ナルシストと光を語らう




鏡があるわけではないんだよな。
ほんの僅かな前に会ったことにある顔を前にして、アスランはそんな感想を抱いた。相変わらず、目の前に居るのはアスランではないアスランだ。しかしその顔はさきほどより、ずっと自分にちかいような気がする。
さっきは同じものなのだと云い聞かせていた所為で違うところなど何もない、敢えて云うなら表情くらいだと思い込んでいたけれど、正直なことを云うと何処か違和感を感じていた。その違いも同時に判ってはいたが、それでもそんなに違いなどないだろうと思っていた、はずなのに。
不可解な感情に囚われ、またしても間近へは近寄れず立ち止まったアスランに、アスランは何故かワインか何かの瓶を掲げて笑いかけてきた。


「また会ったな」
「俺はたぶん、会いたくなかったけど」
「そう云うな。再会を祝してパーティーといこうじゃないか。お前がまた此処に来るまでの時間の間隔は恐らく想像よりもずっと短かったが、しかしその間に過ごした刻はとてもとても長かったはずだ」


謎掛けのような言葉を、彼は好んでいるようだ。けれど矛盾することを云っているようでいて、彼の真意は恐ろしいくらい正確に伝わってきた。彼がそうしてのことなのか、アスランの見方が変わったのかまでを読み取ることはできなかったけれど。


「そう……そうだな。何か変化があると、その時間はとても長かったように思える」
「それは外の世界が? それとも、お前自身が?」
「外の世界だと云いたいところだけど、きっと俺自身のことなんだろう。おかげで、今はお前がとてもちかい」
「なるほど。それは残念だ」


お前が俺を異質なものとして見れば見るほど、俺の輪郭は正確さを増してゆくと云うのに。
言葉尻に反して、彼の表情はとても穏やかなものだった。そのアンバランスな様子を訝しむというよりは、どうしても照れくささの方が勝ってしまい、彼の顔をまともに見れない。そもそも鏡を見ているようで気味がわるく、正視はできていなかったのだけれど。その表情は、特に反則だ。俺はそんなに、慈しむような表情ができたのか。


「残念なのか? お前は俺と近付くほど、居場所ができるだろう?」
「それはお前の考えだろう。どうも、俺の存在する意味を履き違えているな」
「そうか?」
「なぁ、お前は俺とお前の決定的な違いはどこだと認識しているんだ?」


どこから出してきたのか、ワイングラスを差し出しながら彼は首を傾げた。
気付けばふたりの間にテーブルが置かれていた。真っ黒なテーブルクロスのかけられた、円いテーブル。中央には深紅のバラ。とてつもなく悪趣味だ。けれどこの夜の空間には、とても良く溶け込んでいる。
そして、そのテーブルの存在は彼との距離を測るのに丁度良かった。つられるようにテーブルまで近寄れば、彼とテーブル分の距離だけ離れ向き合うことになる。


「……―――俺はきっと、お前に憧れているんだよ」


ずっと認識していながらも、けれど口には決して出さなかった言葉を吐き出し、彼の手からワイングラスを受け取る。視線は合わせられなかった。彼は無言のままボトルのコルクを軽快に抜き、中身を注いでくる。そのコルクの軌道だけを、ぼんやりと眼で追う。そしてシュワシュワと幽かに弾けるような音につられグラスを見る。スパークリングロゼだ、と気付くと同時に、その色を判断できたのは夜がすこしだけ明るくなった所為だと気付いた。
夜じゃない方が良いと思っていたが、夜の時間が終わってしまうとそれはそれで寂しいような気がした。


「己がつくり出した幻想の己は、無意識下の理想の姿だと?」
「……そう、そうなんだろう」


独白なのか問い掛けだったのかは自分でも判らない。それでも自然な流れで、アスランもボトルを受け取り、彼の分のグラスを満たした。
漸く彼の表情を仰ぎ見ると、彼もまた、同じようにアスランを見ていた。


「それではどうだ? “こう在りたい”と思う自分に、他人として出会った感想は?」
「え? いや、えっと、その……」
「どうせ相手は自分自身。普段なら遠慮して溜め込むことも、今回ばかりは吐き出してしまえば良い」
「……でも、」
「ああ」


云ったらさすがに怒られるような気もする。だけど、彼は辛抱強くアスランが口を開くのを待っていた。ああそんなところは今の俺と変わらないのかと、そんなことを想う。今のアスランも、相手が云い渋っているのならそれが拒否の言葉であろうと待つだろう。
だから何か云わないと彼は諦めないだろうと想い、同時に今アスランが吐露することさえ彼には判るのだろうかとも、想った。


「…………我ながら、趣味が、悪いなぁと」
「……………………へぇ」


やっぱりまずった。
しかし現実逃避かは知らないが、なかなか自分も怒りが様になる表情をするじゃないかと思う。思うだけで、云わないけど。
それでもやはりフォローは入れるべきだろうか。けどフォローって、今更。フォローと判るフォローなんてだれも要らないんじゃないだろうか。しかも、この相手に限ってはそれさえもすぐにばれてしまうだろうから、尚更だ。いやしかし、やっぱりこのままもちょっと危険かも。目、据わってないか?


