オデットと踊る







 優しく撫でつける指と、ゆっくりと同じ速度で落ちてゆく肩に。

 ああこれは勝てない、と

 思ったのだ。悔しいけれど。



























「もう、そろそろ……戻って来るはずなんだけどなぁ」



大丈夫かなぁ、というキラの呟きは、もう一体何度目になるのだろうか。
数えるだけ馬鹿馬鹿しいと、イザークは疾うに返事など放棄していたし、ディアッカも肩を竦め、ニコルでさえ既に返答のボキャブラリーに尽きて困り果てていた。


「大丈夫、ですよ。あのふたり、結構気が合うんですから」
「だから、なんだけどね……」
「え? なんですか?」
「ううん、なんでもないよ」


ちいさなキラの呟きは、ニコルには聴こえなかったようだ。
けれどそれで良い、とキラは思う。そもそも聴こえないように発したのだ。首を傾げたニコルは、しかしなにかを掴んだのか訳知り顔でひとつ頷くと、キラに合わせて「遅いですね」と呟いた。


「あの腰抜けどもめ」
「しくじったら俺らにも影響があるってことを、ちゃんと理解して欲しいよねぇ」
「止めてくださいよ、イザークもディアッカも。アスランとラスティが自分の顔に泥を塗るような真似をするはずがありませんから」


久々に口を開いたかと思えば、すぐコレだ。ニコルの控えめながらに意志を持った強い口調に、キラはふたりには気付かれない程度に感心した。
キラだって彼らと同じ、任務完遂率でトップを誇るクルーゼ隊ではあるけれど、評議会の子息たちの彼らのプライドは、その点で云えばただの民間人であるキラには到底理解しきることができない。だからこういう話題になったとき、キラはなるべく大人しくしていることにしている。関係の無い人間がなにをどう云い繕ったって、イザークとディアッカを大人しくさせるどころか、火に油を注ぐ結果になることは目に見えているからだ。
だが、アスランのことを云われたら、聞き流すなんてことができるはずもない。それでもニコルがこうして場を取り繕ってくれるから、キラは大人しくしていることができていた。


「―――アレ?」


パシュン、という音が気まずい雰囲気を切り裂いて、同時に赤とオレンジの目立つ色彩が現れた。


「「ラスティ!」」
「なに、お前ら待ってたの?」


つづく人影を期待していたキラは、ラスティの苦笑に近い笑みの後ろにだれも居ないことを確かめるや否や、漸く戻ったラスティに掴みかかった。


「ラスティひとり? アスランは!?」
「ああ、ちょっとやらかして。今医務室で手当てをー…って、聞いてねぇな」


ラスティの台詞を途中で遮って、ばびゅんと星の速さで消えたキラを見送って、ラスティは姿勢を崩した。その表情は入ってきたときからずっと変わっていない。けれどそれは、珍しく顔を揃えて待っていた同期の面々に対するものではなく、ここに来る前からずっと同じ顔をしていたのではないかとニコルは思った。
けれど、それよりは何よりも。


「あ、あの、アスランの容態は……?」
「何やらかしたんだ、あの腰抜けが」
「ああ、大丈夫ダイジョーブ。軽い怪我だけだし。簡単に手当て受けたらすぐ戻るっしょ」
「珍しいじゃん」


ひゅー、と唇を鳴らしたディアッカを横目で見ながらもニコルはあからさまに安心した様子を見せていて、ラスティはその微妙な笑みを深くした。ついでに云えば、馬鹿にしたポーズをしているイザークだって心の底、かなり気にしていることは明白なのだから。
ただ、そのラスティの笑みの意味に、一番近い場所に居たニコルは気付いたようだった。
アスランのこととは別に、ラスティに向けて心配したような顔を見せるニコルに気付いたラスティは、無言のうちに意味を総て悟っていつもの飄々とした笑みに戻す。その一連の動作は、ひとつひとつのネガを組み合わせたかのようにぎこちなかった。


「心配ないって。すぐ戻るから」


イザークとディアッカには、アスランのことに聞こえるだろう。そう思ってラスティはニコルの頭に手を置いたつもりだった、が。


「痛々しい表情しやがって。だから貴様らは腰抜けだと云うんだ」
「心配ならずっとついててやれば良かったじゃん」


決してこちらを見ることなく云うふたりに、ラスティが一瞬の開目の後またくしゃりと元の表情に戻す。このツーカー、ホントに良いトコ取りだよなと、頭では軽口を叩くも心がついていってくれない。


