三重奏
-trio-










剥き出しに打ち付けられたコンクリートから、フェンスの網目に分断されたブルーの透く空へ。向けた視界を遮る、目映い髪と真摯な眼差し。


「ルルーシュ。何か、飲むかい?」
「っあ、……」


返事をしようとした声は見事喉に支えて止まった。


「ああ、すまない。声が擦れてしまったんだな。……起き上がれる?」
「、」


こくりと頷いて、差し出された腕に捕まる。力が入りきらなくて、引っ張られてすぐまた崩れそうになった肩を逞しいもう一方の腕に支えられた。


「え、っと。喉、痛いか?水か何か?」


頷く。
喉が痛いわけではなかったが、ひどく乾いていた。喉の奥で干涸びたものが詰まっているような感覚。おかげで空気が上手く通ってくれない。
そんな俺の上半身を壁に寄りかからせて、けれど響いた傷みに眉を顰めた俺に気付いたジノは、自分の鞄を枕にして再び俺を横に寝かせた。確かにこの体勢の方が楽だ。


「ゴメン、用意してなくて……すぐ買ってくるから」


咄嗟に首を横に振った俺を、ジノが申し訳なさそうに見つめてくる。


「だけど、無理させたのは私だから。本当にゴメン、最速で行ってくる」


伝わらなくて、腕の布を引く。
もどかしい願いを無理に喉に押し込めて、それは不思議と綺麗に通り抜けた。


「行くな」


強く願えば、意外に何とかなるものらしい。


「え…っと。ルルーシュ?」
「俺の、鞄に……」
「え、何か持ってるのか?」
「水筒、お茶が……」
「判った! 勝手に開けるからな!」


何処か切羽詰まった様子でジノが云われた通りお茶を探し当てる。渡されたそれを一気に流し込んで、漸くひといき吐いた。


「だ、大丈夫か?」
「……何の心配をしている?」


まさか後悔しているとか云うのなら、こんな身体でも無理矢理動かして吹っ飛ばしてやる気満々だったが、ジノの様子はそういうことではなく。


「無理させちゃったから……身体、痛いよな? 特に背中とか」
「ああ、まぁ……」
「やっぱり!」


云われれば痛いような気もするが、動かさなければそうでもない。それより重症なのは腰だ。あともう一カ所。
それをそのまま告げることは憚られ、かと云って強がって平気だとも云えなかったので適当に誤摩化したが、ジノはわあわあ云って騒ぎ出した。


「……煩い。頭に響く」
「ゴ、ゴメン。大人しくしてるから」
「お前も飲むか?」


異様にしゅんとしてしまったので、咄嗟に残ったお茶を差し出すと、余計恐縮した様子でぶんぶんと首を振る。


「わ、私は大丈夫だ! それよりルルーシュの方が、まだ声擦れてるみたいだし……」
「喉が痛いわけじゃないから平気だ。まぁ、飲みたくなったら飲め」
「うん」


コトリとジノと俺の間に水筒を置くと、それを見て何故かジノの頬が薄く赤く染まっていた。赤くなったり青くなったり忙しい奴だ。
それきり、暫く無言が続く。眠いわけではなかったが、緩く停滞したような空気に、薄く瞼を閉じていた。
遠く運動部の掛け声と、空高く鳥の鳴き声が響く。それは俺を嘲笑っているかのようなテンポで、屋上の静寂を引き裂く。
数分、もしかしたら十分以上も経った頃。
不意に、黙りこくったまま動かなかったジノが口を開いた。


「ルルーシュ……私は、謝罪の言葉を持たない。場所や、性急さについては素直に謝るけれど……行為そのものについては、後悔してないから」
「……してるとか云ったらはっ倒してるところだ」
「うん。だけど、むりやりだったとは思う。賭けの勝敗につけ込んで。だからルルーシュが私を見限るのなら、私に引き止める権利は無いんだ」


確かに強引と云えば強引だった。だけど、むりやりだと云われて頷く気が起きないのは、


「……俺は同意したはずだが」


だからそんなに恐縮されてしまうと、逆に頭に来る。俺の機嫌バロメータを急速に下げたことに気付いたのだろう、ジノが慌てた様子で身を乗り出してきた。


「だっ、」
「だ?」
「だけど、ルルーシュ、終わった後真っ青だったし……あと、泣いてたから」
「単純に生理的なものだろう。気に病むことはない」
「じゃあルルーシュは、厭じゃなかった?」
「知らないのか。俺は、逃げ足には定評があるんだ」