「あ、あの……」


おずおずと言葉を繰り出そうとしたアスランへ向けて、理想であるところのはずのアスランは固まっていた表情を緩めて思いがけず柔らかく微笑んだ。
傾けられたグラスに合わせて、淡いピンクの液体が揺らめく。


「良いじゃないか。お前がお前のままで良いんだということの、それは証明だろう?」
「え……」


意外、だった。
目を見開くアスランには構わず、彼は悠々と注がれたワインを口に含んでいる。
どうしてそんなに余裕があるのかと、不可解な想いがアスランの胸を占める。
そして同時に込み上げる、どうしようもない切なさと、悔しさと、そして

出所の判らない、嬉しさと。


悪意ではなかったにしても、あまり良い印象ではなかったことを素直に伝えたアスランを赦したから? ―――違う。
俺は俺で良いんだと、そう云われて安心したから? ―――違う。


違う違うちがう。
やっぱりお前は俺が憧れる姿のお前なのだと、再認識したからだ。
そう、俺はそう在りたかった。
人の意思を汲み取る包容力と、思ったままを素直に伝えることのできる潔さと、それから、それから


「大丈夫。俺はそんなお前が好きだよ」


自分自身に自信を持って、それを力に変えられる毅さと。


「おれ、は……」
「そうやって、俺や、他人の痛みに敏感なくせに、どうしようもできなくて思い悩むお前が愛しいよ」
「お前の、痛み?」
「俺は、アスラン。お前を愛するお前自身だ。お前がなりたくてでもなれなくて、時折絶対になりたくないと思い描いた姿そのままの、俺だ」
「……」
「何度でも云ってやる。俺はお前が好きだよ。お前がお前を好きになれないと嘆くのなら、俺がいくらでも愛してやる。それにお前は思った以上に、いや、全く思ってもいないのだろうが、周りからだって充分に愛されているさ」
「お、前……」
「俺はそのために生まれたんだ。お前がこんな自分は厭だと、生きていたくないと思う度に俺ははっきりと形づくられていく。お前に自覚させるために」


アスランが目標とするアスランに近付こうとすればするほど、目の前のアスランの足場が固まっていって、そしていつか乗っ取られる、そうなんだろうと思っていた。
だけどそれは恐怖ではなかった。
俺は今の俺でなくなるけどでも、そうすれば周りにも頼ってもらえるような、そんな自分になれるだろうと思ったから。
だからむしろ、そのときを待ち詫びていたような気さえする。実際にそんな自分に出逢ってみて、正直多少の不安が生じたことは否めないけれど。
けれどまさか―――その逆だったなんて。


「けれどお前はそれをちっとも理解しようとしないで、誤解ばかり先走る。俺はその度、この胸に痛みを走らせるんだ」
「……どうし、て」
「お前と俺が決定的に似ている部分がある。外見は別としてね。それは、生きることに執着がないことだ」
「おれ、は……」
「お前には生きて欲しいよ。いや、生きたいと願っていて欲しい。けど、俺は俺の存在がなくなることに脅えなんかない。それはお前が漸く理解したということだから」
「理解、?」
「そう。自分は存分に愛されていて、自分で自分を慈しむことができたなら」


俺は、なんの未練も無く逝けるよ
そうきっと、お前と共に


その声の意味をはっきりと自覚したのは、音として耳に届いてから幾許か経って後だった。
こうなりたい、なんていう自分の理想の姿は、断片でしかなかった。或いは、はっきりと自分の意志を口に出来て、それを実行できて、障害に立ち向かっていって。そんな抽象的なものでしかなかった。
けれど、そう、その根底にあるのは正に今彼が云った通りのことなのだろうと、きっと気付いていながら気付かないふりをしていた。それは時折、衝動的に、絶対にそんなふうにはなりたくないとも思ったから。そんなふうになってしまったら、きっと俺はそこまでだと思ってしまったから。そして今までの俺はなんだったんだろうとも、思うから。だから、見て見ぬふりをしていた。
けれどその度に、彼はこうして夜の闇の奥底で息づいていたのだろうか。
そうして痛みを蓄積して行ったのだろうか。そうやって、彼はアスランの痛みも受け入れていたのだろうか。
ああ我ながら、我ながらそんな自分が、




何かを云いたかった。
だけど声にはならなかった。だから結局何を云いたかったのか、自分でも判らないままだ。
それでも目の前で、ついさっきまで痛みを堪えるように目を細めていたアスランは、そっと微笑んだ。眉間の皺が消えただけで、渋面から微笑みに変わる。切なげなのは変わらないにしても。そう、それだけの変化に気付けたことは、今は大きな一歩だ。