ゆくさきをしらない
それは正に寝ようとしていた、そのタイミングだった。
まずデスクの上に放置していた携帯がチラリと光ったのを確認し、僅か遅れてバイブの振動が始まる。夜の静けさを称えた部屋に、無機質なデスクを震わす音が異様なほど響き渡った。
着信を伝えるライトが点灯してからバイブ開始までの間、僅か数コンマ秒。さすがに何か考えを巡らせたわけではなく、それはただの直感で、誰からの着信なのかを俺は悟っていた。
別にその予測した相手を厭だと思ったわけではなかったのだけれど、なんとなく出ることを躊躇ってしまったのは、つまらない矜持のためだ。すぐに出てやるのはどうにも悔しい。いつもいつも俺がお前の云う通りになると思っていたら大間違いだ。そう云ってやりたい。
でも云ったところで、あいつは構ってもらった犬みたいに、嬉しそうにへらへらと笑うだけなのだろう。それがたまらなく悔しい。何よりも、絆されてしまう自分自身が。
決して長い間考え込んでいたわけではないが、それでも止むことなく鳴り続ける着信音に、結局手を伸ばしてしまったのは。
同情したわけでも執念に負けたわけでも俺があいつに甘いわけでも何でもなくて、ただの癖、その所為なのだ。
あいつからのコンタクトにはつい何でも反応してしまうという、長年の付き合いの所為で身に付いてしまった厄介すぎる癖が、俺の意思とは関係なく着信音を断ち切らせた。そして同時に繋がる通話と。
『るるーしゅ!』
開口一番で、無駄に大声で名前を呼ばれるのは予測済みだった。と云うか、経験故だ。
こいつはいつもそう。
必要を感じられない場面でまで、奇妙なほど俺の名を呼ぶ。だから俺も、通話ボタンを押して暫くは電話を耳に付けない。
それでもスピーカーから聞こえてくるほどの音量で叫ばれた俺の名前は、数えきれないほど呼ばれた所為であいつの口にも俺の耳にも馴染み過ぎていた。だが心まで慣れたわけではなく、いつもさざ波のような高鳴りが鼓動を掠める。
その一連の流れ、余韻まで残る通過儀礼を受け流してから、俺は漸く返事をした。――こちらからは、名前を呼ぶことなく。
「……一体どうしたんだ、こんな時間に。何の用だ?」
『どうしたもこうしたもないよ!』
「は?」
『ルルーシュ、なかなか出ないから。どうしちゃったのかと思って、思わず確かめに行くところだったよ』
「アホか。お前がどうしちゃったんだ。大体、確かめに行くって……お前今何処だ?」
『家だけど?』
「アホか」
お前の家から俺の家まで、決して遠いというわけではないが近くもないじゃないか。少なくとも、たかだか携帯に出ないからと云って気軽に確かめに行けるほどの距離ではないはずだ。
……そりゃあ、まぁ、お前にかかれば走って数分★で済む距離なのかも知れないが。
そういった意味を込めて、再び同じ感想を口に乗せれば、通話口の向こうからは拗ねたような返事が返された。
『そんな、呆れたようにアホ連呼しなくても……。それより僕は、一体どうしてルルーシュが電話に出なかったのかを聞いたんだけど』
「ああ、風呂に入っていたからな」
『おふろ?』
「良い入浴剤があったから、ゆっくりと。何も可笑しいことじゃないだろう?」
『そうだけど……じゃあもしかしてルルーシュ、もう寝るところだった? 随分早くない?』
「明日、ナナリーが大会で早く出ると云うから。朝食と弁当は作ってやりたいし、俺も合わせて早く起きようと思って、たまには早く寝るかなと」
冷え性な俺が、風呂に入るのは必ず寝る前という習慣を知っているこいつが俺の生活リズムをぴたりと当てるのは、別に不思議でも何でもない話だ。だが妙に戸惑っている様子だったので、俺もどういうつもりなのかと内心首を傾げながら頷く。
