マシにしてから云えよな」
呆れたように肩を竦ませたリヴァルが無遠慮に部屋に立ち入ってきて、俺が横たわるソファの頭側に設置されたラブチェアに腰を掛けた。リヴァルの動きを追いかけるように、店名も何も印字されていない素っ気ないビニールがガサガサと音を立てる。
「どうせもう昼になるからな。購買で適当に見繕ってきた。何か軽く胃に入れておけよ」
「……ありがとう」
視界の端、差し出すリヴァルの手と共に映ったのは馴染みのプリンのパッケージだったので、その気遣いに素直に腰を上げる。……途端、腰に走った激痛はできるだけ受け流すよう努めて。
しかし、受け取ろうと見遣った先には奇妙なリヴァルの表情があった。
「……なんだよ」
「いや、人間弱ると素直になるのな」
「知らなかったのか、俺も人間だったんだ」
「そりゃー初耳だなぁ、俺様びっくり」
失礼な奴だ。
だがこの場の提供をしてくれたのがリヴァルという点を思い出して、文句は喉にプリンと共に押し込めた。
痛む下半身と熱をおして学校に出てきたは良いが、全く使い物にならなかった俺を見るなり、リヴァルは顔を顰めこの誰も足を踏み入れないクラブハウス棟、空き教室へ引っ張って来た。その気遣いに、俺なりに恩は感じている。俺の不調を、その原因を知る者が気にするだろうから、複雑な気持ちは隠せないが。
そんな俺を、リヴァルは相変わらず物珍しげにしげしげと見遣っていた。
「まぁ、プリンが好物の悪魔ってのも聞いたコトないか」
「……善良な人間でないことは素直に認めよう。自覚してる。だがよりによって悪魔ってお前な」
「だってルルーシュ、小悪魔の域軽く超えてんじゃん」
一体何人泣かせれば気が済むんだよ
リヴァルのいつもの軽口も今は痛い。痛いなんて思う権利はないのかも知れないが。
「―――そう。だが、俺は改心したんだ」
「何ソレ?」
「別に、そのままの意味だ」
「……それって、ジノのおかげ?」
「まぁ、そうかもな」
瞼を伏せて視線を逸らす俺をどう思ったのかは知らないが、リヴァルは少しだけ身を乗り出して探るような様子を見せたが、すぐに興味を外したように掛けていた椅子に背を預けた。
だらしない姿勢に眉が寄るが、指摘はしない。
「……でもそれで、過去の所行が流されるわけじゃないよな」
「何だ、今日は随分突っかかるな」
「お前は弱気だな、ルルーシュ」
今日はどうにも、リヴァルの機嫌は悪いらしい。
しかし俺の様子を見て、この場で休むように提案してきたのはリヴァル本人なのだし、むしろその時点では俺を純粋に労っているようだった、のに。
「……何か、気分を害したようなら謝るが」
「それそれ。その態度だって」
「は?」
「ルルーシュはさ。世界は俺中心に回ってるって感じでさ」
「……何だそれは」
「学園の奴らはみんなルルーシュに憧れて、ルルーシュ様のご機嫌を窺って、ルルーシュ様が気分良く過ごせるように気を遣って、お前はそれを当然のように顎でこき使ってさ」
「おい」
「だからそんな、人間離れしたような存在の神様ルルーシュ様が、ルルーシュだろ?」
「……何が云いたい?」
「俺はそんな弱ったお前なんて、知らないぜ。そりゃ神様だってたまには風邪ひいたり、体調不良くらいはあるのかも知れないけどさ。何かに思い悩んで落ち込むようなお前は、やっぱり人間だったんだな」
「……だから俺はそうだと云ってるじゃないか。なんだ、幻滅でもしたか?」
「いーや。残念だと思うこともなくはないけど、むしろ逆」
「逆……?」
リヴァルの話はやけに抽象的で、空を泳ぎながら足場を探している、飛び疲れた鳥のようだった。
何処に終着点があるのか、自分でも見つけられていないのか。
「……俺はそんな学園のカリスマでアイドルでマドンナで女王で、姫のルルーシュ様と、それでもダチだと思ってきたんだぜ?」
喩えが多すぎて付いて行けない。
