「……これだから優等生ってのは疲れる……」


誰にも聴こえないよう小さな声で呟きながら、ルルーシュは階段を下っていた。その足取りはよろよろと大分覚束無い。
それもそのはず、ルルーシュの腕の上にはクラス全員分のテキストがずっしりと乗せられていた。
担当の教員は自ら生徒会役員であるルルーシュを指名しておきながら、いざ運ばせる段階になってから不安そうにルルーシュの細腕を見遣っていた―――が、すぐに目を逸らして「よろしくな!」と無駄に明るい声を掛けて来た。
そうか見ないふりか。良い度胸だ
……などと云えるはずもなく。
良い子のお返事をして、ルルーシュは大人しく、もう見るからに自分の許容オーバーのそれを腕に乗せた。
いつもだったら呼ばれた時点でリヴァルを派遣するなり付いて来させるなりするところだが、さすがに旅行帰りでお疲れモードのリヴァルを連れ出す気にはなれなかった。
それにリヴァルには、疲れきっている身体の更にその上に、溜まりに溜まった課題を片付けるという大役が圧しかかっている。自業自得だから同情の余地も無いが。
だが、何故いつもだったらスルーするばかりのそんな状態のリヴァルを今日に限ってルルーシュが気遣っているのかと云えば、それは単純に、リヴァルが旅行先でナナリーへのお土産も買っていてくれたからだった。
ルルーシュの考えを読まれている気はしないでもないが、ルルーシュも気に入っている名物のお菓子に、現地でしか売っていないメーカーのハンドクリーム。リヴァルにしては大分センスも良いし、気が利く方だ。ちなみに、他の生徒会の女子にはとりあえず一番人気だったブロッティングペーパーらしいので、差別をつける辺りあざとい気はするものの正直ポイントは高い。まぁ効力は今日の分くらいしかないが、充分だろう。
と云う訳で、ルルーシュは今ふらふらとひとりで頑張っているのだった。
声を掛ければリヴァル以外にもルルーシュを気に掛けてくれる者はたくさん居るが、ルルーシュ自身はあまり他の人間に頼りたくないという気持ちがあった。
昔、スザクに対してはそんなこと全然思わなかったし、リヴァルは気を赦している上に、持ちつ持たれつという気がしているので構わない。だけどそれ以外の人間には近寄りたくないし、近寄らせたくない。領域に立ち入ることを赦す人間と、遠ざけておきたい人間の境界線は実のところ自分でも良く判ってはいないのだが(多分感覚だろう)、とにかく他人というものが嫌いだった。
大して交流を持たないクラスメイトと話すよりもよほど、疎遠になってしまったスザクと話す方が良い。
だが、ルルーシュ自身はそう思っていても何故かルルーシュの発言は人に影響を与えるらしく。
ルルーシュがそれとなく厭だと云えば文化祭のクラスの出し物は肉体労働系ではなく文化系になったし、ルルーシュが判りやすいし面白いなと云った教師の授業は、教室はとても静かになった。
リヴァルに呆れた様子で指摘されて、そう云えば確かに、と気付いたのだが、ならばこれを利用しない手はないだろう。
つまり、ルルーシュはなんとかスザクをクラスに溶け込ませるために、優等生を演じているのだった。そうでなければこんな面倒くさい仕事、それこそ誰かに任せるように働きかけるに決まっている。
影響力のあるルルーシュが昔のようにスザクと接するなり、悪い奴じゃないとでも云えば、きっと今の状況も改善されるだろうと信じて。
ちゃんと向き合えば、スザクは怖くも何ともない、実直で少しだけ強引な良い奴だ。そうほんの少し、例えばあの頃の眩しい笑顔をちょっと見せてくれるだけで良い。それだけで皆はきっと判ってくれる。
と云っても、ルルーシュがスザクにそれとなく避けられ始めてから一年とちょっと。未だ何も進展してはいないけれども。
スザクと話すどころか挨拶さえままならない状況で、一体どうクラスメイトに働きかけろと云うのか。
でもスザクと少しでも接点のできた人間ならば、きっとスザクの良さに気付くに決まっているのだから、ルルーシュはきっとただ何かしらの繋がりをつくるだけで良いのだろう。
そんなことを一通り考えてみて、余計その計画性の無さに思い至ってしまい、ルルーシュは腕に乗る荷物のこともあって深く思い溜め息を吐いた。
本音を云うと、今の怖がられるばかりのスザクを見ていられないとか云う、そんな優等生的な考えは後付けの理由で、ただ単に、ルルーシュがスザクと話したいだけなのだけれど。
そしてそのただただ我が儘なばかりの理由を、優等生が浮いている生徒をクラスに溶け込ませるという美談にしようとしている自分は、とても浅ましいとは思うのだけれど。


