長い、永い夢を見ていたような気がした。 けれど実際はもちろん、それは現実に過ぎなくて、時間は残酷にも刻々と流れつづけていた。 その間に、なにか変わっただろうかとアスランは思う。しかしそれと前後する速さで、アスランは首を降った。 ……なにも。なにも変わってなどいない。 成長することも、また退化することもなく、ただ同じ事をずっと繰り返すように刻は経った。アスランの思考だけを置き去りにして。 育ったものがあるとすれば、そう、父への手向けの白い薔薇くらいだろう。 「なんで……イザークは、」 「は?」 ブルーマウンテンの芳醇な薫りを無機質な部屋に充満させながら、イザークは首を傾げた。彼は昼間訪ねてきたときと、同じソファの位置に同じ体勢で座り、アスランと向かい合っている。 ディアッカは窓の側に立って、夜闇に浮かび上がる薔薇に見入っているようだった。 薔薇も夜は眠る。けれど今日は珍しく客が在ることと、主であるアスランが起きている所為で、夜でも変わらずに自慢の花を咲かせていた。 「なんで、墓だと思ったんだ?」 生きているものは、必ず光る。 アスランはディアッカの背中の向こうで光を放っている薔薇を見遣った。 ここから見える庭の薔薇は、赤だったりピンクだったり黄色だったり、故意に白にちかい薄い色は避けたつもりだ。けれど、光の無いはずの夜の中、暗い色の薔薇は確かに浮き上がって見える。ならば、薔薇は生きているのだ。 死体は光らない。 軍に居るとき、死体に紛れる方法はただひとつ、肌を見せないことだと徹底的に教わった。暗闇の中、死体はモノとして闇に掻き消えてしまうのに、生きているものは必ず光ってばれてしまう。だから布を掛けるなりなんなりして、光る肌を隠さなければならなかった。 ならば、今、とアスランは思った。今、アスランはあの窓の向こうに立ったとして、浮き上がることができるのだろうか。 それとも、闇と同化して、薔薇の生命力にさえ負けてしまうのだろうか。 「……貴様の、」 「うん」 一言目、重い口を漸く開いたと思ったイザークは、すぐにまた黙り込んでため息を漏らした。けれどそれは呆れではなく、寧ろ前置きだとアスランは思った。だから黙ってコーヒーを啜る。 RUの淹れたコーヒーを飲むのはほとんどアスランだけのはずなのに、その味はイザークの好みに設定されている。アスランの好みに淹れさせることも可能だが、いつ訪れるとも知れないイザークが、紅茶やコーヒーの味に不満を覚えて来なくなるなんてことのないように、アスランは常にその設定にしていた。 それほど、待っていた。アスランはイザークの来訪を……待って、いたのだ。 今、その刻は訪れた。そして事態はアスランの思惑通りとはいかなかった。けれどイザークが特別な来訪者であることに変わりは無い。 だから、アスランはきっとずっと設定はこのままなんだろうと思った。ここから出るときが来たとしても。もしイザークと今以上に会えないようなことになっても、ずっと。 ここに、この家にそれほどの思い入れは無いし、思い入れのあるものを置いているわけでもないけれど、どうもRUだけは愛着が湧いてしまったので、ここを出るときが来たら連れて行こう。 そんなことをアスランが考えている間に、イザークは言葉を纏めたらしかった。 「貴様の薔薇に向ける執念は、並じゃないからな」 「それだけか?」 「監獄に、花など必要ないだろう?」 イザークらしい解釈だと思ったアスランは、ふぅん、と唸った。ディアッカも今は窓から視線を外して、へぇ、と首を傾げている。 「暇つぶし、償い、皮肉、欠如の補助。どれもお前の納得は得られなかったわけだな」 「尤もらしくは在るが、決定的な説得性に欠けるんだ」 「でもどれも、答えであることに変わりは無い」 「そうだろうな。だからこその、墓なんだろう?」 断定的な問いかけだ。アスランはこれこそ断罪にちかいと思った。 ニコルもラスティもミゲルも、アスランの母親も、皆に墓が用意されたが、その下に実際に眠っているわけではない。だから墓は、生者のためのものなのだろうとアスランは思う。生者が死者との折り合いをつけるための場所なのだと。