一歩踏み出すことに傾く身体を意識しながら、アスランは日射の下を歩いていた。
何度となく歩いたはずの坂道なのに、どこか今日はよそ行きの顔をされている気がする。何気なく登っていたはずの、なのに今日は辛く感じるその坂道を、アスランは深く愛していた。それはもしかしたら自己愛に近いのかも知れなかった。いつも立ちはだかっているその壁と似つかわしい道を、アスランは彼との距離に例えた。それを乗り越えて、アスランはアスランをどうとも想っていない彼を愛しに行くのだ。その過程は、アスランを彼の前に美しく立たせる。アスランはそうやって、彼に会いにいく。
それはアスランの、アスランと彼以外には誰にも知られていない秘密の日課だった。


「こんにちは」
「……奥に、」
「判った」


最後まで云わずとも。彼の云う台詞なんてアスランには判りきっている。けれどそれは残念ながら、彼の心を読めるということではない。いつもいつも、彼が同じことしか云わぬ所為だ。
アスランが彼の心を読めたとしたら、きっと今アスランはこんなふうに誰にも行き先を告げずにここに来ているはずが無かった。幸せをかみ締めているか不幸に陥っているか、そのどちらかだっただろう。今のアスランは幸福でも、また不幸せでもない。毎日を無感情に、行きずりに生きているだけだ。けれどアスランはその日常を歓喜し、歓迎していた。人生なんてそれで良いのだ。だから楽しいし、生きていられる。それだけの人生で、アスランは充分満足していた。
彼の指図通り、彼専用の離れに向かう。母屋からそこまでは結構な距離があって、どうせ毎回離れに向かわせるくせに、離れに面する裏路地に出る扉から出入りすることは禁じられている。その理由を聞いたことはない。それは彼のほんの気紛れか、戯れか、若しくはポリシーか。突き詰めて考えることはひどく愉しい。アスランの中に存在するひっそりとした自問と懐疑は、彼との距離を短くも長くもさせる。
離れといえどそれはひとりで住むには充分な大きさで、重々しい重圧感でもって毎回アスランを待ち構えている。白い壁と、黒い瓦屋根。二階の西向きの窓から、白いレェスのカーテンがひらひらと顔を見せていた。
その中は離れにただ唯一在る洋室で、彼は生活のほとんどをあの空間で、レェスに影を写しながら過ごしている。
あの中に足を踏み入れたのは、弐年前アスランがこの家に初めて足を踏み入れてから、ほんの数回ほど。離れを訪れた数と対比した割合と考えると、それは砂一粒にも満たない大きさだとアスランは思った。
それでもアスランは部屋の中の間取りを総て覚えてしまっている。前に入ったのはもう随分と前のことのような気はするが、彼は気分によって配置を変えるよりは、安定した空気を好むひとだから、変わっているわけはないと思った。
もし変わっているものがあるとしたら、それは持ち込まれた本の数と並びくらいだろうか。離れの地下に壮大な書庫があるけれども、彼はその中から数冊のお気に入りを選び取って寝室であり居住空間である洋室に持ち込んでいた。
白と淡いブルーで統一された部屋に、本の背表紙だけが唯一彩りを加えた、素っ気無い部屋。生活感を感じさせない部屋だとアスランは思った。

あの部屋の窓が開いてるなんて、珍しいこともあるものだ。

ほんのすこし、胸の端を横切った予感に関しては、気付かないふりをした。

そうして、軽く数メートル上に離れたその距離から、彼らしいシンプルなレェスの模様まで読み取って、アスランは離れへ入った。
建てられてからもう随分と経つはずなのに芳醇に薫る木と畳のにおい。純洋風の部屋に住むアスランにとって、それはいつまで経っても慣れ親しむことはできなかった。
けれど慣れないことと苦手意識を持つことは別物なので、今はそれらを慈しむようにして愉しむことにしている。靴と靴下を一緒に脱いで、裸足で踏み締めた畳の感触が、好きだと思った。


「……何してるんだ。早く入れ」
「あれ、早かったな」


ゆっくりと確かめるように踏み進んでいたアスランの背中に、不意に声がかけられる。


「―――今日は、貴様が遅かったんだ」
「……そうだったっけ?」
「時間に正確な奴が、珍しいと思ってな」


それは毎日まいにち同じ時間に庭の花に水を遣る、彼の方だろうとアスランは思った。大体、彼が庭に出て数分してからアスランが現れて、少し待たされたアスランが、客の身でありながらお茶の用意をして離れの居間で彼を出迎えるというのがいつものパターンであるはずだった。
その流れで云えば、確かに今日は遅れたかもしれない。……だけど、とアスランは思う。

だけど、別にその時間に来ると約束しているわけじゃない。

彼との間に約束という言葉は在り得なかった。
けれど、彼は待っていてくれたのだろうか?
いつもの時間に来ないアスランを。花に水を遣りながら、いつものタイミングに顔を出さないアスランを、「遅い」と、思ってくれたのだろうか?
……期待は禁物だ。しかしこの感情は、ひどく愉しい。


