三重奏
-trio-










結局、休日はスザクに付き合わされたまま終わってしまった。スザクの誘いに快諾の返事をしたのは俺自身なのだから、スザクを責めるのはお門違いなのだと判ってはいるけれど。
それに結局は、俺はスザクと過ごして、笑っていたのだろう。スザクとの応酬に必死で、その辺りの感情は良く覚えてはいないけれど。
愉しかった、のだと、思う。俺にとって、スザクと過ごす時間はかけがえのないものなのだから。
ああだけど、そう云えば、ジノにクッキーを作ってやることができなかった。そんな軽い後悔を覚えながら、屋上へと向かう。
特に言葉を交わして約束したわけではなかったが、放課後の逢瀬は、ジノとの間の暗黙の了解のようなものだった。
何故か鍵開けはジノの方が得意で、大抵はジノの方が先に来ていた。部活は良いのかと聞いたが、元より試合前あたりしか姿を見せないと残念そうにスザクが嘆いていたので、その質問は意味を成さない。やはりと云うべきか、訊いたところでジノからはもっと大事なことがあるからねとウインク混じりに返されてしまった。生徒会役員がそれを許容するのもどうかと思うが、恥ずかしさのあまり二の句を告げなかったのだから仕方ない。
なんとか持ち直して漸く、部活をサボる云い訳に人を使うなと云ったところで、俺を嬉しそうに迎え入れる表情は本物だから強がりにしかならない。
けれど屋上へ続くドアを開けた途端俺の腕を掴んで自分の胸に引き入れ、また外から施錠するときの顔は、確かに犬は犬でも雄のものだった。
そのときのジノは、嫌いじゃない。どきりと高鳴る胸の鼓動は、もう誤魔化しようがないものだと自覚している。
だが今日は扉を開けたとき、いつもの所定の位置にジノは居なかった。
鍵は開いているので、まだ来ていないというわけではないだろう。
視線を彷徨わせ、いつもなら給水塔の壁に背を預けているはずの姿を探す。ドアから身を滑らせたところで、影になって隠れていたその長身は割合すぐに見つかった。


「……ジノ?」


フェンスに上半身を預け、少し遠くを見つめる視線は。
今までに見たことがないほど、鋭いものだった。


「―――ああ、ルルーシュ。悪い、気がつかなかった」
「え、あ。ああ、それは構わないが……」


しかし振り向いて俺に向けられた瞳は、さきほどのまでの冷たさが嘘かと思うほど和らげられていて。


(でも、……違う)


嬉しそうにするばかりで、そんな優しそうな瞳はあまり見たことがなかったのに。


「なぁ、ルルーシュ」


突然の問いかけに、違和感は更に強いものとなる。
動揺を押し隠すようにして、首を傾げた。


「なんだ?」
「ルルーシュは、ここから学園内の景色を眺めたことはあるかい?」
「いや、もっと遠くならあるが……そう云えば、真下はないな。なんだ、何かあるのか?」


ここ、とジノが示す場所に歩いて行こうとするが、隣まで来たところで本人によってさりげなく視界を阻まれてしまう。
どんなつもりかと睨み上げるが、ジノは俺を見ずにフェンスの向こう側に視線を飛ばしている。
無意識のようだが、その瞳は何かを語りかけているようにも見える。
だが、こんなに近くに居るのに、視線を合わせないなんて懲り懲りだ。
自分でも驚くほど短い時間の間に痺れを切らし、ジノの袖をちょいちょいと引くと、漸くジノははッとしたように俺を見下ろす。
そうして、困ったように眉尻を下げた。


「これは……契約違反なのかなぁ」
「―――何だ、いきなり」


突然、不穏な台詞を吐いたりして、何のつもりか。
だがジノ自身が何より戸惑っている様子だったので、俺もそれ以上は責めずに言葉を待つ。


「うん……おいで」


寂しそうな瞳で腕を拡げられたので、半ば衝動的にその中に落ち着く。
こんな風に云われても、年下のくせに、とは思わない。
こういう関係に変わってから、敬語から変化したジノの口調を許したのは俺自身なのだから。


「どうした、何か……不安か?」
「不安……そうだね。判っていたつもりなんだけど……」


歯切れの悪い台詞。ジノにしては珍しい。


「―――何を?」
「うん。ルルーシュが、本当に想う相手について」


それは。
既に云われていたことだったので、別段驚くことではない。
私は知っているよと、云われたのはつい最近の記憶だ。
だが何故それを今引っ張り出してくるのかが判らなくて、無意識に眉根を寄せる。


「……それが、どうかしたか」
「うん。ちょっとね。休みの間、見てしまったから」


ああ、と納得する。
つまりは俺とスザクが出掛けた場所に、ジノも居たということだろう。この長身に気付けなかったことが不思議でならないが。


「何だ、それくらいのことで」
「私にとっては一大事だ」
「今更だろう?」
「そうだけど、心は付いていかない」


俺とスザクが幼馴染でしょっちゅうひっついていることは、恐らくジノとリヴァルが一番良く判っているはずで、特にジノは付き合う前、三人で過ごした時間も多かったのに。
だけど心が付いていかない、と。
そう告げた心情は、俺も知っているつもりだったから。