(せめて、何か切欠があれば……)


そうすればきっと、スザクからの反応が無いことなんか怖れずに話をすることができるのに、と。
考え事をしながら階段を下りていたルルーシュは、踊り場に差し掛かった足元を良く見てはいなかった。
そう―――つまり、


「う、わッ!」


踊り場だとばかり思っていたカーブ部分に思わぬ段差があり、それをルルーシュは見事踏み外してしまい。しかもそのまま、勢いなのか流れなのか何なのか、両手が塞がっている所為で手すりに捕まることもできず、更に下へともう片方の足が滑り落ちた。
腕の上から荷物が飛んだのが判って、咄嗟に腕を伸ばして取り返そうとする。けれどその間にも、ルルーシュの身体は宙を舞っていた。


(落ちるッ……!)


残念ながら、自分の反射神経の無さくらい自覚済みだ。殊、こういうことに関しては諦めの良い性格も判っている。
だからぎゅ、っと目を瞑って、覚悟を決める。
ただ耐えていれば、恐怖も痛みもいずれ薄れる。
そう思って。
だが、ふわりと浮いたはずの心臓はしかし、すぐに引き戻され再び地に着いた。
続いて襲って来るのは腕の痛みと、身体ごと引っ張られた所為で脳が揺れた感覚と。


(え……。助かっ、た?)


恐る恐る瞼を抉じ開ければ、投げ出されたはずの身体は、同じ景色を視界に映したまま元の場所で落ち着いていた。
それを認識してから漸く、詰めていた息を無意識のうちに吐き出す。
そして息を吐ききったルルーシュに吹き掛けられたのは


「ンっとに、ドジだなぁ……」
「ス、ザ……?」


聞き慣れた、だけど今は遠い声。
それが、ルルーシュを包み込んでいた。その声と、遅れて感じ取った温もりに目を瞠って、しかし。


「気をつけろよ。ランペルージ」


間髪入れずに、視線も逸らされたまま突き付けられた残酷な台詞が


「あ―――ああ、その……すまない」


歓びかけたルルーシュの心臓を、深くふかく突き刺した。


「……別に……気をつけろよ」


聞こえるか聞こえないかくらいの音量で返事をして、すぐに離れて行ってしまった腕と、留まること無く遠退いて行く背が、あまりにもよそよそしくて。


(―――この傷みは、一体何だ)


むかし、スザクとまだ出逢ってない頃に日本人につけられた傷だって、こんなに痛くはなかったのに。
今朝はちょっとだけど挨拶できて、今はこうして助けてくれて。もしかしたらまた、なんて期待を抱きかけた瞬間に、この仕打ちは酷いだろう。
切欠が欲しいとは願ったけれど、こんなものならいっそいらなかった。


(大体―――スザクはいつも突然なんだ)


