ユーフェミアに会った瞬間気に入られた猫は、しかしスザクの側について離れなかったために、結局夜はスザクの部屋に一緒に戻ることになった。そして朝はユーフェミアの部屋へ一緒に出勤する。ユーフェミアはスザクだけの頃より2割増しくらいの笑顔で、その来訪を受け入れる。 そんな毎日がつづいていた。 もちろん、このちいさな相棒の存在は周囲には内緒だった。いざとなったらユーフェミアが庇うと云ってくれたが、そういうわけにもいかない。 けれど猫は己の立場を判っているのか、時折小さな声で意思を報せる他、ほとんど騒ぐことはしなかった。と云っても、ほとんどの世話は昼間の内にユーフェミアが率先して行なっているので(それはもう、構いすぎじゃないかというほどに)、スザクの仕事と云えば猫が望めばミルクをあげることと、一緒に寝ることくらいだ。 一緒に寝るとは云っても、猫はスザクと同じベッドには上がろうとしない。一度無理やり一緒に寝ようと試みてみたが、足元の方の布団の上で丸くなっているだけで、それはスザクの方が夜蹴ったりしないか不安になってしまったために結局諦めた。 撫でてやれば喉を鳴らすし、時折足に擦り寄ってくるくせに、懐いているとは云い難い。適度に人間を突き放す、気紛れな猫だ。 「ねぇほんとうに、ルルーシュみたいね」 ユーフェミアが、まだ何日も経っていない猫との出逢いからもう何度も繰り返し呟いたその台詞に、スザクは不敬の自覚はありながらも一度として返事をしなかった。 ただ願わくば、その名前をつけることだけは勘弁してくれないかと思う。 もしユーフェミアがその提案を行なったとしたら、スザクはそのときだけは反応をしてしまうだろう。それは予感ではなく確信だった。 その猫はいまベッドに腰掛けたスザクの膝の上で丸まっている。その背中をスザクは熱心に撫でてやっていた。 瞳は閉じているが、眠りについているわけではないだろう。 スザクはそれでも、この猫をスザクなりに気に入っているから、ご機嫌取りは欠かせない。猫が誰かを彷彿とさせるとしても、スザクにとって猫は猫で、そして珍しくスザクに大人しく抱かれてくれる貴重な猫だった。 このまま成長してくれれば、もしかしたら、そのうち肉球を触らせてくれるくらいにはなるかも知れない。それを密かな夢にしようとスザクは心に誓った。 「ユフィに飼ってもらえて良かったね」 そっと話し掛けると、猫は髭をぴく、と動かした。けれどすぐ何事も無かったかのようにまた落ち着いた呼吸を取り戻している。 この状況ではまるでスザクが飼い主のようだが、スザクはただ助けただけで飼うつもりなんて全くなかったんだから、猫の飼い主はあくまでもユーフェミアであり、スザクはただの世話人だ。 ルルーシュが幼い頃を過ごした場所に、ルルーシュをまるで小さくちいさく赤ん坊より縮めてしまったような姿で現れた猫。同じ毛の色、同じ眼の色。一緒に居るととても落ち着いて、あの不快な声さえ遠ざけてくれる猫。ユーフェミアに懐いて、スザクに擦り寄る猫。 別に変なことは考えてない。そんなことあるわけない。ユーフェミアが想像力豊かすぎるのだ。 だけどそう考えてしまうのも仕方がないと、そう思えるくらいには、彼に似ているということを認めざるをえないから、スザクは飼い主になんてなりたくなかった。 だって思い出してしまうんだ。 あのときの絶望と、憎しみと、けれど今はそれ以上に、一緒に同じものを見ていられた頃の空の青さと、それからスザクの罪の始まりのあの瞬間の、胸を占めていた総ての感情と――― 恨め。恨んで良い。俺を恨め、憎め。俺はこんなにも憎らしいだろう? ねぇ、そんなことを云いながら君の中には愛しかなかったんだ。 だってあのとき父殺しという罪を犯してしまったのは、一体なんのためだった? 