「なら、声を掛ければ良かったのに」
「できないよ……そんな、神経の図太いことは」


神妙に云うことがおかしかったが、笑いは漏れなかった。何よりそんな雰囲気ではない。


「だって、ルルーシュが……」
「俺が?」


なんだと云うのか。


「あまりにも、辛そうだったから」


ひゅっと喉が鳴る。


「私が声を掛けたところで、きっと助けになるどころか、ひどくなりそうなくらいだった」


……その通りだ。
自覚はある。判っている。俺は笑ってなんかなかった。笑えるような心情じゃなかった。実際あの時間は拷問だった。
だけど俺は上手く取り繕っていると、思っていて。
それを、恐らく遠目から見ていたのだろうジノには丸判りだったなんて。何より、そんな俺に気付かないスザクが、


「あ……何、」
「うん。ゴメン」


ぎゅっと抱き締める腕に力を込められる。だけど暴れ出そうと擡げた力はそんなものでは収まらない。


「そんな、お前が謝るようなことじゃ……」
「うん、判ってるよ。だけどそろそろ、限界だと思うんだ」
「限界、って……」


顔を上げられないままの俺の髪に、優しい言葉が降って来る。到底年下とは思えない、包容力の感じられる声が。
きっとその瞳はやはり優しい色をしているのだろうと思った。
だけど、見れない。一度見てしまったらきっと、暴かれる。


「なぁ、この前。私はルルーシュに云っただろう?」
「……何を?」
「恋が、苦しいものだって」
「ああ、そうだな。……云っていたな」


好きだから、苦しいと。
負の感情さえあっさりと相手の前に曝すことのできるジノを純粋に羨ましいと思ったから、印象深かった。


「あれを少し、訂正しようと思って」
「何だ?」


折角良いイメージを抱いていたのに、と残念な声を出す俺に、あくまでもジノは優しく諭す。


「苦しいだけじゃなくて、辛いこともいっぱいあるさ。だって好きなんだから、色んな変化その総てを気にしてしまうからね。だけどそんなことで悩むよりもずっとずっと、一緒に居ることの嬉しさや愉しさや、その期待の方が大きいから、恋心を捨てられないんだ」
「……だから、付き合う?」
「そうだね。片想いだったなら、それは独りよがりの自己満足でしかない。だけど付き合っていたら、嬉しいことがあれば、苦しいことも辛いこともちょっとした試練に変わる。一緒に居て、諦めずに居て良かったと思う」
「……試練、か」


なんて前向きなんだろうか。自分が恥ずかしくなる。
今まで俺は自分に自信があるばかりで、それ以上に自分のことしか考えてなかったから、世界は自分中心に巡っていた。だから相手が俺に尽くすのは当然だった。
この俺が付き合ってやってるんだから。
だがジノに限っては―――俺は、この男には相応しくないんじゃないだろうかと、今更。


「そう。……なぁ、ルルーシュ」


思ったところで、そのジノから、あまりにも切ない声を向けられる。


「なんだ?」
「ルルーシュは、スザクといて……愉しいか?」
「―――え?」
「愉しくなければ恋じゃないとは云わない。嬉しい気持ちばかりが恋ってわけじゃない。苦みがあってこその恋だとは思う。だけど……ルルーシュの恋は、苦しいだけなんじゃないのか?」


ゆっくりと、言葉を噛み締めるように諭される言葉。けれどその奥に、慈愛だけじゃない怯えも見てとれた。だから


「そう、だな……そうかも知れない」


不思議と素直に、頷けた。それはずっと感じていて、けれど認められずにいたことだったけれども。


「そんな苦しいばかりで、それでどうして耐えられる?」
「どうして、って……」


どうしてだろう。どうして、俺は。


「スザクが、見返りをくれるわけじゃないだろう?」
「そんな、見返りなんて……」
「うん、求めるようなものじゃないってことは、判ってる。私もルルーシュにそんなものを求めてるわけじゃない」
「じゃあ、何だと云うんだ」
「それを聞いてるんだよ、私は」


戸惑いながら、俺が逃げ道を探しているのを判っているだろうに、ジノの追及は止まなかった。


「吐き出してみてよ。それとも私は、まだそれも認められないかい?」
「いや…いいや……そうじゃない、けど」
「ゆっくりで良いから。一度吐き出してみると、少しは楽かも知れない。今のルルーシュは詰め込み過ぎのように見えるよ」