そうだ、一番最初に助けてくれたときだって、今みたいに咄嗟に反応してしまったというだけで切欠なんてそんなものはなくて、所詮は気紛れだったのかも知れない。そしてそのまま、あまりにもルルーシュが弱いものだからイライラして、そんなルルーシュを何とかしようとしていただけなのかも知れない。
だから、ルルーシュが未だ肉体的には強くなっていないにしても、もう虐められることはなくなったからスザクが側に居る必要はなくなった、という説が瞬時にルルーシュの脳裏を駆け巡る。我ながら想像力逞しいとは思うが、それはとても、辻褄が合っているように思える。
だってスザクは、真っ当な正義感に溢れているわけでは決して無い。正義は正義でも、総て彼の主義に因るものだ。
弱者を虐げることは持って生まれたスポーツ精神の所為で嫌がるものの、虐められている側が被害者面をしているのもムカつくと云う、何ともガキ大将らしい云い分の平等主義者だ。
けれどルルーシュにとって、スザクのそんな性質はかえって判りやすいために好ましくもあった。


(……俺が、スザクにとって。正にその、逆鱗に触れるような存在でしかないとしても……)


それでもあのころスザクは、家の外では味方なんてひとりも居なかったルルーシュを助けてくれた。それがスザク本人にとってはただムカつく虐められっこだと思われていたのだとしても、嬉しいと思ってしまうのだからもうどうしようもない。
スザクに掴まれた腕が鈍く傷みを伝えて来る。だけどその傷みが、今のスザクとルルーシュを繋ぎ止める最後の楔のようだ。
留めていたものがルルーシュの胸の底からせり上がって来て、涙となって溢れそうになったけれどルルーシュはぐっと堪えた。
ルルーシュが今居るのは特別教室棟なので人は周りに居なかったけれど、それでも誤摩化すために下を向く。
その視線の先には、見事ばらまかれたテキストが散らばっていた。


(ああ、しまったな……)


新品だと云うのに、表紙が折れたりはしていないだろうか。
通常の思考だったらそんなもの、と捨て置くところを、今は何か他のことを考えていたくて、ルルーシュはまた落ちないよう気をつけながらゆっくり階段を降り、テキストを拾い集めにかかった。


(と云うか俺は……これを運ばなければならないんだったな)


一瞬忘れていたが、思い出してみればもう腕も限界だ。
さっきだって教師にむりやり腕に乗せられて何とかそのまま歩き出したと云うのに、すっかり疲れきった今これを床から持ち上げるなんて。


(無理に決まっている……が、さすがにこのまま放っておく訳にもいかないし)


一気に全部は無理だと早々に諦めるとして、小分けにするなりカートを調達してくるなり、手はあるにはある。だが、それには全部なり一部なりを此処に置き去りにしなければいけない。元々人通りの少ない場所ではあるものの、こんなものが床に放って置いてあったらさすがに危ないだろう。


「仕方ない……リヴァルを、」


始めから連れて来てれば良かった、と思いながらポケットの携帯を探る。リヴァルなら恐らく教室に居るだろうが、何やら集中するとか云って携帯をサイレントにしていたような気がするので気付くかどうかはいっそ賭けだ。
既に負けるような気はしながらも、ルルーシュがリダイヤルのボタンを押そうとした、そのとき。


「ソレ、運ぶのか?」
「―――え?」


上から降って来た声に顔を上げれば、そこに佇んでいたのは立ち去ったはずのスザクだった。
しかも真っ直ぐにルルーシュを見下ろしていて、ルルーシュは一瞬自分の眼を疑ってしまう。


「なん、で……」
「……歩きながら、さっきのこと思い出してて気付いたんだ。そう云えばすごい音したなって。お前それ持って歩いてたんだろ?」
「は……?あ、ああ……」


スザクが何故別れた後になってルルーシュを助けたことを思い出していたのかは良く判らないけれども、ルルーシュはとりあえず素直に頷いた。
集めている途中のテキストを片手に持ったまま、ルルーシュはスザクを見上げぽかんと口を開けていて、そんな自分を間抜けな格好だなと思いながらも、スザクがこんなに話しているのを見るのは久々なので驚いていたりもする。思考も行動も色々と破綻していた。
眉を顰めている様子のスザクに、ルルーシュは何か話し掛けた方が良いのだろうかとぐるぐる思い悩んでいたのだが、ルルーシュが答えを出す前にスザクが先に口を開いた。