だが、俺は確かにこの学園の、特に男子部では王者の如く振る舞ってきたかも知れないが、実際に細部にまで力が及んでいるかと云うとそんなことはないと思っていた。俺の周囲でだけ繰り広げられる、滑稽な猿芝居のようなものであって、その様子を端から見て冷笑する奴らの方が数は勝っているのだろうと思ってきた。
リヴァルも俺の傍に居る一員には違いなくて、だからそう感じるのも仕方ないことなのかも知れないが、それでもちゃんと客観的に物事を見ることのできる奴だと思っていたし、情報にも通じているようだったのに。
そんなリヴァルに面と向かって今の現状を諭されて、嬉しいわけではないが、何処となくむず痒い。
「それ、は……今も?」
「もちろん。今も何も、変わったことなんて、別にお前が具合悪そうにしてること以外ねーじゃん。体調は心配だけど、それだけだな。むしろダチとしては当然だろ」
「そうか…そうだ、な……」
例え俺にとって天地がひっくり返るような出来事が起こったとして。
そんなことは所詮俺の世界の中だけのことであって、他の誰かの世界は、何が変わるはずもないのだ。だからリヴァルにとっては、ただ単に俺の様子がおかしいというだけの普通の日なのだろう。
それなのに俺からすれば色が変わって見えるのは、これは自己改革の証か。
……処女を捨てたくらいで世界が変わるなんて、今時少女漫画でも見ない展開だろう。自分の乙女思考に目眩がする。
だが、別にジノに抱かれたとかそういうことが問題なのではないのだ。今まで拘っていたものが、殊更くだらないものだと判ったのは収穫だが。
―――変わった、ということではなく、結局は、変わらなければならないという脅迫観念がそうさせているのかも知れなかった。
しかしリヴァルは、そう結論付けた俺を更に混乱の渦に突き落として行く。
「まぁ、学園の奴らにとっては、それが大事件なんだけどさ」
「は?」
「お前が気分悪そうにしてるだけで、この学園にとってはオオゴトなの。朝からざわついて仕方ない」
「そんな大袈裟な……」
「それがそうでもないから大変なんだって。今だって、一体何人に呼び止められたか。見つからないようにここまで来るの、大変だったんだぜ?」
「それは……どうも、迷惑を掛けてすまない」
「だから、ソレが調子狂うってんだけどさ……」
ソレ、とはどのことだろう。
首を傾げる俺にリヴァルは呆れたように身体の前で手をひらひらと泳がせ、溜め息を吐いた。
「だからさ、俺は。ルルーシュが調子悪そうに見えたら、機嫌を窺って極力近寄らないようにしてる奴らとは違って、ちゃんと世話焼いてやるし、話も聞いてやるって云ってんの」
「……随分、遠回りだな」
「今のルルーシュが察し悪過ぎるだけだろ」
そうかも知れない。
リヴァルが何を云いたいのか、ここまで云われて漸く気付けるなんて。夢見心地のまま、思考が鈍っているのだろうか。
「……でも別に、何があったってわけでもないんだ」
そう。そうだろう。
俺の中で意識改革があったというだけの話だ。何かが変わったとすれば、それは俺とスザクの関係性で、けれどそれは外から見れば何も変わらないはずだった。
だから、過去を知らないリヴァルに向けて敢えて口に出すようなことでもない。
なのにリヴァルはうさんくさそうな眼で俺を見ている。
「……本当に?」
「え?」
「珍しく上手く行きそうだと思ってた先輩と別れて、ダチに手は出さないって云い張ってたくせにジノと付き合って。そんでスザクとは一緒に帰らないようになって? その上、体調はともかくとして、なんだか落ち込んでる。本当にお前、何もないって云い切れるのか?」
「それ、は……ジノには本気だって、そういうことじゃダメなのか」
「落ち込む理由にはならないだろ」
鋭い。だが俺だって、云い負かされるわけにはいかない。
偉そうに振る舞うのが俺だって、リヴァル自身もそう云っていたではないか。
「……スザクや、お前と。距離の取り方が難しくなったなって、考えてただけだ」