その言葉に、頑なに閉じていたこころを溶かされる。
今までは胸で詰まっていた言葉が、するりと喉を通り抜けた。


「……おれ、は、」
「うん」
「スザクが、好きで……他の誰もどうでも良いと思って、いて。でも、俺じゃスザクを倖せになんてしてやれないから、告白する気なんて、なくて。俺に執着してるのは嬉しいけど、どこかの可愛い女の子と倖せになって欲しいと思ったのも、確かなんだ」
「そうすれば、諦められるから?」


辿々しい俺の説明に、判りやすい注釈が加えられる。
それは鋭過ぎる突っ込みではあったが、認めることに躊躇は無かった。


「そう。きっと、そうなんだろうな。それで、せめて親友として一緒に居られるなら良いと思ってた。けど、そう思っていながら、アイツがどんな女を抱いてても、そこに心がないって知ってたから安心、して……そんなんじゃいけないのに」
「うん」
「アイツが誰を想ってるのか、俺は良く……すごく良く、知ってるんだ」
「……」
「それを踏みにじったのは俺で……だから、俺は、恨まれても仕方ないんだ。なのに、アイツは突き放すことはしなくて……」
「……うん」
「自分は好き勝手してるくせに、俺が誰かと付き合うたび、ひどいことを云ってきて……」
「うん」
「どうしても……そう、ジノの云う通り。辛いばかりだ―――愉しいことなんて、ない」


ぎゅっと更に強く抱きしめられた。苦しいが、厭ではない。胸はいっぱいに詰まっているけれど、辛くはない。


「私は愉しいよ。ルルーシュと居て」
「……なんで。俺はスザクが好きなんだって、知ってるだろう?」


もちろんジノに惹かれ始めている自分が居ることを知っていたが、それをここで伝えることはかえって残酷だと思ったので口を噤む。


「だけど、私と二人で居るとき、いつもスザクのことを考えてるわけじゃないだろう?」
「それは……そうだが」
「それで充分だ。つけ込んだのは私なんだから。必死な私にルルーシュが優しく反応してくれて、それだけで倖せだよ」


優しくした覚えはなかったが、ジノはそう感じていたらしい。
……そう。そうだ。俺も最初は、そうだった。
スザクが笑うたび俺も嬉しくなって、会話のひとつひとつが愉しくて。それを反芻しながら、次に会える時間が待ち遠しくて。
なのに、今は。


「いつか、私と居て愉しいと思わせてみせる。私に会う時間を心待ちにするくらい。私と居る間、スザクのことなんて思い出させないくらいに」
「ジ、ノ……」


ぎゅっと胸が、唸る。心臓を鷲掴みされたみたいな痛みが襲いかかる。
だけどそれは、既に、スザクと居るときの辛さとは違う、甘美なものだった。


「それに、ルルーシュはまだ私を好きじゃないだろう?」
「え、あ……」
「良いんだ、素直に頷いてくれて。まだ好きじゃないということは、少なくとも、私と居て苦しくはないということだよ」


それは。その台詞は、今の俺には覿面に有効すぎた。ぐらりと傾く心をまるで見透かされているようで、けれど悪い気はしない。
だけど。


「でも、それは」
「うん」
「お前が、苦しいんじゃないのか」


お前が俺と居て愉しいと、嬉しいと云うから、だから賭けてみる気になったのに。
それでは本末転倒ではないのか。


「お人好しだな、ルルーシュは。何度も云っているが、私はつけ込んでるだけなんだから、気にしなくて良いのに」


その軽やかな台詞はいつものお調子者のジノそのままで、けれどだからこその傷が見えた。


「お前……」
「だから、ルルーシュ。まだ早いのは判ってるんだけど、でも」
「ジノ、」
「賭けに、負けてみる気はないかい?」


そっと腕を離される。俺の判断に委ねると、そういうことなのだろう。
背はジノの方が頭ひとつ高いのに、俯いたジノの瞳が見えないことが不思議だ。
だけどジノが、俺から視線を敢えて外したのはこれが始めてだった。
確かに、結論を出すにはまだ早い。早過ぎる。
だけど一緒に過ごした時間は、ジノの想いの真偽と、誠実さを知るには充分過ぎる時間だった。
―――だから。


「負ける気も、何も」


びくりと震える躯を。今度は俺から包みにかかる。


「お前の提案に頷いた時点から、きっと俺はこうしたかったんだ」


窒息しそうなほどの力で身体を縫い止められる。
言葉はなくとも、それが返事だ。
受け止めてやるようにして無理なく浮かべることができた笑顔を向ければ、あまりにも自然に、唇が降ってきた。知らず滲んでいた涙が濡らす目元から、熱を喪った頬に、額に。何度も啄むように、雨のように触れたそれはやがて唇へと向かい、停止した思考のままそれを受け入れる。
熱い、と思った。
割れた歯列の合間から舌が入り込んできて、中を蹂躙する。
溶かされる。身体も心も。とろとろに溶かされて、暴かれる。
その戦慄にも似た震えを抑えつけようと、逞しい腕にしがみつくことが精一杯だった。