例えば、キラのお母さんに教えてもらった折鶴の折り方を思い出せなかったり。
例えば、良く唄っていたはずの童謡がもう唄えなくなっていたり。
記憶とは、そんなふうにひとつひとつ、薄れて行くものなのだろう。しかも忘れているというその事実に気付かぬまま、ふとした拍子に思い出を辿ろうとして、失敗してから初めて、あの日々がもう遠い何処かへ行ってしまったことに、漸く気付くものなのだろう。
けれど―――例えば。
思い出せなかった御伽噺の結末を、唐突に思い出した途端、ハッピーエンドに到るまでの流れまでもが怒涛の奔流の如く湧き起こる感覚があるように。
そうして甦る記憶というものも、また、確かに妙な感慨と共に訪れるものなのだろう。
星歳時記
「今期よりZAFT軍クルーゼ隊配属になりました、キラ・ヤマトです。宜しくお願いします」
だから、そこでアスランが、例え隣に佇むイザークの訝しげな視線を感じながらも、「ええ……?」と呟いてしまうのも仕方のないことなのだろう―――と、思いたい。
「どうした、アスラン?」
仮面を纏った隊長が、僅かに口角を上げたように見えたのは、きっとも何も気の所為なんかじゃない。その後ろで、アカデミーを卒業し、エリートの証であるクルーゼ隊への入隊を任じられた少数の初々しい軍人が緊張の面持ちを掲げながら敬礼する中、ひとり肝の据わったように毅然と立っている姿に驚きを通り越して呆れてしまうのは、懐かしむだけだった過去の記憶が、鮮明なリアルさを伴いアスランの中で甦ったからに他ならない。
けれど、だからこそ。そのキラの、新人としては些か殊勝な態度は、今此処にアスランの姿が在るから。―――ただそれだけに帰結するのだろうと思う。
一方では変わらぬものなど何ひとつとしてないのだと、キラもアスランと共に居るばかりではないのだとそうも思ったけれど、そんな仮定は今此処でキラが畏まった中に楽しそうな気配を滲ませている時点で無意味なものでしかない。それをどう思うかと問われれば、きっと一言目、嬉しいと答えるけれど、其処に戸惑いがついてまわるのも事実だった。
「……失礼しました。何でもありません」
「そうか? ならばつづけよう。キラ・ヤマト、彼が今期のトップだ。では、次の者、自己紹介を」
クルーゼの促しにはい、と答えたキラの隣の人物は、赤服の割に緊張を隠し切れぬ震えた声で、けれど敬礼した右手はしかりとまっすぐ耳の横に添えられていて、ああこれが彼の最後の砦だろうか、とアスランは思った。
けれど、無理も無い、と。
クルーゼ隊は任務完遂率ではZAFTの中でトップを誇り、赤服の数も多く、何より現評議会議員の御曹司がこんなにも揃っている前での自己紹介は、確かに冷静沈着を必要とされる軍人でも緊張は致し方ないだろうと、思うのだ。
寧ろおかしいのは、既に一番手でありながら堂々と自己紹介を終えたキラの方で……ああきっと、イザーク辺りとは合わなさそうだと、それだけ考えるのがやっとだった。
「畏まった挨拶はこれぐらいにしよう。戦闘もなく落ち着いている今のうちに、親睦を深めておくと良い。その辺はミゲルに任せようかな」
「は」
「近々、大きな作戦が我が隊に通告されるとの話だよ。それまでに身体を休めておきなさい。では、解散」
その一言でミーティングが締めくくられると、音になったわけでもないほっという声が聞こえた気がした。それは大部分が、新人の方から発せられるものだろう。
ただ―――ひとつ。じりじりと此方の気配を窺っている様子を見せているのが、ひとり居る。アスランはどうしたものかと、口に手を当てたが、すぐに飛び出してくる気はないらしい。キラがアカデミーにいたどころか、プラントにきていたことすら知らなかったアスランとしては、あのミーティングの場でキラに突っかかっていかなかっただけでも勲章ものだろうと思う。けれどキラはキラで、「ええ……?」の一言で済ませたアスランが気に入らないのだろう。連絡も無しにこんな場面で唐突に現れたキラに対し、こちらの方が気を悪くするのは当然だろうと、アスランは己の正当性を再確認したところで、ニコルに促されているのに気が付いた。
「僕らは先に出てましょう」
「……そうだな」
どちらにせよ、今はキラはミゲルの説明を聞かなければならない。此方に意識を集中させているようでいて、キラはその辺はしっかりしている奴だ。
