独奏
-solo-
「……は?」
訝しむような声と同時、呆れたように歪められた貌を見下ろして、俺は胸の裡でひそりと嗤った。
ああ、全くもって愉快でたまらない。
常に優等生面を崩さないコイツが素を出す瞬間。
長年の経験というヤツで、そのツボを抑えている俺はあえて相手が気分を害するような言葉を選んだ。
悪趣味にも程がある。それはとうに自覚済みだ。
それでもやはり、思い通りの表情が相手の顔面を彩り、そこに確かな不快感と―――焦燥感を見つけるたびに、じわりと滲む嬉しさを抑えきれない。
いつも澄ました顔をして滅多に慌てないコイツのこんな表情を見られる人間は、今のところきっと俺だけだ。―――いや、本当は違うのかも知れなくて、もしかしたら他に色々な表情を見ることのできるオンナが居るのかも知れないが、とりあえず俺はその存在を知らない。だから俺はその密かな愉しみを、自分だけの特権だと思っている。
大事なのはそこだ。
俺が、俺自身がどう思うか、だ。
だから真実などはどうでも良い。そんな事実が本当にあるのだとしたら、俺は知らないままで構わない。
そんなふうに強がりながら、だけど知ってる。……知っていた。
今のコイツにとって、心の伴う恋愛などというものは在りはしないと云うことを。どんな女を抱いていようと、そこに心はない。だから大丈夫だ。
ああなんて健気なんだろうと陶酔に誇りを抱く裡で、いつだって自分自身に云い訳をしなければ、自分の想いにさえ潰されそうになってしまう自分を浅ましくも思う。
だけど、そうすることでしか生きられない自分が嫌いではなかった。
そんな俺の葛藤も知らず、相手はどこか責めるような響きを讃えた眼差しで見据えてくる。その色に、期待は抱かない。するだけ無駄だ。
だって決して俺の瞳は見ず、そこから巧妙に外された眉間辺りに視線を置く、それはコイツの相変わらずの癖だった。
もう長いこと、俺はコイツと視線を合わせた記憶がない。それは共に過ごした時間と見事なまでに反比例していて。
「それで今度は、ジノ? 良くやるね、この前三年のだれかと別れたばっかりじゃなかったっけ?」
「さぁな。忘れた」
本当に。
例え視線を合わせなくても、コイツの真っ直ぐな視線なんて鮮やかなほど鮮明に脳裏に浮かぶのに、俺を通り過ぎて行ったオトコどもの顔はぼやけるばかりだ。
覚えていないのではなくて、そもそも見ていなかったのかも知れない。コイツのことは自分でも厭になるくらい見過ぎていると云うのに。
「不誠実過ぎるよ、ルルーシュ。ただでさえ男と、なんて良い気分しないのにさ」
「大丈夫だ。友達には手を出さないって決めてる」
「そういう問題じゃなくてね」
じゃあ何故お前が気分を悪くする必要があるのかと。そんなことは訊くまでもなく答えは判りきっていたから、敢えて傷つきたくもない俺は黙っていた。
しかしコイツときたら俺のその沈黙を反省と受け取ったらしく、何やら満足そうに頷いている。何をどうしてそんな満ち足りた表情にまで至ったのかは知らないが、コイツが行き着いたであろう結論は容易に想像がついた。
その俺の想像と全く同じタイミングで、相手は「判ってるなら良いけど」と嘯く。
全くコイツは、俺が何を理解すべきだと云うのだろう。
空気が読めないとは、俺だけじゃない色々な人間からのコイツの評価ではあるが、俺は空気よりももっと簡単に、人の気持ちを推し量って欲しいものだと心からそう思う。
理解しろなどと難解なことは云わない。だがせめて、もうちょっと、人の反応を見て気を遣ってくれないだろうか。
一体何度俺はコイツの考えなしの一言に哀しんだり、ぬか歓びさせられたり、理不尽さを覚えたりしなければならないのか。
何より、俺は一体どうしてそんなことのひとつひとつを大切な思い出だなんて、そんなふうに思ってしまうのか。
自分のことなのに、判らないことだらけだ。
コイツが俺に判ってほしいと望むこと、その内容。
それは考えるまでもなく判っているのに、どうしてそんなことが判ってしまうのかが判らない。
全て判らないままでいた方が、きっと楽だっただろうと思うのに。
「なら、ちゃんと云えるね?」