「違うよ……アスランはホント、軽い怪我だから。俺が医務室に居る方が邪魔なくらい」
「……何か、ありました?」
「いや、アスランは人助けただけ。作戦失敗したわけじゃねぇって」


ニコルの頭に置いたままだった掌をぽんぽんと上下させて、微笑む。けれどそれはどうしたって痛々しかった。痛々しい表情=Aそう評したイザークの表現が一番的を射ている。
ムードメーカーであるラスティのその様子に、そこは心配してませんけどと、ニコルは頭の上のぬくもりに注釈を加えた。そんなニコルにラスティはもういちど、念を押すように「大丈夫だよ」と呟く。けれどそれは自分に云い聞かせているようにも見えたかもしれない。


「アイツらしいねぇ」
「なんとなく判った。どうせその助けたのがナチュラルか若しくはクライン派に属する奴らか―――さもなくば、ラクス・クラインのファンって辺りだろう」


見てきたわけでも、ラスティが特に何を云ったわけでもないくせに、イザークが妙に自信を持って云う。ラスティは思わず唖然としてしまった。


「ホントにお前らはもー……。通じてないんだか通じてるんだか……」
「だからキラに嫉妬されるんですよ」
「うるさい!」
「で、どれが正解なんですか?」


心配顔を崩さないままのニコルがそっと訊ねる。この子は全く、目尻を下げた表情が板についてきてしまった。年上者としてこの状況はいかんだろうとは思うが、なかなかどうして。表情だけなんとかなっても、気持ちは上手くつくり出せるものではない。


「―――さぁね」
「ラスティ?」
「今頃キラがドクターにどやされてる頃だろ。どうせ治療も終わってるだろうし、迎え行ってくる。お前らも顔みて安心したいだろー?」


俺は別に、と云い掛けたイザークを遮って、背を向ける。多分、表情は上手く取り繕えている。だけど彼らにそんな表情は見せたくなかった。……絶対に。
彼らが見破るからとか、そういう問題ではないのだ。多分、それはもっと深いところで。


「……じゃあ、お任せします。僕らはここで待ってますね」


大人数で押し掛けても、それこそ怒られそうですし
気を遣わせてしまったかなぁ、と思いながらも、フォローする余裕も無く通路に抜け出る。まるで逃げているみたいだ、とラスティは思った。
けれど決して逃げているわけではない。立ち向かいに行くのだ、ラスティは、これから。
もしかしたら表情は悲愴だったかもしれない。誰も見てないから構わないけれど、それでも幽かな期待をかけていた―――はず、だった。
昏い気持ちで一度来た廊下を辿って医務室に入り、医師の苦笑いを受け流して奥へと向かう。立ち並んだベッドのひとつに、キラのお小言をくらうアスランの姿を想像して、そっと柱の影から様子を窺った。
けれど、その景色を見て、やっぱり来なければ良かったとラスティは胸の内で舌打ちした。


キラの肩に頭を寄せて、蹲ったアスランの背中を優しく撫でつけるキラの手。
何を云っているのかは判らなかったが、どうやら何か宥めているようだった。そしてその手の動きと同時に落ち着いていく震えと。


任務中はずっと一緒だった。ラスティはずっとアスランの側に居た。そして帰ってくるまで、ラスティだってあんな風にせいいっぱいの優しい声で、


(―――なのに今のアスランは)


アスランのあんなに落ち着いた様子は見たことがない。仲良くなったと思っても、どこかしらの境界線と緊張を感じていた。そしてそれをキラの前では取り払うことも、ほんとうは気付いていた。
だから、今日のふたりきりの任務に賭けようと、思っていたのだけれど。


(俺は……守るどころか……)


あのふたりを包む空気が、単に、共に過ごした時間によるものなら良いのに。それならきっと、いつか追いつけるのに。
そんなことを祈りながら、そっとその場を離れた。声を掛けて邪魔するだなんていつもの芸当は、どこかに置いてきてしまった。多分そう、アスランとふたり歩いてきた任務の帰り道のどこかに。
今ラスティが歩く廊下も、さっきの帰り道のように暗いような気がして、何こんなところの電気代なんかケチっているのかと悪態を吐いた。どうにもこうにも遣り切れない。非常にくさくさした気分だ。どうやってこの気分を晴らせば良いのかも判らない。
何かがあったわけではなかった。寧ろ何もないことが問題なのだ。
ひとめで惹かれて、中身を知るごとにまた惹かれていくのと反比例して、距離が遠ざかっていく気がする。それでもラスティは踏ん張りつづけて、他よりは抜きん出た場所に居たはずだと思う。思うのに。幼馴染というだけで、漸く手に入れたと思っていたその地位さえあっという間に掻っ攫われてしまった。
何か、大きな出来事があったわけではない。気持ちの中でそう感じた、それだけだ。ただそれだけのことなのに、イザークやディアッカや、ニコルに成績を抜かれた時よりも悔しい。