隊長室の扉へと身体を向けると、もうイザークとディアッカはそこから出ていこうとしていて、その前でラスティがアスランにおいでおいでと手を振っていた。
「おい、お前等! まだ部屋戻るなよ。ミーティングルームで待ってろ」
「おー」
「はーい、ミゲルせんぱーい」
オロールたちが素直にひとりひとり返事をしたのに対し、赤服のメンバーはラスティしか答えなかった。けれどラスティが答えを返したところで、アスラン達五人の総意となってしまうのは最早暗黙の了解だ。何せ、この期の入隊者はコミュニケーションが絶対的にすくない上に、協調性に欠けている……と云うよりは寧ろ皆無だ。
けれど返事もしなかった割に、先頭を行くイザークはしっかりとミーティングルームを目指しているようだった。どうせミゲルの計らいで今日は飲み会となるのだろう。集合場所がミーティングルームという時点でそれは明白だ。それは別に良い。良いのだが、問題はキラだ。
別に、こんな駆け引きみたいなこともしないで普通に前みたいに話せれば良いとも思うけれど。どうにも屈託が引っ付いてくるのは、離れていただけの時間の間に、アスランとキラふたりの間から何かが喪われてしまったということだろうか。
「意地張ってるだけかも……」
ああ、寧ろそちらの方が可能性は明らかに高い。だとしたら、ここはやはりアスランの方から折れるべきだろうか。けれどそれはちょっと悔しい、と。思う辺り、やはり意地の張り合いで間違いはないのだろう。
「何をさっきからぶつぶつと呟いてる、貴様」
「え」
考え事をしているうちにいつの間にか目的地に辿り着いていたらしく、既に据えられたソファーに腰を落ち着けたイザークが、不機嫌さを隠そうともせずにアスランに突っかかってきた。
何故、そこでイザークが不機嫌になるのだろうとは、思ったけれど。今はあまり考え事を増やしたくないというのが本音だった。
「別に、何でもないけど……」
「そーいやアスラン、ミーティングんときから変だったよな。何々、好みの奴でも居たー?」
「何でそういう話になるんだ……?」
本気で疑問を返したアスランだったが、ラスティは期待の篭った視線でアスランを見ている。
キラキラと目を耀かせるラスティと、無関心の振りで此方に注意を払っているらしいイザークに、しかし。
(一体何から話したら良いのか……)
話すとしたら、やはり月での話からだろうか。それはちょっと面倒くさい。
それに、それよりも何よりも、キラとの会話が先ではなかろうか。
そうすれば自ずと他のひとたちにもキラとの関係は知れるし、一々説明をする手間も省けるだろう。……だが。
「要は、どちらの方が同情を引けるかにかかってるんだ」
「え、ごめんアスラン。訳が判んない」
首を捻るラスティに、心配げな顔を崩さないニコルに、眉間の皺をひとつ増やしたイザークに、首をコキ、と鳴らしたディアッカに。
けれどアスランはそんな彼らの動作に一切構わず、ぱッと顔を上げて、丁度目の前に在った顔を見遣った。
「ラスティ!」
「はい」
「お前は、俺の味方でいてくれるよな」
「え、いや、うん?」
「そうか。なら良いんだ」
ほっと胸を撫で下ろし、珍しく穏やかな笑顔なんかを見せたアスランに、何故かキレたのはイザークだった。
そういえば、とアスランは思い出す。そういえば、彼となにか話していた途中だったかも知れない。
「貴様……もっと判るように話さんか!」
「悪いけど、ちょっとそれができそうにないんだ。だから、イザークにも俺の側についてくれると嬉しいんだけど」
云っていることの意味不明さと、首を傾げたアスランの動作と。――― 一体どちらの方が強烈だったろう。ある意味、そこですぐに反応を返せるイザークは大物かも知れない、と。可愛らしく上目遣いなんかするアスランを横目で見ながら、ラスティは初めてイザークにそっと賞賛を送った。
「だからッ! それが一体何の話かと聞いてるんだ!」
「あれ、そんな話だったっけ?」
「そうだ!」
新人がアスランの好みとかいう話じゃなかったっけ? と茶々を入れるラスティは綺麗さっぱり無視の方向で、イザークはアスランに向き直った。
「訳の判らない話をされるのは気持ちが悪い!」
「まあ、確かに……」