わりと、色んな方面から。
全く意に介さない俺の平坦な様子に漸く納得したのか、ジノは深く深い溜め息を吐いた。


「抱いた後で嫌われたら、どうしようかと思った……!」
「大袈裟な奴だな。俺もそこまで情緒不安定じゃない」
「うん、でも……良かった」


ジノの表情は落ち着いてはいたが隠しきれないものが滲み出ていて、これがジノの云う歓びだとかそういうものかと思った。苦しささえも凌駕する、歓喜。
そんなものを見せられれば、後悔してるとはとても云えない。実際、しているわけではないが。
何だかずっと貞淑なんぞ守ってきてしまったが、こうなってしまってちょっと拍子抜けしているだけだ。
すこしだけ胸に穴が空いてしまったようにも感じるけれど、それが楔だったことも確かだ。つまり俺は今何にも縛られず、自由でいられるということ。
もう少し時間が経てば、この喪失感にも慣れるのだろうか。
スザク相手の俺の一人芝居も、落ち着いてまた隣同士笑い合える日が来るだろうか。
口には出せない思考で視線を彷徨わせていると、ふとジノがフェンスの向こう側を見ていることに気付いた。
床に腰をついたまま、真下というわけでもない何処か遠く。
けれど景色を眺めているというわけではなく、確かに何処か一カ所を見ている。その方向は、確かさっきも。


「……ジノ? そっちに何かあるのか?」
「え?」
「さっきもお前、フェンスの向こうがどうのって……」
「ああ…うん。やっぱり、謝らなきゃいけないかなぁって」
「……何を?」
「私はつけ込んでいるんだ。ルルーシュがひた隠しにするその弱さに」
「なんだ……今更そんなこと、」


気にするな、と云い掛けたところで、ジノの人差し指に唇を遮られた。


「……やっぱり、フェアじゃないと思うから、云うよ。賭けは公正でないといけないよな。今更、って云われると、やっぱり謝ることしかできないけど」
「お前、さっきから何の話を……」
「うん。ルルーシュは気付いてなかったみたいだけど。この、向こう。あの建物の影はね、弓道部の鍛錬場なんだ」
「え……」
「もちろんこの屋上は校舎が入り組んでいて死角だし、そもそも立ち入り禁止だから他から見えることはないよ。だけど上手い具合に、あそこだけ開けちゃってるんだよな」
「……弓道部、だと……?」
「そう。距離が在るから、向こうが気付いたとしても精々人影くらいのものだけど。異様に視力の良い人間だったら、もしかしたら特定させることができるかも知れない」
「何……」
「此処で何をしているのか、それが一体誰なのか」


ジノが指で示すその方向に、導かれるようにして首を上げる。
俺の眼では、ここからでは動く人影を何とか認識できる程度だが、確かに云われた方向にわらわらと動く固まりを見つける。
こちらは見晴らしの良い高台から見下ろしているから良いけれど、向こうからこちらを認識するためには、まず意識を上に向けないといけないから、見つけるのは難しいかも知れない。ましてや鍛錬場ということは練習に集中しているだろうから、こんな屋上の一点なんてじっと見ることはしないだろうし、誰が居て何をしているのかなんてことまでは判らないだろう。
異様に視力が良く、また気配に敏感な者じゃないと―――
怠い思考を無理に動かそうとして、一瞬奔った予感。ジノの何かを訴える視線に、はッと気付く。

居るじゃないか、正にそんな人物が。俺の、ものすごく身近に。


「ほら、ね? 私は結構、ズルい男なんだよ」


ジノの歪んだ微笑みの残像が、チカチカと瞼の奥で燃えていた。

























珍しく、スザクを挟まずふたりになった瞬間だった。
ジノとは元々がスザク繋がりの関係だったが、ジノが妙に俺と関わりたがったから、スザクが連れてきて三人で遊ぶことが多くなっていた。
俺は大抵スザクとふたりきりだったり、そこにジノを交えた三人だったり、時にリヴァルが混ざったり混ざらなかったり。リヴァルとふたりだけのときもあったし、或いはそのとき付き合っていた相手とふたりだったり。
だから、ジノとふたりきりというのは初めてかも知れないと思っていた矢先だった。ジノが、妙に真剣な瞳で、けれど口元だけ笑みの形で俺に提案をしてきたのは。