「ラスティ!」
「……アスラン?」


じわじわと侵蝕する怒りに任せて、随分と速歩きで進んで来ていたらしい。顔を上げれば、すぐ先がラスティとアスランに宛がわれた部屋だった。
だから、振り返ったすぐ近くにアスランが居るのは奇妙しいことじゃない。ないけれど。

―――息を切らしている理由は、ないはずだった。

一瞬にして湧き起こる期待に、我ながら現金すぎると呆れる。けれどやはりそれ以上に、


「――どうした? 怪我してんのに平気?」
「すぐ治るって云ったのはお前だろ。あんなの消毒してガーゼ当てたら終わりだ」
「そう、か……」


切らせた息をラスティの側で整える姿に、どうしようもない歓びを感じるのだ。
容貌だとか仕草だとか、そういうものを超えた、この存在へ感じるいとおしさが今のラスティを支えると云っても過言ではない。
首を傾げてラスティへ問い掛ける、ひとつひとつの動作それごと抱きしめてやりたい。


「他の奴等には?」
「軽ーく報告だけしといたけど」
「ふうん。イザークあたり、後で五月蝿そうだな」
「まぁ、心配掛けた罰ってね」
「心配ぃ? ……ああ、赤服の権威の、な」
「コラ。素直になりなさい」


こつん、と軽く拳をつくって頭を叩けば、わざとらしく叩いた場所を押さえて上目遣いで見上げてくる。


(無防備な……)


とは思いつつ、けれど知っていた。そう、大丈夫だ。キラの前で大人ぶった態度を見せるアスランは、きっと今の表情をキラに見せることはしない。そういう意味ではニコルも同じ。そしてライバル心を持つイザークの前でもしないだろう。ディアッカは性格的には仲良くなった場合に危ない気はするが、今のところは心配無用。甘えたような仕草は、そう、今のところラスティだけの特権だ。
だから大丈夫。大丈夫だ。


(まだ闘える。あいつらと一緒に)


すこしでも今の均衡が崩れたら、ラスティはもしかしたらコーディネイターの未来をアスランひとりに見出してしまうかも知れないけれど。


「なぁ、アスラン。キラが……」
「うん?」
「キラが、行っただろう? 俺がちょっとアスラン怪我したっつったら、マッハで駆け出してったけど」


それでもこうして傷を抉るような真似をする自分は馬鹿だ。
傷つきたいのか、それとも逆に自信があるのか。そんなことも見失ってただ行き先も判らず突き進む。そういう生き方しかできないのだ。


「ああ、それでか……なんか良く判んないけど騒いで煩かったから、とりあえず軍医に差し出してきた」
「お前ね……」


とんでもない嘘吐きだ。じゃあさっきラスティが見た光景は何だったんだ。
いや、けれど、嘘ではないのかも知れない。実際ああいう場面でのキラの存在はアスランの心を騒がせるのだろうから、それはそれで真実なのかも知れない。
(自力で)浮上しかけた心が、ふたたびささくれ立つのを感じた。ざわりと、良くない波風が立つ。
ああ、これはほんとうに良くない。できればアスラン本人を傷つける前に消え去って欲しいと、どこか他人事のように考える。これではまるで傷跡を残すことを望んでいるかのようだ。己の証を。このいとおしい存在に。


「それ、で……」


擡げた危険因子をむりやり押さえつけて(それは実際に喉と胸の間を手で押さえるという行動にまで至った)、話題を逸らす。ついでに、視線も。アスランはいつもは合わせようとしない視線を、ラスティの様子が奇妙しいと悟ったからか、真っ直ぐ据えてきていた。


「何だよ?」
「それで……自分は逃げ出してきたのか? その状況だとアスランも怒られそうな気がするけど」
「俺は任務で疲れたんだ。キラの相手をする元気はない」
「まぁ……判んなくは、ないけど」


キラはきっとアスランが落ち着いたら、自分がどれだけ心配したのかという演説と無理をするなという説教を始めるだろう。そういう性格だ。もしかしたらラスティが去った後すぐにでもそんなことになったのかも知れないなと、漸く余裕の出てきた思考でそんなことを思う。
笑みを漏らしてアスランを見下ろすと、彼は憮然とした表情でラスティを横目で見ていた。思わずえ、と固まる。