『そっかぁ。ルルーシュはまだまだ起きてるだろうと思ったんだけど、そっかぁ……』
「……何なんだ。その期待を込めたような物云いは。云っておくが、俺の特技はお前と違って敢えて空気を読まないことだからな」
『誇れることじゃないよ、それ。大体、僕と違ってって何だよ』
「それだ、それ。俺は正に今、お前に空気を読めと云っている」
『……そっか、そこまで云われちゃったら仕方ないね。実はさぁ、ルルーシュに頼みがあるんだけど』
「待て待て! 何故仕方ないと云いつつ話を続ける!?」
『いや、だってルルーシュが可愛げのないことを云うから。それなら期待に応えないとね!』
意味が判らない。何だその俺ルールは。”それなら”って、全然繋がってないぞ。
あまりにも多くの文句が湧き起こっていっそ声にならない。
大体会話のキャッチボールになってない気がするのは気の所為か。いや、気の所為なんかじゃない。確かに事実なのだろう。ただ慣れというものが惰性で会話を続けさせているだけだ。
だけどこいつが今更気を遣って電話を切ったところで、却って気味が悪いことは確かだ。
かと云って、最後まで云われてしまったら終わりだ。俺はこいつの頼みを断れない自分を知っている。
「おい、何を云われてたところで、俺はもう寝ると決め『僕、明日の小テスト、全然自信なくってさ』
「……おいコラ」
『しかもバイトから帰って来たばっかりで、今気付いたんだけど。勉強しようと思ったら、テキスト学校に忘れちゃってたんだ。ルルーシュ、出そうなところ何かチェックしてなかった?』
……人の話は最後まで聞け。
もう何回云ったか判らない台詞は、きっとこいつが呼ぶ俺の名前以上に、お馴染みのものだった。そしてそんな俺に、何が愉しいのかこいつが嬉しそうに笑うのも、全く以ていつも通りだ。
―――ほんとうに、厭になるくらいに。
電車でなら1駅分。
自転車なら10分程度、徒歩でも何とか許容範囲。
俺とスザクの家を隔てる距離は、そんな中途半端なものだった。スザクの家の最寄り駅の方が学校に近いが、俺の家の最寄り駅とは違い急行は止まらない。それなら各駅で行けば良いのに、スザクは毎朝一駅分(しかも学校から遠ざかる方向に)走って、俺と同じ電車で一緒に登校しようとする。
一体何のつもりなのか、とは、最初に一度聞いたきり追求する気はなかった。決して答えを得られたからというわけじゃない。却って混乱したからだ。
「だってこの方が便利じゃないか。ルルーシュも、僕も」
―――何が、と。それ以上尋ねる気にならなかったのは、それこそ長年の経験というやつで良くない予感が山ほど俺の中で駆け巡ったからだ。
事実俺は結局スザクの弁当を毎日作ってやっているし、スザクはそんな俺の荷物を家から教室までずっと持つ。それを便利と云うのかもしれない。
だが持ちつ持たれつという気が全くしないのは、簡単なことだ。スザクは嬉しそうにしていても、俺は全く逆の気持ちだからだ。
いや別に、手料理に妙な憧れを抱いているらしいスザクに購買や学食で済ませろなんて非人道的なことを云っているわけではなくて。何故俺が、と。
何も俺なんかが作らなくても、スザクが望めば学園内に弁当を作ってくれる人間は後を絶たないだろう。それにそもそもスザクの分の弁当なんて作らなければ、俺は自分の荷物くらい自分で持てるのに。そんなわけで、どんなにスザクが歓んだとしても俺は府に落ちない。
あとスザクが云う便利なことと云えば、そう。スザクにとっては一駅分の距離を走ることは良いトレーニングなのかも知れないし、俺はスザクが居るから電車で痴漢なんていうムカつく目に遭わなくて済む。確かに、便利と云えば便利だ。
