賭けをしませんか、センパイ。
果たしてそれは何処かで聞き覚えのある台詞だなと思いながら。ほとんど無意識のうちに、俺は気付けば頷いていた。
流された、というわけではない。衝動ではあったが、考えも無く、というわけでもない。
ただ、その瞳があまりにも真剣で。
此処でその手を掬い取ってやらなければ、きっとコイツはダメになるのだろうという変な予感がした。それでも、表情と台詞が全く噛み合っていないなだなんて軽口を叩く余裕くらいは、あったんだ。
―――賭けを、しませんか
過去をなぞるような、その台詞。
それは俺が放った言葉ではなかったが、きっと過去の俺は今のコイツと同じ表情をしていたんだろうなと思いながら。感傷に浸って判断が鈍るわけではなかったが、倒錯はしていたのだろう。少しだけ、胸が軋む音がした。
しかし確かに頷いた俺を確認して、別の意味で心配なほど破顔したその貌に、俺の方が救われたような気になってしまったのも、確かだった。
―――賭けを。
した。その記憶は今も尚俺を苦しめる。だけど、この笑顔の前でなら俺は何故だか大丈夫な気がした。
今度は、きっとうまくいくだろう。
そう、今度こそは―――
視界が開ける。光が差し込む。
そうだ、きっと俺は、間違ってなんか無い。目眩のするほどむかしのことも、そしていまも。
仮令賭けに走った過去の己の心を、いまでも死にたくなるほど後悔しているとしても。
俺が倖せを願うのは、俺自身ではないのだから。
三重奏
-trio-
肩の力を抜いて背中を預けた胸板は、さすが逞しいだけあってあまりの男らしさに思わずがっかりしてしまうほどに固い。
真性のゲイというわけでもない俺は、やはりこういう場面では女性の柔らかい身体を無意識に期待してしまうらしい。と云っても、立場は逆だが。
それでもコンクリートの壁よりは、よほど心地好かった。
背骨から響く、とくんとくんと命を刻む音が、早鐘のような速度から、太陽の角度の変化と共に緩やかさを増し、漸く息を吐ける程度には寛げるようになったところで、背中越しに聞こえないようにそっと微笑う。
先日は胸を打つ音がずっと収まらなかったから、「そんなに緊張しているのか?」と聞いてみたりした。そしたら慌てたように必死に否定していて、それがもういっそ可哀想なほどだったから、今日は気付かないふりを続ける。
年下を実感するのはこんな時だ。
明るさが透けるほど薄く閉じていた瞼をそっと開けば、オレンジがじわりと滲む空が視界の大半を彩り、その上部だけ、太陽さえも霞ませる金色がその存在を主張している。
その色彩の主、がっしりした筋肉質の大きな身体は本来ならば俺が尤も苦手とする部類のはずだが、思いの外その手は優しかった。触れられても拒絶反応が起こらなかったのはそのせいか。優しいと云うよりも、恐る恐ると称した方が良いかもしれないような触れ方。
相手の云うところの賭けだと云う、それ以上の感情は無いのかと云われれば。全く心が動かないのかと問われれば、素直にノーだ。
だが、情、と云えばそれまでかも知れない。
そう、悔しいことにスザクの云うことは的を射ている。
確かに俺は今までは後腐れの無い人間ばかり、――選んでいたわけではなくそれは単なる結果として――相手にしてきたわけだが、今回ばかりはそうではなかった。
―――賭け。
相手に持ち掛けられた通り、変化を求めて。けれど文字通り、お互いの気持ちを賭けようと思ったわけではない。
正直、瞬時に脳裏を過ったのは断るという選択肢だった。それまで勝負に出ようなどと思ったことはなかったから。
それが結果的にいまこうなっているのは、確かに情というのも理由のひとつだ。
可愛い後輩、それだけだったはず。
それが思いの外真剣な瞳に気持ちを縫い止められて、続く真摯な言葉に、大いに揺さぶられてしまった俺は不誠実と云うよりも、ただ単に愚かなだけなのかも知れなかった。
だけど、何よりも、俺は―――
「あー、また何か、難しいこと考えてるのか?」
「え?」
座った体制で後ろから抱き竦められていても、ジノの方が頭ひとつ高い。ジノは背筋を伸ばして体重を壁に預け、俺はそんなジノに完全にだらけたような体制で寄りかかっている所為も多分にあるけれど。