「―――お前の細腕じゃ無理だろ、その量」
「なッ……」


久々に会話したと思ったらソレか。いや、それでこそスザクだし、何も変わってないことに安心のような気もするのだけれど、それにしたって人がむかしから気にしていることを遠慮もなくずばっと。
とりあえず、デリカシーは相変わらず皆無だということが判明した。ルルーシュの中のスザクメモにそっと書き加えておくことにする。


「お、俺だってこれくらい……」
「良いから集めろ。……手伝ってやるから」
「え、」


思わず動きを止めると、スザクが「何だよ、不満か?」と首を傾げてくる。階段の上と下に居る所為で、それはもうものすごい迫力だった。
顔立ちで云うならスザクはどちらかと云うと童顔だと思うのに、この凄みは一体何だろうか。
ルルーシュは半ば条件反射でふるふると首を振り、スザクに云われるがまま、テキストを一ヶ所に纏めた。
その間にスザクも階段を降りて来ていて、最後の一冊を上に乗せてくれる。
たったそれだけの共同作業だったが、今になって漸くルルーシュはスザクと会話をすることができているのだと気付いて、その嬉しさに胸を撫で下ろした。
そして漸く、スザクに気にされない程度に彼を見遣る余裕が出る。


(背、あんまり変わらないんだな……)


今でもまだ、若干ルルーシュの方が高いかも知れない。けれど昔ほどの差はなく、ほとんど同じと云っても差し支えなかった。
そんな小さなことひとつを知れたのが嬉しいとも思うし、今更知ったことを悔しくも思う。
だけどスザクはそんなルルーシュには構わず、それ、とテキストの山を指差した。


「教室までで良いのか?」
「ああ、そう」


ルルーシュの返事を聞くや否や、スザクはよ、と軽い掛け声だけで軽々と総て持ち上げてしまった。
それには素直にすごいと舌を巻いたのだが、しかし。


「あ、全部は……」
「は?」
「その、悪いし」
「……全然平気だぞ?」
「でも、頼まれたのは俺だし……」
「……お前、変なトコで真面目だよな」


と云うか、プライドが赦さないというのもあったわけだが、さすがにそこまでは恥ずかしくて云えない。
スザクは呆れたようにルルーシュを見ているようだったが、やがて「仕方ねぇなぁ」と云って片手で荷物を持ち替えると、空いた方の手で上の五冊分だけをルルーシュに手渡した。


「ほら、お前はコレ持て」
「え」


と云うか、ルルーシュが両手でやっとの思いで運んでいたそれを、床にあった状態から軽々しく持ち上げただけじゃなく片手って。
条件反射で受け取ってしまったけれど、ルルーシュはすっかり呆気に取られていた。


「これなら良いだろ。行くぞ」
「え、あッ……待てって!」


あれほどに重い荷物を持っているとは微塵も感じさせない軽やかな足取りで、スザクはすたすたと先を行った。
その後をルルーシュは慌てて追い掛ける。五冊分では全然対等ではないと思うのだが、これ以上食い下がったところで、スザクは機嫌を曲げて全部放り出してしまいそうだと思ったから大人しく受け入れることにした。
スザクの表情は無か呆れか、そのどちらかでしかなかったけれど、でも知っている。強引だけれど、これこそスザクの優しさなのだ。
あまりにも不器用なスザクの優しさに久々に触れて、心がじんわりと熱くなるのを感じる。
スザクの方が足が早いのもあってルルーシュはなかなか追い付けず隣には並べなかったけれど、丁度目の前に映る背中が、やはり広く頼もしく、どこまでも眩しかった。