ゆくさきをしらない





あっさりとルルーシュは出て行ってしまった。しかも、またほとんど痕跡を消して。
残っているものとすれば、持ってきてくれたスープが入っていた、今は中身が味噌汁になっているらしい鍋がコンロにひとつと、テーブルにテキストが一冊。テキストはもちろん明日学校に持って行くのを忘れないようにせねばならない。後は、僕が勉強に入ったときに説明しながらてきぱきと綺麗にしてくれたおかげで、勉強どころか料理をした跡さえ見当たらない。
どうしてここまで徹底しているのか。お陰で今日もまた、合鍵を渡しそびれてしまった。
ちらりと玄関脇に置かれた小箱を見遣る。こんなに堂々と、不自然な場所に置いてあるのに、ルルーシュは気付かない。もちろん、ルルーシュが気付くよりも先に僕から渡さなければならないのは判っているが、一言ルルーシュが何か云ってくれれば、僕だって糸口が掴めるのに。そんな恨み節も今は勘弁して欲しい。何せ、もう一年もこの鍵はこの場所に鎮座しているのだから。
だが今の問題はそこではない。どうすれば良いのかなと未だ定まらない考えに溜め息を吐けば、それに押し出されたようにチャイムの音が鳴り響いた。さすがにここまで来て居留守もできないので、大人しく玄関へと向かう。ルルーシュが出て行ったばかりの玄関へ。


「……はい」
「こんばんは。夜分遅くにすみません」


本当にね。とは、さすがに云わないでおいた。何より、ただの社交辞令であって悪いとは微塵も思っていないことがありありと判る表情に向かって云えるほど、僕も空気が読めないわけじゃない。
普段の僕は、アレだ。ルルーシュが呆れるなり突っ込んでくれるなり律儀に反応してくれるから、それが嬉しくてヒートアップしているだけだ。……そりゃもちろん、どうして呆れられているのか判らないことも多々あるけれど。いや、たまに。本当に稀に。


「スザクったら、机の上に堂々と置いてありましたよ」
「ああ、鞄に入れたつもりだったんだけど。わざわざありがとう、助かったよ」
「いいえ。バイトお疲れ様です」
「好きでやってることだから平気だよ」


何故かわざわざ綺麗な袋に仕舞われた教科書を受け取る。これで終わってくれれば良いなぁという予感は、手渡す瞬間、相手の一瞬の躊躇に裏切られた。


「あ、の……」
「何かな?」
「これから勉強、ってことですよね? バイトから帰ったばかりで、大変じゃないですか?」


大変も何も、バイトなんて云った通り好きでやっていることだし、体力は有り余っているから全く疲れなどない。敢えて云うなら今この瞬間の精神的な疲れくらいだ。何よりルルーシュがいつものように要点を纏めてきっちり教えてくれた上に、明日のテストの問題も山をはってくれたから、実のところ自信があるくらいだ。
それをどうやって上手く伝えようかと考え込んだ一瞬の隙を突いて、相手は切り込んできた。


「よければ、私、勉強お付き合いしましょうか? この単元、得意なんですよ」
「いや、それは……」
「時間なら大丈夫です。家には、お友達の忘れものを届けてきますと有りのままを伝えて、許可をもらっていますから」


先手を打たれた。
だけど僕が云いたいのはそういうことではない。


「……気にしないで大丈夫だよ。これでもちゃんと授業には付いて行ってるつもりだし」
「あ、私、そういうつもりじゃ……」
「うん、判ってる。でも本当に平気なんだ。テキストは今もらっておいて助かったけど、ノートはあるし、これ見るだけで何とかなるから。もし判らなくても、明日早く行ってルルーシュに泣きつくからさ」
「ルルーシュに……」


相手は少しだけ目を丸くして、それなら、私の出る幕はありませんねと云って引き下がってくれた。
あっさりしているようにも見えるが、そもそもインターフォン越しに何度も遣り取りをした後なのだ。漸く、と云った感じで、僕も肩を撫で下ろす。けれど、同時に少しだけの違和感が僕の胸を掠めた。


「もう遅いから、送るよ。ちょっと待ってて」
「いいえ、それは大丈夫です。すぐ近くに車を待たせていますから、今から呼べば、下に着く頃には来てくれます」
「本当?」
「ええ」


それは本当のようで、相手はにこりと邪気の無い笑みを見せると、それじゃあと突然の訪問の詫びをふたたび口にした。
ここでドアを閉めれば本当に終わってくれる、とは判っていながら、僕は疑問を唇に乗せた。


「ところでユフィ、その……」
「はい?」
「ここに上がってくるまでの間、誰かに会ったりした?」
「いいえ、誰にもお会いしませんでしたが……それがどうかしました?」
「ううん、それなら良いんだ。下まで送らなくて平気かなと思っただけで」


相手は僕の質問に少し変な顔をしていたが、僕の返答に安心したようでなんだそんなことかと微笑んだ。


「大丈夫ですよ。それくらい、私ひとりで。きちんとしたオートロックのマンションじゃありませんか」
「うん、そうだよね」
「では、スザクもお疲れでしょうから、これで失礼しますね」


綺麗なお辞儀をして、訪問者は去って行った。
せめてと思ってその姿がドアから見えなくなるまでは見送って、ドアを閉めて漸く息を吐く。
疲れた。
そんな小テストくらいのことで、わざわざこんな時間に家まで届けてくれなくたって良いのに。しかもルルーシュが居てくれた今日この日に限って。
結局、客が居たのは十分にも満たない僅かな時間だけだった。もしかしたらと思い鍵をかけないまま待っていたが、その期待は実を結んではくれなかった。