だけど俺が求めていたのはそんな答えじゃなかった。もちろん、スザクに俺が望む答えがすんなり出せるとも思えなかったが。
それにきっと、ならお前にとって友情なんてものはフィフティフィフティ、あくまでもギブアンドテイクでしかないのか? と。切り込んで訊くことのできなかった俺にも、ほんのすこしの責任はあるのだろう。
―――全く俺も、大概女々しい。
要は甘やかしすぎたんだと誰にともなく云い訳をして、だけどそれを改善する気も起きないのだから重傷だ。
だって今日は、あいつが放課後は速攻バイト直行とか抜かしやがった所為でほんのすこししか顔を合わせてないのだから。
だから、ちょっと調子が狂うから顔を見るだけ、それだけだ。
……そんな俺の手に、テキストの他に鍋が下げられていることについては、もう自分でも面倒だから考えない。癖だとか、反射だとか、情だとか、そんな建前の理由を探すことさえ煩わしい。
一階のインターフォンからスザクの部屋番号を押す。毎回思うがオートロックで最上階だなんて生意気ななどと思いながら呼び出しボタンを押すと、呼び鈴が聞こえる間もなくそれはもう弾んだ声で「今開けるね!」と聞き慣れた声がスピーカーから踊り出る。その台詞通り、速攻で開いた観音扉を潜り、最上階の奴の部屋に辿り着くと、その瞬間向こう側からドアが開いた。予想していなかったわけではなかったが、あまりにも丁度良過ぎるタイミングに反応できずにいると、瞬間ふわりとした何かに包まれた。
「……は?」
「ゴメンねルルーシュ、冷えたでしょ?」
スザクがそう云いながら俺の身体を包んだのは、大きめのブランケットだった。
確かに、半袖で出てきてしまった身からするとその肌触りが心地良い。だけど何だか悔しかった。
「……そんなでもない」
「嘘。頬、だいぶ冷たくなってるよ」
実際に頬を撫でるように触れられてしまっては、さすがにこれ以上何も云えない。じんわりと、いつも体温の高いスザクの掌から冷えた頬に熱が伝わる。スザクは判っているのかいないのか、労るような笑顔を向けて、さらに申し訳なさそうに俺を中へ誘う。一体何に対しての謝罪か、謝るくらいなら最初から連絡なんてしなければ良いのに。
「あれ? ルルーシュ、それ鍋?」
複雑な気持ちを隠しもせず歪めた俺の表情は気付かないくせに、こういうところだけ鋭い。
「ああ……夕飯、食べたのかどうかまでは聞かなかったからな。とりあえずスープだ」
「わぁ、良いの?」
「このまま持って帰れと云われない限りは置いて行くから、好きにすれば良い」
「何云ってんの。折角持ってきてくれたのにそんなこと云うわけないだろ」
「……そうか」
「さすがルルーシュ、何も云ってなかったのに気が利くなぁ。実は夕方くらいにパンをちょっと齧っただけなんだよね」
「このまま温めても良いが、物足りないようだったら少し味濃くしてパスタでも投入すれば丁度良いだろ」
「良いね、それ。さっそく貰おうかな」
「……作れと云うことか」
「だってせっかくルルーシュが居るのに。自分でやったんじゃ、味気なくて」
まぁ、途中で料理を放り出すような真似は気になるから良いと云えば良いのだが。こいつのやってもらって当然、という態度はどうにかならないのか。
だがキッチンまでの短い距離ですら、俺の荷物を持とうとするスザクに出かかった文句も喉で支えてしまう。
漫画にするならわくわくうきうきとでも書いてあるのだろう背中を見ながら、ブランケットで溢れ出しそうな気持ちを抑え込んだ俺は結局スザクの要望通り食事を用意した。湧き起こる感情を振り切るように、頭の中を明日の小テストのための公式で埋め尽くしながら。