「……何をだ?」
「君とは付き合えないっていうことをだよ」
それ以外に何が、とでも云うような当然の顔をされたが、俺にはさっぱり判らない。それを一体誰に云えというのか。
―――お前に? ……まさか。
でもそれ以外の人物なんて思いつきもしないし、ジノ以外で最近俺に告白してきた者など居ない。
居たとしても今俺はジノと付き合っているのだから、断るのは当たり前だ。
さすがの俺も二股だなどという面倒なことをする気はないし、そこまで落ちぶれてもいない。
きょとんとした俺の表情にさすがに気付いたのだろう、相手はすこし苦笑して首を傾げ、嫌になるくらい優しげな声を出した。
「ジノに、だよ」
「は?」
「だめだよ? 今までの相手みたいに、冷たく振ったりしちゃ」
「……何で」
「何でって……当たり前じゃないか。ただでさえ振られるのって傷つくのにさ」
「そうじゃなくて……何で俺がジノと別れるんだ?」
「え?」
今度は相手がきょとんとする番だった。
しかし段々と俺の意図を理解して行ったのか、面白いほど段階を踏んで顔を歪めて行く。
「……何だ……てんで判ってなかったんだね」
だから最初からそう云って……はいないかも知れないが、態度には充分表してきた、つもりだ。
判っていないのはお前の方だろうという反論はなんとか押さえつけた。
判らないふりをしていた方が、覚悟がある分、きっと傷は浅くて済むだろう。
「だから、何を?」
「良くないって云ってるんだよ。そんなふうに、相手を取っ替え引っ替えするのは。ましてやジノだなんて……」
悔しささえ感じ取れるほどの表情に、心と云わず頭からも身体からも、そう俺の存在全てでもって警告を発していたけれど。俺は問わずにはいられなかった。
どうして、と。
その先の答えに絶望が見え隠れするのを判っていながら。
だってもう俺はとっくにおかしいんだ。
いつだって平気なフリをして、強気のフリをして、俺を好きだと宣う人間を傷つけるようなことを云って、その言葉に自分自身で傷ついて。そしてそれを愉しんでいるんだ。
コイツの言葉は優しいものも冷たいものも、口から発せられる何もかもが俺にとってはナイフと一緒で、その鋭い切先を回避する方法も知らないくせに、俺はコイツの側から離れることができない。
俺の傷は癒されないまま、また深く抉られるのだろうと知っていながら、それでも俺はコイツの前では口を噤むことができない。嘘ばかりを、ただひたすらにコイツの前に積み上げて行く。真実をひとつひとつ嘘に変えて行って、今ではすっかり嘘にばかり塗れている。俺の真実なんて、コイツの前にはこの外見以外ひとつも無い。
どんなに変化を求めたところで、どうせ見てはくれないのだから。
「……どうして?」
制御しきれなかった唇からは、総てを代弁する感情的な疑問がいとも簡単に滑り出る。―――その全て、その内の一欠片も、コイツに伝わることはないんだろうと知っていながら。
「え?」
「なぁ、どうしてなんだ?」
「どうしてって……だから、良くないって」
少したじろいだ様子で同じことを繰り返す相手の瞳に、俺は僅かに落ち着きを取り戻し、目紛しく駆け巡る言葉を瞬時に頭の中で組み立てる。
「それは判った。と云うか、お前がそう云うだろうというのは想像の範疇だった」
「君ね……なら是正する気は、」
「毎回毎回、飽きるくらいにヴァリエーションも変えずに云われれば、どうせ今回も同じだろうなと思うし、素直に聞く気も失せる」
「……悪かったね。ボキャブラリーが貧困で」
「それがお前だ」
「莫迦にしてるの?」
「まさか。見ようによっては美点だろう」
事実、その生真面目なほどの実直さの割には憎めないキャラを確立し、年上のオンナどもから絶大な人気を誇るのだから。
複雑な気持ち半分、しかし自分も気に入っている部分なのだと素直に認める気持ちも半分だったが、本人からは「褒められてる気がしない」と落第点を出されてしまった。
確かに褒めたわけではない。むしろ警告のつもりだった。
「いつもお前は、俺が誰かと付き合う報告をしたところで、ちょっと呆れて同じ注意だけして、後はひたすら放置じゃないか。で、最後に別れてから説教だ」