魂なんてそんなもの、在るかどうかも判らないんだから。 それは判っているけれど―――どうしても、眠る場所は必要だろうと、思ってしまうのだ。 そして、父に、そんなものは用意されなかった。 父が得るべき安らぎも、今を生きている者が父につけるべき折り合いさえも、なにも無い。 だけど息子として―――彼の言葉を信じ、そして途を誤った彼を止められなかった息子として―――それはあまりにも辛いだろうと、思った。思ったのだ。例え甘えなのだとしても。 けれど墓をつくるなんてそんなことが、赦されるはずも無いことは判っている。こっそりつくったとしても判りやすかったら真っ先に標的にされるだろうことも、判っている。だから、一番判りやすい場所で、一番判りにくい方法でアスランは墓をつくったのだ。 きっと誰よりもアスランを導いてくれるはずだった彼のためと、そして自分のために。途を間違ってもそれでもプラントを愛しつづけた彼のためと、そして父への迷いを棄てきれず最後まで信じようとした、自分のために。 アスランだって同じように同じ場所へいこうとしているのだから、丁度良いとも思った。 半分死んでいるようなアスランが父につけるべき折り合いなど無く、ただ、かつて同じ家族という枠組みの中に共に居た彼に、今は穏やかに眠って欲しかった。そして自分を待っていて欲しかった。 アスランがあの白い薔薇に秘された場所へ行く日は、ずっと延びてしまったようだけれど。 (けれどこれで……安らげた、かな) 彼にはゆっくり安らいで欲しい。アスランが同じ場所へ行く日は遠退いてしまったようだけれど、それまでの間、闘い疲れたアスランに夢を見せていて欲しい。 そんなふうに父に期待すること自体が甘えでも構わない。父はアスランをほんとうの意味で振り切ったのだとしても、それでも構わない。だってアスランが願うのは和解ではなく、夢だ。 母がつくった湯気のたつロールキャベツを、鍋ごと白いテーブルクロスの上に置いて、三人でそれを囲むような、……そんな、温かな夢だ。 テーブルの真ん中には庭で育った薔薇の花を置いて、アスランも手伝った料理を並べて、お揃いの食器に取り分けて、ワインで乾杯して、それはきっと暖炉の火よりもずっとずっと温かいだろう。 アスランは、多分ずっとそうしたかった。 だからこの墓には、そのための場所だって用意してある。 白いテーブルクロスと、三つの椅子と、真ん中の赤い薔薇。だけどアスランひとりでは絶対にそこで食事は摂らない。 それでも、つかっても居ないのにテーブルクロスは定期的に洗ったし、薔薇も庭で一番綺麗に咲いたものに毎日替えた。それが日常と化して永い時間が経って、なんのためだったのかさえ忘れていたけれど。 (そう……そうだ、そうだった) ずっと俺はそれが欲しかったんじゃないか。 必要なものは、あと、父と母だけだった。母には墓があるから、ちょっと遠いけど来てくれるだろうけれど、父にはそれが無い。もしかしたらずっと、あのとき撃たれた場所で漂っているのかも知れない。ならちゃんと来れるように、目印をつけておかないといけない。 安らぎたかった。ずっとそうやって安らぎたかった。そのための場所さえあれば漸く静かに安らげることができるのだと思った。だからアスランは墓をつくった。自分のために。 この屋敷でそんな光景が繰り広げられたことは一度としてなかったし、そんな団欒はここでなくてもきっとできるだろうから、だから別にアスランはここじゃなくても良い。けれどここが一番判りやすいだろうから、ここを選んだ。 全く最後まで莫迦みたいだけど、それでも父はこの場所を愛してくれていただろうと、そう信じたいから。 総て―――そう総てだ。総てが答えだ。墓をつくる理由が、何故かなんて、そんなの、父と母に向ける想い、その総てに決まっている。そしてその総ての理由のために、この場所が一番相応しい。 ずっと―――叶えたかった夢を叶える、欲しかったものを得る、そのためには。 「たったの……21グラム」 「は?」 「―――ただ、そのために、俺は」 俺は。 |
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