「はぁ?」
「ジノと付き合ったことで、今までのバランスが崩れると云うか……最近はジノと過ごしてばかりだったからな。差は付けたくないし、……だから友達を恋愛対象すると面倒だなって、それだけ」
そう。全ては俺が考えすぎる性格がいけない。
スザクのように考えより先に身体が動く性質だったら、きっと今よりいくらかはスムーズに運んだ出来事だってあっただろう。
「……お前がダチに手を出さない理由って、それだけか?」
「そうだとも。他に何が?」
「いや……」
歯切れの悪そうに首を傾げるリヴァルを見遣って、俺は鬱蒼と微笑んだ。それに目敏くリヴァルが反応したのが判るが、それ以上を語る気はなく。
だって相談してどうにかなるものではないから。
「さて、午後は出るかな」
「……止めとけば。一応、生徒会に顔だけ出しときゃいーよ」
「だが、それじゃ来た意味がないだろう」
「だからお前が出て来ると、学園の至る所で大騒ぎになるんだって……。つーかさ、そもそも何で来たのよ。座る体勢さえキツい癖して」
「それは気にする奴が居るからな」
「ああ、スザクな」
「……は?」
スザクが、一体何だと云うのか。
俺の不調とその原因を知り、気遣って来るのはジノのはずで、俺が今日学校を休もうものなら自分の所為だと自身を責めそうだと思って。
だが、スザクは。
確かに原因は知っているかも知れないけれど、でも。
真っ先に名前が挙がるほど、気にしてくれているわけはないと思った、のに。
リヴァルから当然のように出された名前があまりにも明確に心臓を突き刺したので、俺は素っ頓狂な返事をしてしまった。
だがそんな俺をリヴァルは特に疑問に思うことなく、だってそうだろと頷いている。
「調子の悪いルルーシュをスザクが異様に心配すんのは、いつものことじゃん。今日も、ずっとルルーシュの席チラチラ見てたぜ。居ないの判ってんのにな」
「……ああ、」
そうだった。
それこそ学園中に散らばる俺の信奉者(中には元カレという存在も居る)のように、若しくはそれ以上に、普段から俺を気遣ってばかりいるスザクは、俺のちょっとした不調を敏感に察するのだった。それはいつものことで、リヴァルから見れば今日のスザクもまたそうなのだろう。
俺が今変わったと思ってばかりいるのは俺から見たスザクとの世界だけの話で、だからスザク自身には何も変わるところなどない。精々が、校舎内で何をしているのかと俺やジノに風紀的な怒りを感じるくらい。
そう、アイツはそういう奴だ。真面目一辺倒で、融通が利かない。
あのとき、ジノとの行為を見られてしまったのかも知れない、と。
一瞬だけ奔った絶望感はしかし、どうせあいつは歯牙にもかけず受け流すだろうと云う予測に打ち消された。
だから俺が今日、具合が悪そうにしていたところで、原因が判明している以上、自業自得だと適当に放置されるとばかり思っていたのに。
どこまでも実直な奴だと思えれば良いが、何かが違うと胸の奥、違和感が叫んでいた。
「朝は会わなかったのか? スザクから、ルルーシュ来てるみたいだけど何処に居るのか判らない、周りはみんな具合悪そうだったとか噂してるけど知ってるかって、何回も訊かれたんだけど」
「ああ……アイツは朝練だったからな」
「あ、それもそっか。お前ら朝は別だったな」
俺は朝には弱いし、弟妹の分も含め弁当を作らなければならないので、さすがにスザクの朝練に付き合うほど酔狂ではなかった。
だから放課後の一緒にいる率に比べると、朝から連れ立って登校するというのは数えるほどしかない。俺はギリギリの登校だし、スザクも朝練の後シャワーを浴びてから教室に来るので、ホームルームの後になってそこで初めておはよう、というのが大体の生活リズムだ。
更に最近は放課後をジノと過ごすようになったので、教室でしかスザクの顔を見ないということさえ多かった。
それは別に良いのだが。