「ああ、そうだね。確かにパターン化してるかも。でもそれは、何も僕だけの所為じゃないだろう?」
「俺もその一環だと云いたいのか」
「違う?」
「結果的にはそうだろうが、別に俺はお前のその反応を望んでいるわけじゃない。ただ今回だけは、ちょっと反応が違うなと思って」
「え? ……何か違ったかな?」
「ああ。どうして今回だけは、そんな最初にはっきり『別れろ』だなんて」
「ああ……そう云えばそうか」
俺が云いたいことに漸く思い至ったのか、顰めた顔を四割程度いつもの穏やかなものに戻して相手は頷いた。
嫌な予感は拭うどころか圧迫感と共に増していて、それを勘付かせないように、そのとうに慣れたはずの傷みを耐える。
本当は、ここで期待してしまえるような、そんな殊勝な性格だったら良かった。否、事実俺は少し前まではそうだった。
だけどコイツはそんな俺を嘲笑うかのようにひっそりと訴えかける俺の眼を見ようともしない。期待なんてするだけ無駄だということなんて、とっくに思い知っている。
やっぱり今更になって話題を断ち切ってしまいたかったけれど、隣で口を開く気配がしたから、むりやり心を抑えつけて押し黙った。
「だってさ……ルルーシュ、君が今まで付き合ってきた相手は全然知らないひとばかりで、だから僕が文句を云う筋合いはなかった。だけど、ジノは違うだろう? 一緒に遊んだこともあるし、君たちは結構仲が良い方だと思ってた」
じわり、じわりと血が流れ出す。膿んだ傷口に触れたそれは鈍い傷みを俺の胸に齎した。
「仲が良いから付き合う切欠になるんだろう、それのどこに問題がある?」
どうか俺の中にある最大の矛盾に今は気付かないでくれと願う。そうでなければ、意味がない。
期待通り、俺の台詞に疑問は抱かなかったらしい相手が反論を探して見つからない様子で不機嫌に肩を諌めた。そこをすかさず突く。
「大体、お前が知っている人間かそうでないかが、どうして俺が付き合う相手の基準に成り得るんだ?」
「……まさか、本気なの?」
「は?」
意味が判らない。
会話がキャッチボールにならないのはいつものことだが、今回はファウルも良いトコだ。捕れなかった俺が悪いんじゃない、コイツがボールを飛ばし過ぎるのがいけないんだ。
「僕が知らない相手ってコトは、ルルーシュも大して知らないわけだろ? そりゃ、僕たちは知り合いが全く共通ってわけじゃないけど、それでも一緒に居る時間が長いんだし、そう判断してもあながち間違いじゃないはずだ」
「……まぁ、そうだな」
「だから、良く知らない相手とそんな軽々しく付き合って気持ちを弄んで……って、思ってたんだけど。でも、ジノは知らない仲じゃない。だから尚更軽い気持ちではダメだって云いたかったんだけど……うん」
「何だよ」
俺を見もしないで頷いた相手を胡乱気に見遣る。生温い笑顔が妙に引っかかった。
「軽い気持ちじゃないなら……本気なら、それこそ僕に云えることは何もないわけだね」
ずどんと。
ああこれは久々に来た。
慣れた慣れたと思っていても、コイツの人の気持ちを推し量らない無神経な物云いは時にあまりに理不尽すぎて、自分でも驚くくらい傷つけられてしまう。覚悟は常にしているはずだと云うのに、何てことだ。
でも俺は只管に隠し通してきたこの気持ちを、コイツ自身に気取られたくない。
気付かれたくないのに気は遣って欲しいだなんて、そんなのはひどい我が侭だろうか。
でも俺もコイツとの長い付き合いの中、人一倍コイツの言葉に耐えて気にしていないふりをしてきたんだから、もうちょっと報われてくれたって良い気がするんだ。どうせコイツは俺のそんな葛藤なんて何も気付いちゃいないんだろうが。
恐る恐る相手の顔を伺うと、寂しそうな色を浮かべた表情と眼が合った。
その色の理由を、知りたくなくて咄嗟に視線を逸らす。きっと、その時点で既に俺は負けていた。
「ルルーシュ」
「……何だ」
「ごめんね、今まで君が誰かと付き合ったり別れたりするたびに、人の気持ちが判らないんだとか冷血だとかいろいろ、ひどいこと云ってた。でも君にもちゃんとひとを想う気持ちがあったんだね。良かった……本当に。ジノと仲良くね?」