胸をいっぱいに占めていたあの感情は、一体どこに向かっていた? 後悔の理由に相手に求めないと誓い、それでも焦がれたのは一体なんだった? 絶望を知ったとき、涙に濡れた頬を包み込んでくれたのは、一体誰の掌だっただろう? 『そうさ。結局お前は、罰を求めるふりをして、ただ赦されたかっただけだろう?』 そう、だれよりも―――に。 どこから流れゆくのか判らない、誰のものとも知れないこの声を聞いたのは久しぶりだった。 頻繁に聞こえていた頃は鬱陶しくて仕方がなかったと云うのに、どうしてだろう、今はひどく懐かしく、恋しい。 顔を覆ったスザクの下で、猫が静かににゃあ、と鳴いた。撫で付けていた手が止まってしまったので急かしているようだ。 猫にしては珍しい、紫の瞳がスザクを恨めしげに見つけている。 気紛れで、我が侭で、ああもうほんとうに――― 小さな猫。見放してしまえばすぐにでも果ててしまうちいさな命。 「――ゴメン、ゴメンね」 助けられるなんて思い上がっていたんだ。 この手はだれも、なにも守れやしないのに。 彼に似たこの子を助ければ、きっと赦されるなんて……滑稽だ。傲慢だ。―――それでも、切願なんだ。 猫はしばらくそうしていたが、やがてスザクの掌を諦めたのかのそりと身体を起こすと、スザクの膝の上からベッドへと降りた。 ああ、行っちゃうんだねと、項垂れた頭を押さえていた手の隙間からその行く先をなんとなく見ていたが、猫は遠ざかるどころかこちらに向き直り、ぴょい、と腕にしがみ付いてきた。それから必死によじ登り、スザクの肩にまで見事到達する。 その行動にびっくりして顔を上げると、正に目の前にある小さな顔と眼が合ってしまって、すくなからずどきっとした。 すると猫はまた一声鳴き、スザクの頬まで近寄って擦り寄ってくる。 もぞもぞという感触がくすぐったくて、一瞬何をされているのか判らなくて固まってしまう。 けれど、そう。 これは……まるで慰められているかのような。 真相は遊びたい気分だから構って欲しいとか、そうれなければミルクが欲しいとか、そんなところだろうとは思うけれど。 それでもいまのスザクには、猫がスザクを気遣ってくれたとしか思えない。いや、そう思いたかった。 ちいさなぬくもりを頬に感じる。 数日前途切れかけていた命が、いまはちゃんとここに息づいていることを実感する。 そう、スザクにも守れるものがちゃんと在った。 それは証として、ここに。すぐ側に。 そのことを教えてくれているようだ。 そして同時に思い出すのは、かつてこうした出来事ひとつひとつを共有し、分け合った存在のことを。 (―――猫を、拾ったんだ。君はいつも、動物はその人の本性が判るから、だからお前に近寄らないんだろうだなんてひどいことを云って……ねぇだけど、その子はとても良く懐いてくれているんだよ) そう云ったら君は驚くだろうか。 だけどきっと、次の瞬間には、一緒に歓んでくれるんだろう? ねぇ君に、伝えたいんだ。 そうした日びのできごとを。ユフィの無事を。ナナリーとスザクの悲観を。 あれだけの毅い感情が、今は不思議と薄れてしまっていることを。 もう数え切れないくらいに、君に伝えたいことがたくさん、たくさんあるんだ。 それなのに君が居ない。 どこにも居ない。 どんなに焦がれても見つからないんだ。 君に謝りたくて、謝って欲しくて(もちろんスザクではなくユーフェミアに)、怒りたくて、怒って欲しくて、赦したくて、赦されたくて、笑って欲しくて、一緒に笑いたくて それなのに、ルルーシュ、君が居ない。 春が来て花が咲いて猫が居て、その笑顔の輪の中に、君が居ない。 ねぇあれだけ散りばめた愛の欠片だけを置き去りにして、君は何処へ行ってしまったの……? |