それでも、決して身長が低いというわけでもない俺が、完全に上から覗き込まれるというのは変な心地だ。
高等部からのジノとの付き合いも、数えればもう半年になる。
その期間を短いと例える気はないが、未だに慣れないことも多々あった。こういう関係性になってからは余計だ。
例えば、この逸らすことの無い真っ直ぐな視線だとか、そういうもの。
「黙り込んだから寝ちゃったのかと思ったら、何だか難しい顔してるから」
「ああ……悪い。別に、何を考えてたってわけでもないんだが」
「ふうん?」
ジノが普段軽く振る舞っている割に鋭いのはとっくに承知済みで、その上年下のくせに意外に包容力があることも認めている。
つまりは、また俺がどうしようもない袋小路に陥っていて、それに気付いていながらスルーしてくれていることくらい、判っている。
スザクに報告した通り。ジノは、優しい。大事にしなければいけないなと思う。
今までとは、違って。
「それより、聞いたよ」
「何をだ?」
「ルルーシュは、今までの相手とは一緒に帰ったりしなかったんだってな」
聞いたも何も。改めて云われるようなことでもない。
リーク先はどうせリヴァル辺りだろうが、ジノが今まで知らなかったことが不思議なほどだ。
「……前の男の話をするヤツは嫌いだ」
「でも私とは一緒に帰ってくれる」
「……詮索しようとするヤツも」
「そんなつもりはないよ。ただ、嬉しいなぁってことを伝えようとしたんだ」
予想だにしなかった、思わぬ返答に調子が狂う。
ジノは本当に嬉しそうにしているだけで、責めるわけでもなく、調子に乗るわけでもない。
今までの相手なら、こういう話題になるとたいてい前の奴とはどうだったんだとか尋問してくるから、俺の機嫌を損ねてそこで終わりにすればそれで済んでいたのに。
こういう相手にどう返して良いものか。
信じきれずに本当にそれだけかと、上目遣い、尋ねた俺に苦笑が返された。
「本当さ。だって付き合うって、そういうことだろう?」
「……そうだったかな」
あまりそういう付き合いをしてこなかった。
噂に疎いらしいジノでもさすがにその辺りは耳にしたのだろう、「ルルーシュの方がずっと経験多そうなのに」と呟かれた。
心外だ。
ジノの方がよほど手慣れているのに。
相手を男に限定した人数という点で云うなら否定する気はないが、俺の方がそんな遊び人のように表現されても困る。
「何でもないことを報告し合ったり、他の人相手のときよりもずっと素直に気持ちを伝えたり、こんなふうに甘えたり、触れ合ったり。そんなことのひとつひとつが愉しいんじゃないか」
「……今、愉しいか?」
こんなふうにしているだけでも?
「もちろん」
にかっと太陽のような笑顔を見せるその健康的な様子に、含むものは何もなくて。それにどこか、突き刺さるような想いを受けた。だけどそれはそう、どちらかと云うと悪いものではけして、なくて。
「こんなに愉しくて、嬉しくて、苦しいのは初めてだ」
「苦しい?」
「苦しいさ。私はルルーシュが好きなんだから」
そんなことを云う、ジノの表情はしかし明るかった。
信じられないというわけではない。むしろその気持ちには俺も慣れ親しんでいる。ただただ、それをそのまま相手に伝えることのできる強さに、目眩を感じているだけだ。
「恋愛って、そういうものじゃないのか?」
何の翳りもなく、くしゃりと緩められた目元と、同じように真摯に真実を伝えるその唇。俺が今まで避け続けていたはずの。
「……ジノは、意外にロマンチストだな」
「意外には余計だよ。それに、ルルーシュ相手なら誰でもそうなるだろう」
「そうでもないぞ。そんなことを云うのは、お前が初めてだ」
ただひたすらに俺の容貌や言動を褒め称え、崇拝するか猫可愛がりするか。
過去を探せばどこにでも散らばっている、そういう相手とのあの遣り取りの記憶を、付き合っていると表現するのは何か違っていたのかもしれない。ジノを見ていると思う。
「ルルーシュにとって、色んなことの初めての相手が私って云うのも嬉しいな」
「本当に、何でも嬉しいんだな」
「うん、私はずっとそう云ってるじゃないか。それともルルーシュは、こういうのは厭かい?ええと、ウザいって云うんだったかな?」