もう
それは傷なんてものじゃない。最後通牒だ。
想いを伝えないことで、最後の宣告の瞬間を先延ばしにし続けてきた報いが、今。
確かな形を帯びて、俺に突き刺さってくる。獰猛な牙を剥き出しにして、一度と云わず何度も、何度も。
そう。伝えずにいれば望みがないわけじゃないんだと思うことができたし、何よりコイツのきっと一番側に居ることができた。
コイツの言葉だけでなく、今までの俺の浅ましい行動の真意を今になって自覚して、それが更に俺自身を追いつめる。
とんでもない勘違いだと、ひとり勝手に納得するなと罵ってやりたい。俺がどうして人を平気で傷つけられるのか、その理由を耳元で叫んでやりたい。
けどそんなのできるわけがない。だって俺は自分の想いが報われる以上に、コイツがまっとうに倖せになれる道を壊してしまうことを怖れている。そのためにこんな回り道をしている。
なんて矛盾だ。なんて皮肉だ。
コイツは俺の、そんなどろどろした気持ちを押し隠した瞳を見もしないで、俺のつくった笑顔を褒め、間違いだらけの途を祝福しているというのに。
なぁ、俺はだれよりもなによりもお前が
「……ああ、そうだな」
お前が、好きなんだよ
「ジノは……優しい。だから、大事にしないといけないなと思う」
「そっか」
俺の行動ひとつひとつを見張るようにして、間違いだと思ったことには俺の主張も聞かずに説教をして、逆に危険だと思えば一番に優先して助けてくれて。
俺の言動ひとつひとつを嘘だと疑わずに笑ったり、怒ったり、今みたいに嬉しそうに微笑んだり
ああもう本当に、俺の真実なんて知ろうともしないくせに
「君がやっと倖せになろうとするなら、僕も嬉しいよ」
好きだった。好きだったよ、本当に。今だって溢れるほどにお前を想っている。
だけどお前がそうやって笑うから。心から嬉しそうに笑うから。
だから、過去形にしてあげよう。
お前が男である俺を、そういう意味で見るわけがないことなんて、最初から判ってた。お前の中にそんな選択肢は迷いですら存在していなかった。それを知っていて、それでも勝手に縋ったのは俺だ。
自惚れではなく、幼馴染の親友としてなら俺がお前の中で特別の存在であることは確かだったから。男と付き合うだなんてそんなの嫌悪感さえ感じるくせに、俺から離れては行かなかったから。
その現実に俺だけが勝手に期待して、勝手に傷ついていただけだ。そして腹いせとばかり、俺を好きだと宣う人間を好き勝手に弄んで、それで嫉妬するなり、或いは止めてはくれないかと願ったり、いつも躱される本音が垣間見えはしないかと、そんなわけはないのに俺ばかりがひとり、空回りしていただけだ。……だけど、だからこそ。
勝手な我が侭だということは嫌というほど自覚しているが、俺だってもう傷つきたくなんかない。
もう本当に、どんな方法で気を惹こうがこの想いが報われることは決してないのだと受け入れたからには、もうお前の言葉に耐えられる自信はない。
好きだったよ、好きだった。
今もその気持ちは溢れて止まらないし、その奔流を心地良いとすら思ってしまうのだけれど、お前の倖せのために今度こそ俺はお前を諦めなければならないんだろう。
それでも側に居られたらと思ってはいたけれど、実際にそれが現実になってしまうと到底無理だ。きっと期待することすら止められない自分を容易に想像できる。
だから俺は頑張って過去形にするから、きっとお前の倖せを、今度こそ俺以外の隣に見出して祝福することができるようにするから、だから。
好きだったよ。好きだった。きっとずっとこの気持ちは変えられない。
だけど、だから。
さよならだ……スザク。
それから、ゴメン。
ずっと云いたくて、けれど云ってしまうとお前が離れて行ってしまうかも知れないから、云えなかった言葉を。今、ちゃんと伝えたいと思う。
心の準備ができるまで、あとちょっとだけ待って欲しい。それだけ伝えたら、もう俺は、数年来の想いごと、お前の優しさと決別しよう。
そして、お前が執着する過去の俺さえ振り切って、倖せになれることを心から願っているよ。