「ラスティは戻ってきてくれないし」
「は、」
「そしたら一緒に食堂寄ってから部屋帰ろうと思ってたのに」
「わ、悪い。そういや任務前から食ってなかったな」


あまりに不意打ちの可愛い科白に、いつものポジションを忘れて思わずどきまぎしてしまう。けれどそんなラスティにも構わず、アスランは変わらずにじとりと(多分に演技の含まれた)睨むような眼つきでラスティを見上げてきていた。


「良いよ。よく考えたらお腹も減ってないし」
「や、いやいや、ダメだ。食えないにしても何か分けてもらって……」
「良いって。それより早く横になりたい」


視線を逸らして、ふ、と疲れたように吐き出されたため息に、そう云えば、と。
そう云えば、アスランもあまり良い精神状態ではないはずなんだと今になって漸く思い至る。そうか。さっきかららしくないことを云っているのはそれでか。


「……医務室でそのまま寝てれば良かったじゃん」
「落ち着かないだろ、あそこじゃ。それより部屋でラスティと居た方がよっぽど落ち着く」
「は……?」

「なんだよ、俺じゃ不満か?」


拗ねたような上目遣い。けれどどこかで、不安そうな気配も過る。
あああもうほんとうに。……これで落ちない、わけがない。
始めから別にアスランに対して怒っているわけではなかったが、何故か赦してやらなきゃいけない気になってしまうのだから、この破壊力は凄まじい。


「……そんな、滅相も無い」
「なら良いんだ。ラスティも疲れただろ? 俺、あんなだったし」


さっきまでの顰め面を緩めて、悪いなと呟く。生温い笑みだ。何一つ解決などしてないのだとひとめで判る。
自分の気持ちを押し殺してキラ療法で落ち着かせたと思ってたけれど、それだけではダメだったのだと今になって気付いた。


「いや……俺も俺で、余裕なかったから」
「ラスティが?」


ことん、と傾げた首に、再び期待と共に湧き起こるどうしようもない慈しむ気持ちが。溢れそうでもう押さえきれなかったから。


「俺も、不安だったんだ」
「何が……?」
「さぁ。アスランが俺の方見てくれなかったからかも」


せめてものプライドで、こちらの顔が見えないように、大事な存在ごと抱えるようにして抱きしめた。


「ラスティ……?」
「もーアレだな。このまま一緒に寝るか」
「……狭いだろ」
「人肌は落ち着くんだぜー?」


即答で拒絶の言葉が出なかったというただそれだけで満足して、部屋に引っ張り込む。そう云えば部屋にも入らず何してたんだろう、俺たち……と思わないでもなかったが、とりあえず遠くの影からこっちを見守る目下の敵に見せ付けてやれたから良しとする。
当分、波風は立たずに済みそうだ。てかそんな気になるならいつもみたいに邪魔しにくれば良いのに。そんなことを思ってすぐ、まるでそれはさっき医務室から逃げ帰ってきた自分じゃないかとラスティは思った。
そうか、皆不安なんだと漸く気付く。
だからアスランのこの存在が貴重で、大切で、守ってやりたくて、けれどその本人はそんなことにも気付かずひとりで駆けて行く。


(そのままで良い……ような、この腕の中に抑えつけておきたいような)


どちらにせよ、危なっかしい存在であることに変わりは無い。だから今日もまた、様々な葛藤を押さえつけて諦めるしかないのだ、このいとおしい存在を。ただ今日は、その身体を腕に抱いて眠ることができるけれど。


(……あれ? 結局俺が一番役得?)


そう云えばアスラン連れてあいつらのとこ戻らなきゃ行けないような気もしてたけど、まぁ良いか。折角独占できるチャンスだ。
総てはアスランと同部屋を勝ち取った己の強運にかかっているような気もしてきたが、ならば利用しまくってやるまでだ。
そしてきっといつか幼馴染さえ差をつけてやる。
とか強気なことを云っておきながら、いざアスランを自分のベッドに引っ張り込むとドキドキする自分の心臓に笑う。そしてなんとも思って無さそうなアスランにも(哀しさのあまり)笑う。
横になった瞬間寝息を立てたアスランに苦笑しつつも、これで己が背中でも撫でたらこの眉間の皺は取れるんだろうかと、そんなことを思いつつも怖くてできない。
でもきっといつか、と。キラの言葉で落ちて行ったアスランの肩を思い出しながら、ラスティも眠りに落ちて行った。