育ちを表す綺麗な言葉遣いの癖して、悪ぶってみたいらしいジノはジノなりに必死に言葉を探したらしかった。微笑ましい程度のものだと思うが、恐らく、ジノの家の使用人辺りが聞けば卒倒するだろう。
確かに俺が普段つるむ相手は、スザクを除けば若干派手で粋がっている連中が多い。俺の好みが、そういうタイプだと思われるのも仕方が無い。特に、今になって方々から俺の噂を仕入れているらしいジノからすれば。
そういう努力や、些細な日常の変化のひとつひとつ。それを可愛いと思ったり、愉しいと感じるのは、ジノの云う付き合いの定義に少しだけ似ているかもしれない。まだそれを恋、だとまでは思わないけれど。でも。
「いいや……悪くない」
そう、悪くない。素直にそう思えた。
もちろんそれは、元より犬のようで気に入っていた後輩という印象も手伝っているが。
「それは良かった」
ほっとしたようなジノの口調は穏やかなままだったが、代わりとばかり、抱き留められていた腕に力が込められる。俺の背中とジノの胸が重なって、制服越しでもその温度が伝わってくる。
灼かれるほどに熱いような、そんな気がして。何かに縋るようにして、自然、ぎゅっと胸元で結ばれたジノの腕を掴んだ。
その反動だったのか。
ふと、肩にジノの金糸が降る。俺の肩にジノの目元を抑えつけたのだろう、何か引き締めるような感覚があった。
笑っているのか。苦しいのか。涙を堪えているのか。
いくら表情が見えないからと云って、そんな判断さえできない俺はなるほど確かに、スザクの云う通りの冷血漢なのかも知れない。
一緒に笑えば良いのか、頬から顎にかけて触れる髪に唇を降らせれば良いのか。
それとも、このまま好きにさせておくべきなのか。
人の血の通ってない俺には判らない。
「―――そろそろ、陽が落ちるな」
だからこんな、最悪の終わらせ方をする。
「……もう、タイムリミットかい?」
ジノが顔を上げる。
その動作は存外あっさりしていたが、名残惜しそうに離れる温度に俺の方が心細くなって、手を伸ばしてしまいそうになる。
今まで避け続けていたはずの他人の体温は、それまでの反動もあって、触れた途端あまりにも簡単に俺のプライドを溶かした。
だけどまだダメだ。まだ、早い。
「悪いな。良い加減、顔を出しておかないとまずいんだ」
今日は先日シャーリーに告知を受けた通り、正規の生徒会の集まりの日だ。
書類は今日の自習時間のうちに片付け、判りやすく置いておいたから責務は果たしているものの。あのメンバー陣は、会長を筆頭に出席率の方ばかり気にするのだからやってられない。
「副会長様は大変だなぁ」
「行ったところで、ほぼ半分はティータイムだけどな」
呆れ果てたように溜め息を吐くと、対照的にジノは非常に愉しそうにしていた。
「何だソレは、羨ましいな。生徒会は真面目に仕事をしているとばかり思ってたのに、まさかの腐敗か?」
「そうだな。賄賂がいっぱいあるんだ」
「ふうん。なら、おやつはルルーシュの手作りってわけじゃないんだな」
やけに残念そうな声を出すなと思えば、意外な方向に話が行った。覚えがある、この強請るような視線は、つまり。
「なくはないが、ごく稀だな。何だ、欲しいのか?」
「もちろん!」
ぐっと拳を作ってまで力強く頷いたジノは、非常に良い笑顔だった。絆される、という表現が一番しっくりくるほど。こちらも瞬時にその気になってしまう。
「じゃあ今度、生徒会の奴らには内緒で何か作ってきてやろう。リクエストはあるか?」
「ジンジャークッキー!」
「クッキー?」
「やっぱり基本は外せないから。あ、でもチョコチップも良いし、ナッツが入っているのも良いな」
リクエスト内容の意外な可愛さに一瞬目を丸くしてしまったが、すぐ後に何だか微笑ましい気持ちになって、身振り手振りで説明する腕に宥めるように手を置く。
「判った判った。一通り作ってみるから」
「本当か!ありがとう、ルルーシュ!」
夕陽を背景にその笑顔は輝きに満ちていて、ジノの恋愛感をここでも実感する。
そして、この何てことのない遣り取りを少しだけ特別に感じ、そしてそれを愉しいと、嬉しいと思っている自分が確かに居る。
リクエスト以上に、驚くくらいたくさんクッキーを焼いてきてやれば、きっとまた同じ笑顔が俺を迎えてくれるのだろう。
だけど、何でだか、今のこの笑顔をずっと忘れないでいようと思った。