「賭けをしませんか、センパイ」


それはあまりにも急な問い掛けで、俺は咄嗟には反応できなかった。


「―――は? 賭け?」
「そうです。センパイを見ていてね、いつまでこんなこと続けるのかなーって、哀れに思って」
「……哀れとは、失礼な奴だな」


一体何の話なのかと訝しげに見遣れば、ジノは苦笑したように首を傾げた。


「だって見ていれば判りますよ。簡単なことだ」
「何をだ?」
「センパイの好きな人。私は知っていますよ。スザクでしょ?誰と付き合っても変わらない」
「ッ、」
「でもセンパイは動かない。スザクもだ。何処かで遠慮し合ってて、踏み込まない」


最近つるむようになって、付き合いやすい良い奴だとばかり思っていたジノに何故こんなことを云われなくてはいけないのか。
憮然とした俺に、しかしジノは容赦なく突き刺す。


「……思わない。だけど、時間が解決することだって……」
「ないですよ。ナイナイ。だって、幼馴染なんでしょう?いつからなのかは知らないけど、もう充分な時間が経ってるじゃないですか」
「お前……」
「睨まないでくださいよ。別に、虐めたいわけじゃないんです」
「じゃあ、何のつもりなんだ。大体、なんで判った?」
「センパイの気持ちですか?」


云われてみればそれもそうだが、そんなことは割とどうでも良い。俺はスザクにはバレないようにだけ気を配っていたから、他から見たら判りやすいのかも知れないから。それよりも。


「違う。遠慮の方だ」
「ああ……。それこそ簡単だ」
「何……」
「私がセンパイを好きで、いつも見ているからですよ」
「……ハ、?」


急な話の展開に、一瞬頭が空っぽになった。
こくはく、というものには慣れているつもりなのだが、こんな展開は初めてだ。スザクの指摘通り、俺には信奉者は多かったが、逆に俺のような奴に興味のない者はとことん興味を示さない。ジノは単に友人として興味があるだけで、そういう意味ではないと思い込んでいた。


「気付かないんだろうなぁ。あんなにあからさまだったのに、鉄壁の防御が在るから、伝わらない」
「……何のことだ」
「判らないなら、余計です。賭けをしましょう。ちょっとだけ、動いてみません?」
「……どういうことだ?」
「知ってますよ、センパイの常套文句。『友達には手を出さない』」


知っているなら余計だ。交流関係の狭い俺が、ジノを友人の括りに入れているのは周囲には判りきったことだろう。


「……それがどうした」
「だから、そこを一歩踏み出しましょう。私と付き合ってください」
「は……?」
「センパイ今フリーじゃないけど、どうせそろそろ限界でしょう? なら私に乗り換えましょうよ。私はこの気持ちを賭けますから、センパイはご自由に」
「……勝敗は」
「センパイが、スザクを諦めたら私の勝ち。そしたら、スザクが文句垂れようが何しようが遠慮なくセンパイをかっ攫います。私と付き合って、それでもセンパイがスザクを好きで居続けて、スザクに告白したらセンパイの勝ちです。私はそれまで何があっても別れないし、周囲に宣言しまくるけど、センパイが勝ったら身を引きます」
「そんな……賭け、なんて」
「意味が無いって、云い切れます?今まで交流の少ない奴とばかり付き合ってたセンパイが私と付き合うというだけで、それは変化を呼ぶはずだ」
「……だが、それは俺に不利すぎないか」
「そうですか?」
「大体、そこでスザクに振られたら何の意味もないだろう」
「それ自体はセンパイ自身の賭けでしょう? ひとりになるのが寂しければ、別に私は、保険にしてもらっても構いませんけどね」
「……それは……」
「そこで私に悪いって思っちゃう時点で、センパイは今の方法に向いてませんよ」
「う、」
「私はこう見えても結構ズルい男なんですよ。センパイの弱みにつけ込んでるだけなんだから、気にしなくて大丈夫です」


ねぇだから。
―――私と賭けをしませんか、センパイ。