「それにしても……アイツが噂なんか気にするのか?」
「はぁ!? 何云ってんの?」
「え? な、なんだ?」
リヴァルが仰け反ってまで驚いてみせたので、俺も何事かと身構えた。
「スザクほどルルーシュの噂に敏感な奴なんて居ないだろ。良い噂から悪い噂まで、お前ストーカーかってほど情報収集に勤しんでるっつーのに」
「…は?」
「何だ、本人知らなかったのかよ……俺は最初、お前が学園内の情報把握しとくために、スザク使って探らせてんのかと思ってたけど」
「……なんだそれは、俺は一体何様だ」
「だから神様ルルーシュ様だろ。スザク含め、学園の奴らは皆そう信じてるぜ。わりとマジに」
それはリヴァルこそが俺を変な目で見過ぎではないかと思ったが、心からの発言であることが判る表情だったので、これ以上の問答は無用だと思った。
だけど俺にだって譲れない点はある。
「だからってスザクを使うとか……そんな云い方はないだろ。スザクは友達だ」
俺がどう思っていようと、外側から見た俺とスザクの関係はそれ以外にない。それは俺の最後の矜持だ。
「まぁ俺は判ってるけど。周りはどう思ってるかね」
「そんな……感じなのか。俺とスザクは、周りから見たら」
「うーん……」
リヴァルは言葉を探すように腕を組み、視線を宙に浮かせた。
「まぁ、ふたりの性格もあるのかも知れないけど。お前はスザクに構いすぎだし、スザクはお前に気を遣い過ぎに見える」
「そ、うか……」
こういう場で繕うことをしない、感じたままを告げてくれるリヴァルの云うことなのだから、客観的に見てもそういうことなのだろう。もちろん、それはリヴァルのように、俺やスザクの近くに居て、俺たちをちゃんと見ているからこそだと思うが。
「スザクは……俺を、見張ってるだけなのにな」
「…は? 何?」
「俺が、節操のない酷い奴だから。俺がこれ以上間違ったことをしないように、見張ってるだけなのに」
「……どゆコト?」
神妙そうに目を瞠るリヴァルに微笑みだけ向けて、俺はふたたび横になった。
良い加減、腰が限界だった。
確かに、どうしてこんな調子で学校に来ようだなんて思ったのだろう。普段はちょっとしたことだけですぐ自主休校を決め込むのに。
―――ジノが気にすると思ったから。
それだけだろうか? 本当に?
自問自答を繰り返しても、答えなんて出て来ない。
「スザクが……俺を気遣うのは、復讐する機会を窺ってるからなんだ」
「は…?」
リヴァルには寝耳に水だろう。
そりゃそうだ。普段の俺とスザクはお互い気に掛けすぎの友人同士でしかないのだから。次々と男を取っ替え引っ替え付き合っている俺と、そんな態度を諌める幼馴染。そう映っていたはずだ。
「前にお前、俺に彼女が居たかどうか訊いたろ?」
「あ、ああ…スザクが、そう云って、」
「違うんだ」
「……何が?」
「忘れられてないのは、むしろスザクの方だ」
俺はもうリヴァルの方を見てはいなかった。ただ気配で、リヴァルがこれから始まる話に怯む様子を感じ取る。
すまないが、ここで今更気を遣い、話を止めることはできない。何より最初に聞きたがったのは、リヴァルの方じゃないか。
本当に真実を知るときになって怯むなんて、そんなのってないだろう。
俺の気持ちを読み取ったがどうかは知らないが、リヴァルの中では聞きたい気持ちの方が勝ったのだろう、乗り出して来る気配を感じる。
「スザクが……アイツが、何?」
「―――あの子は、スザクの想い人だったんだから」
「スザクの?」
「そう……それを俺が、盗ったんだ」
射し込むような蛍光灯の光を嫌って瞼を閉じれば、その裏側に浮かぶのは華が綻ぶような笑顔だった。
どうして鍵をかけていたはずのこんな思い出を、リヴァルに今更話す気になったのか。
それは気が弱っていることに加えて、スザクとの関係では有り得ない、『俺はお前のダチ』だなんてこっ恥ずかしい台詞に、心を打たれてしまったせいかも知れなかった。