微かに首を持ち上げた、ほんのすこし先
空を遮って視界いっぱいに拡がる背中が、世界の総てだった。
橙に透く陽を拡散し、光を散りばめて煌めく髪に幾度となくそっと手を伸ばしては、戸惑いに躊躇う心を持て余して。
伸ばした指先があの背中に届くことは、一度としてなかったけれど。それでもこの胸を焦がすほどの憧憬は、前に進むための指標だった。
その絶対の存在が遠退いてしまっても、今も尚。
想いは薄れることなく、寧ろ明瞭として、未だこの胸に燦然と咲き誇っている。


Herioscope*


「おおおーい、ルルーシュ!」


透明な雲が朝陽に千切られ、薄く霞みがかった空を視界の遠く。地平線を目指して歩いていたルルーシュの背中に、朝の静寂を破る元気な声が掛けられた。


「リヴァルか、おはよう」


声の主である悪友殿は軽くひらひらと手を振りながら、足を止めて振り返ったルルーシュの隣に並んだ。
軽く挨拶を交わし、そのまま二人で歩き出した途は、既に校内であるというのに周囲に人はほとんど居ず、閑散としていた。
朝練のある部活の連中ほどではないが、まだまだ充分早いと呼べる時間だ。連休明け、しかも長期休暇とそれに伴うテストを目前に控えたこの時期は、用でもない限りギリギリに登校したくなる気持ちも判るからこの状況は当然と云えよう。
ルルーシュはルルーシュで、人が居ないからこその静謐を享受したくて、この早い時間を狙ってきたのだが。まさか知り合いに―――しかもリヴァルに―――会うとは思っていなかったから、朝の眩さに顰めていた表情に驚きを乗せた。
数日ぶり、久々に顔を合わせたリヴァルは、休み疲れを身体に残したルルーシュとは逆に、朝特有の冴えた寒さをものともせず随分と元気そうに見えた。元よりルルーシュよりはバイタリティのある奴ではあるけれど。それにしても、羨ましいほどに機嫌が良さそうだ。何よりこの早朝登校。何か心変わりでもあったのだろうか。
そこまで考えて訝しげに眉を寄せたルルーシュに、リヴァルは苦笑して首を傾げた。


「ルルーシュお前、また随分と早いな」
「人ゴミは嫌いなんだ。それに、今日はお互い様だろう?」
「まぁな。俺さぁ、実は休み前に急に思い立って、夜行バス使って一人旅決行したんだ。んで、ついさっき隣の駅に着いたばっかりなんだよ」


誇らしげに親指を立てたリヴァルは、眩いばかりの笑顔でルルーシュに対峙していたが、当のルルーシュは胡乱気に首を傾げるばかりだった。


「まさか……そのまま来たのか?」
「そそ。一応考慮に入れて、制服も持ってきてたんだ」
「一応も何も、始めからそのつもりだったんじゃないか。……そうか、それでその大荷物というわけか。一度家に戻るという選択肢はなかったのか?」
「そんな面倒くさいことできるかっての。これでも疲れてんだぜ? 結構歩き回ったし、夜行バスであんまり眠れなかったしさ。今は逆にハイになってるけど、部屋着いたら絶対ベッド倒れ込むね俺は」


断言できる、と妙に自信ありげにつづけられた台詞に、ルルーシュは漸く納得が行ったように頷いた。


「成る程な。だがそれなら、ロッカーに預けるなりしたらどうなんだ?」


邪魔だろう、と。
ルルーシュが指摘した通り、リヴァルはいつもの学校の指定鞄に加え、何やら大きなリュックを背負っていた。
確かに指定の鞄以外は持ってはいけないなどという校則はないが、例え人の居ない校内であろうとこの制服姿では、今のリヴァルの出で立ちは非常に浮いてしまっている。それでなくたって小柄のリヴァルにはそのリュックはひどく重そうだ。隣の駅からずっと担いで来るのはかなり骨の折れる仕事だったろう。運動部なら普段からその荷物の大きさもなくはないだろうが、リヴァルは特定のクラブ活動には参加していない生徒会役員だ。顔を合わせた瞬間から、ルルーシュはリヴァルの大荷物には疑問を抱いていたのだった。
しかし、事実を知った上でのルルーシュの提案に、リヴァルはまさか、という表情で首を振った。


「そんなもったいない。何のための極貧節約旅行だっつーの!」
「……ああ、バイクだったか?」


僅かな間を置いてリヴァルの意図を組んだルルーシュに、彼は嬉しそうに何度も頷いた。


「イエス! そしたら夜バスなんかじゃなくて愛車で駆け回るぜぇ」
「へぇ。確かに、気持ち良さそうだな」
「お! なら俺、サイドカーも目標に入れちゃうぜ?」
「そういうことなら、その分……の、半分くらいなら出資してやっても良い」


横顔で薄く笑ってみせたルルーシュに、リヴァルは面白いほど食いついてきた。


「マージでー? でもいま一瞬サイドカー分出すって云いかけたよな?」
「なんだ、しっかり聞いてたか。別に良いぞ? 俺の足確定な上、これから先の課題すべて一人で頑張ることになるけどな」
「ッすいませんルルーシュ様ぁ!」