ディアッカまでが肯定するものだから、イザークはますますふんぞり返る。常ならばその態度に反発するはずのアスランは、しかし、余程困っているのか、ううんと唸り更に深く考え込んでいるようだった。
「えっと、じゃあさ、イザーク」
「……何だ」
話の方向性を変えようとしているのかとイザークは怪訝そうな顔つきをしたが、アスランの表情はその素振りを見せていなかったので大人しく先を促した。
「さっきの、新人。どう思った?」
「どれだ」
「誰でも良いよ。イザークの記憶に残ってる限りで」
キラが一番印象に残っているだろうことは承知の上で、アスランは問う。アカデミー首席卒業の赤服。それだけで、充分イザークの興味の範囲内には入るだろう。
「……骨のありそうなのは、あのトップだろうが……いけ好かない。それに、アカデミーでの貴様の成績はトップで保たれたままだと聞くしな。ならば気にするまでもない」
「ふうん……」
「後は軟弱者ばかりだな。で、貴様はそれを俺に聞いてどうするんだ?」
「そのトップなんだけど。俺とあいつと、もしどちらかと組んで作戦を遂行することになったとしたら、どっちの方が良い?」
「そんなのは御免だ」
「もしも、の話だよ。上からの命令だと思えば良い」
「……」
「直感で宜しく」
「……ならまだ慣れている分、貴様の方がましだろうが。それに、あいつのあの態度はさっきも云った通りいけ好かん」
「うん、それで良いんだ、イザーク」
「あ?」
「そのままで居てくれよ」
「……おい」
説明しろと途方も無く手を伸ばすイザークに気付いていないのか気付いていて尚無視しているのか、アスランは良かったーとか呟きながらほっと息をついている。
さすがに、この中では同室ということで一番多くアスランと過ごしているはずのラスティでもアスランの真意は判っていない様子だ。
「もしかしてアスラン、あのキラ・ヤマト……だっけ? あいつに、イザーク取られちゃうかと思ったの?」
「え?」
「そう聞こえるよ」
「ンなわけあるかぁ!」
「イザークには云ってないし」
黙ってて、と云うラスティに、ふるふると拳を震わせるイザークをディアッカが必死で宥めている。
けれど今回はさすがに、今まで静かに戦局を見守っていたニコルも黙っていられないようだった。
「変なこと云わないでくださいよ、ラスティ。アスランにはアスランなりの思惑があるんですよ」
「そうなん、アスラン?」
「まあ、そうだけど……。ちゃんと説明してないのは俺の方なんだし、イザークが怒るのもラスティがそう思うのも仕方ないよな」
「じゃあ、とりあえずイザーク云々は違うのね」
「うん」
自分から否定したくせに、アスラン自身がはっきりと宣言するとそれはそれで怒りを深くするイザークだった。
「でも、あながち違うとも云い切れないかも……」
「え、」
「イザーク!」
「……は?」
意味深な台詞を吐いたかと思ったら、アスランはいきなりなにかを決意したかのように顔を上げつかつかとイザークまで歩み寄り、その上イザークの手を握り込んで懇願するように自分とイザークふたり分の手を胸の辺りまで掲げる。
その唐突な行動に、ラスティたちだけでなくミーティングルームに居た全員の視線が釘付けになった。イザークはと云えば、赤くなったり青くなったり百面相を繰り返している。
「さっきの選択、」
「は?」
「イザーク、俺は信じてるからな」
「なッ……きさ……」
口をパクパクさせたイザークに、ミーティングルーム中から憐れんだ視線が寄越される。そこには些かの羨望も混じっていたけれど、今回ばかりはちょっと可哀想に……という感想の方が僅差で勝っていた。
「おーお待たせー……って、なにやってんのお前ら」
その妙な空気に亀裂を走らせたのは、開けられた扉から顔を覗かせたミゲルだった。
その後ろから、さきほどの新人たちが恐る恐る入ってくる。キラはその一番最後尾に居た。
キラが入ったころになっても、ミーティングルームを包んでいた不可解な空気は融けぬまま。寧ろミゲルの登場で戸惑いは加速され、アスランとイザークは手を繋ぎ合った体勢のまま扉の方を見遣った。
そこでアスランは、目を見開いたキラを確認した。そして同時に、覚悟をした。
「ちょっと! なにやってんのアスラン!」
ここでそう来るのか……と呆れたアスランとは対照的に、ミーティングルームの中は更なる疑問の渦に巻き込まれた。