「……今日は、暑かったからな」


そりゃ毎日のように顔を出していれば、気になるのは当然だろう。だが、気にさせるまでのプロセスが重要なのだ。例え、―――例え、そう。来ないアスランに、彼が焦れるどころか安堵を覚えていたとしても、だ。


「関係あるのか?」
「動きが鈍るだろう?」
「……そんなもんか?」
「俺はね」
「……まぁ、良いが」


無関心だった彼をここまで気にさせた。僅かな時間の違いに気付かせた。例え故意ではないにしても。……それは、進歩と呼んでしまって良いだろう。


「その暑い日に、何で貴様はそんなに重装備なんだ?」
「日に灼けるじゃないか」
「……女性じゃあるまいし」
「差別発言だ。灼けたとき肌が赤くなるのか黒くなるのか、男女で違うってことはないぞ」
「そこまで気にするなら、そんな長袖を着るだけじゃなくて帽子でも被れ」
「その辺は抜かりない。例え女々しいと云われようと、日焼け止めは標準装備だ」
「そうじゃない。……実は結構眩暈でもしてるんじゃないのか?」
「…………」


驚いた。
純粋に、いつもなら難なく躱しているはずの会話の流れを止めて、不信に思わせてしまうくらいには。
だけど、眩暈と云うのなら、陽射しなんて関係なく、もうとっくに―――


「図星だな。とっとと奥に行ってろ」
「でも……」
「冷たい飲み物くらい入れてやる」
「……今日は厄日か?」
「せめて雨が降るとでも云え、馬鹿者」


軽くアスランを小突いて、台所へ向かう彼を呆然と見送る。
雨はだめだ。不吉すぎる。
しかし本当に、珍しいこともあるものだ。このままここで突っ立っていたら怒られるだろうか。そんな彼を見るのも面白そうだが、ここは変化を愉しむことにして、大人しく居間で待っていることにしよう。
居間も窓は開け放たれていたが、風通しが良いので随分と涼しい。どこかで風鈴が静かに清涼の音を告げた。
アスランは陽射しが届かない奥の方に腰を据えたが、縁側の方へ身体を向け、風と一緒に流れてきそうな光を見ていた。橙に透く光が細い走査線を描いて、アスランには馴染のない茣蓙に降りそそいでいる。縁側の廊下に敷かれたそれは、干しているのだろうか。いつもは無かった気がするのだが。


(今日は随分と、変化が多い)


ほんの些細な変化さえ、敏感に感じ取ってしまうほどに、アスランの日常は常に平穏だった。けれど決して退屈ではない。また同じ一日が始まるのだという安心感と充足感。それがアスランを支えている。
それが今日は変化ばかりだ。だが決して厭ではない変化だからこそ、アスランは戸惑った。厭な変化については考えないことにして。


(変わっていく、日常。だけど俺はいつまで経っても変わらない)


そう云えば……とアスランは思う。
そう云えば、彼に云わなければならないことがあった。別に今取り立てて気にすることでもないと思うが……どうせ喪うならば、徐々に慣らされて麻痺するよりは、一度に襲う哀しみの方がずっと良い。それならば、変化ばかりが襲う今日に報告することにしよう。
アスランにとっては今まで忘れていたくらいどうでも良いことだったが、これは契約だった。アスランが得るものなど何も無い契約。けれど、喪いたいものを捨てることはできる。
今日ここに来るのが遅れたのは、フレイと会っていたからだということを、今更ながらに思い出した。フレイから珍しく連絡が来た時点で、変化は既に始まっていたのだろうか。
フレイはまだあの店のあの席に居るのだろうかと、ぼんやりと思う。―――帰り、どうせ大した回り道にはならないから寄ってみようかと考えたことは、大した進歩だ。
だけど今日は、構わない。気温が高かろうと、良い天気なのだから。
今日は、晴れているから、良いんだ。例え眩暈が起きようと―――眩暈なんて、そんなもの、彼と出逢った瞬間から、ずっと悩まされつづけている。だから、良いんだ。

アスランが愛しているのはアスランを愛さない彼で、アスランに関心を払う彼は彼じゃない。

フレイだって……と、アスランは思った。
フレイだって、目的があってのことで、アスランという存在が大切なわけじゃない。
それなら良い。それなら、フレイを愛せる。……空が晴れている限りは。
穏やかに光を落とすばかりだった空が一瞬チカリと耀いた気がして、アスランは半ば無意識に頭を擡げ光源を探した。空はただ何も語らずに、太陽と流れる雲とでアスランの望む晴天を生み出している。
そうだ、人生なんてそれで良い。ただ空が晴れていれば、……それで。
声には出さず、アスランは唇だけで呟く。




 だれもおれを愛さなければいいのに。











ほんと
うは、何も安心なんて齎し
てくれやしない。ましてや充足など
と。
ただ、この身を揺さ振る_眩暈_
は好きだ。生き
ていることを実感できる。