風が起きるほど勢い良くお辞儀をされた。が、ルルーシュは構わずにリヴァルの方を見もしないまま先をつづける。


「今回の連休なんて、鬼かってほど出されたもんな。ま、俺の悪友様はそんなのものともせずにあっさりと片付けて、すっきりした気分で旅行なんか行っていたようだが」
「ちょちょちょ、判ってるくせにぃ〜」


しなをつくり寄り添ってくるリヴァルを、ルルーシュは冷たい瞳で見遣った。
朝早く、人のすくない時間でホントに良かったと思う。


「気持ちが悪い。減点十。と、いうわけで諦めるんだな」
「そりゃないぜルルーシュ!」


未だつっかかってくるリヴァルを無視して、ルルーシュは歩みを早めた。
こういう場合は相手をしないに限る。
どうせ高校に在学している間は、リヴァルがルルーシュの足代わりであることについてはもう今の時点で確定しているようなものだから、バイクなりガソリン代なりは始めから援助する気では居たのだ。
ただルルーシュはそれを、素直に告げるような性格はしていない。
それに、お金が関わると人は変わると云うし、あまり付け上がらせてもいけないだろう。元よりチェスの代打ちをリヴァルの方から持ちかけてきて、しかもしっかり分け前を定めた上でお互い稼いでいる辺り、リヴァルがそれで今更目の色を変えるということはないことくらい判っているが。
この辺りの機微を判り合ってこその悪友だろう、という結論に勝手に達したルルーシュは、そのまま尚も縋るリヴァルを無視して突き進んだ。―――の、だが。


「う、わッ!」


奇妙なリヴァルの悲鳴が聞こえ、とは云えそれほど切羽詰まった様子ではなかったから、どうせ荷物の所為で躓いたのだろうと、ゆったり振り返ったルルーシュは、そこで、総ての動きを止めた。
ルルーシュが視線ごと意識を奪われたその先
そこで、ひとりの男子生徒が、リヴァルの影に隠れる格好で不機嫌そうに立ち止まっていた。


「邪魔だ」
「わ、悪い……」


リヴァルは大き過ぎる荷物を抱えていた所為で、後ろに居た通行人を塞いでしまっていたらしい。
その人物はリヴァルに一言だけ文句を云いギロリと一睨み効かせると、横に退いたリヴァルに構うことなくそのまま真っ直ぐ進んで行った。同じように立ち止まり、思わずリヴァルと同じように一歩引いたルルーシュにも、反応を見せることなく。視線を向けもせず、むしろルルーシュの存在に気付いてなどいないかのように通り過ぎようとする。
そのことがとてもとても寂しくて、哀しくて―――
胸の締まるような心地がしたルルーシュは急かされるようにして、彼がルルーシュの目の前を通った瞬間、決死の想いで口を開いた。


「お、おはよう」
「……ああ」


彼はルルーシュの小さな呼び掛けに声だけで反応を見せ、歩みを止めることもなくルルーシュの前をすり抜けて行った。ただほんの一瞬だけ、こちらを見たような気はするのだけれど。
微かに俯いていたルルーシュは、それを単なる自分の願望がそう思わせただけだろうと、そう片付けることにした。
そしてそのまま、遠ざかる足音に聞き入る。武道に長けている所為なのか、速さの割にがさつきは感じられず、淀みのない足音だと思った。ルルーシュ自身武道に精通しているわけではないが、判る。柔道、空手、合気道、剣道、弓道、あらゆる種類の試合を、誰よりも間近で見ていたルルーシュは、観戦する立場で云えば間違いなく武道のプロだと云えるだろう。


「うへぇ、怖」


彼が颯爽と昇降口の向こうへと消えてから、リヴァルがすごすごとルルーシュに追い付いて不平を漏らした。そんなリヴァルをルルーシュは無言で見下ろして―――それから、ふたたび彼が向かった方向へ視線を転じた。
リヴァルはそんなルルーシュの様子を特になんとも思わなかったようで、ルルーシュと同じ方向を見て何やら溜め息を吐いている。


「良くお前、挨拶なんかできるな。俺、自分から声掛けられねーよ」


確かにそうだろうと思う。
今ふたりを追い越して行った彼はクラス中から―――否、学校全体から敬遠された存在だ。体格は良い方ではないが、常に顰められた眉と、引き結ばれてほとんど解けることない口元が人を寄せ付けようとしない。
だから、いくら人を穿った目で見ることはあまりないリヴァルとは云え、彼に限っては接点もないのだしそのように感じてしまうのも仕方のないことだろうと云える。
だけどルルーシュは知っていた。


「―――怖くなんか、ないだろ」
「え?」
「全然、怖くない。むしろ優しいと思う……きっと」


ルルーシュは知っている。
ほんとうは、色んなことを放っておけない性格で、厭になるくらい正義感に溢れていて、そして不器用でぶっきらぼうなのだということを。


「お前ねぇ……あの枢木にそんなこと云うの、お前くらいのもんだと思うぜ」


だって俺はいつも助けてもらってたんだ
どうせ信じてはもらえないだろうから、それを口に出す気はないけれど。
あの頃の輝きが、眩さが、温かさが
すこし視点を変えればいまでも彼から漂ってくる気がして、ルルーシュはスザクの姿をずっと視線で追っていた。