だれかを救いたいお姫様の話
He is at prayer.
コッペリアがうたったアリア
 
Back.









此処からは、四角く切り取られた空しか見えない。





俺はその明るさで、一日というものの経過を知る。
そして、扉の下の隙間から差し出される一日二度のパンとミルクで、正確な時間を知る。
それから、週に一度の朝、食事に追加されるひとかけらのチョコレートで、何日経ったのかを知る。




















朝七時きっかり。時計代わりに届けられた今朝の食事はクロワッサン一個に、デニッシュが一個。温められたミルクからは蜂蜜の甘やかな薫りが漂ってくる。今日は安息日らしく、チョコレートがひとかけら添えられていた。其れらは鈍色のトレイに載せられ、数センチほどしかない扉の下の隙間から鉄の棒で押されて差し入れられる。其処に人間的な温かみは一切感じられない。鉄の棒の先だけが“外”からの闖入者であって、扉の向こうはいつも真っ暗で影も見えない。だから俺にトレイを差し出す人物があいつかどうか、知る術はない。けれど俺はあいつに違いないと信じきっていて、食事を与えられる間、瞳を閉じ祈りのような体勢であいつの気配や息遣いを想った。




















俺は四方をコンクリートに埋められたこの部屋から動くことはない。だから、正直お腹もあまり空かない。けれど食事は欠かさず届けられる。俺は仕方なく、部屋の隅に食事の載ったままのトレイを山積みにする。それでもトレイのストックは尽きないのか、回収しにくる気配もなく食事は変わらず届けられる。やっぱり、俺は其れらを適当に積み上げる。水分だけは摂ろうと思うのだけれど、どうも甘ったるいミルクだけでは喉の渇きを潤してはくれず、マグカップのピラミッドが幾つか出来上がった。いつからか其の辺りから饐えたような匂いが漂うようになったけれど、俺は気にしなかった。
だってどうせ、この世界に俺は一人だ。
いつも、いつまで経っても、俺は一人だ。




















其れは何度目のチョコレートの日だっただろう。チョコレートは安息日を示す、七日間に一度のものだけれど、俺は其れをあいつからのご褒美だと受取っていた。一週間、孤独を生き延びたことへの、あいつなりの労わりだ。だから俺はチョコレートだけは残さず喰べる。
其の日、俺は七日ぶりのチョコレートの感触を味わいすぎて、一週間分の想いの結晶は指の中で形を喪いかけてしまっていた。其の日はとても暑かったから、余計に手はチョコレートでべたべたした。慌てて口の中へ放り込んで、ほんのりした甘味と僅かな苦味を舌の先で転がしながら、俺は茶色に彩られた指先を、小さな正方形の空の光に当てて見つめていた。
其の指についたチョコレートでさえも惜しく見えて、舐めようかと考え、其処で初めて、俺は俺自身を汚いと感じた。汚い。俺は汚い。こんなところでずっとひとりで、することと云えば空を見上げることと食事を待つことくらいで、汚れの出入り口など、あの空と、反対側にある扉の隙間くらいしかないけれど、俺はとても汚い。すくなくとも、自分の指を舐めることを躊躇うくらいには、汚れている
あの空は清浄だろうかと疑いを擡げかけた瞬間、明るく光を放っていたはずの空にふと翳りが差した気がして、俺は指先を見つめたままだった顔を上げた。其処に人の姿のようなものを見た気がして―――けれど、それはすぐに元の空に戻った。
一瞬、見たこともない明るい色が、空の端で瞬いた気がしたのだけれど、幻覚でも見たのだろうか。
けれど、俺はそんなにたくさんの色を知らないから、きっと間違いではないのだと思う。


「“外”の、欠片かな……?」


久々に出した声は自分でも驚くほど掠れていて吃驚した。
あれは、俺が焦がれてやまない“外”のなにかだろうか。其れとも、綺麗な空への猜疑心を持った俺に対する、なにものかの 報復 だろうか。




















――なぁ、アレは何だ?
――アレ?
――あの四角い、色の違うところだ
――ああ、アレ? アレは空だよ
――そら?
――うん、あそこだけ空気の入れ換え用に穴を開けてあるんだ。間違っても這い登って出ようとか考えないでよ? いくらきみでも、あの小ささでは通り抜けできない
――そんなことは思ってない。ただ、綺麗だなって
――……ふぅん?
――アレは、“外”にあるものか?
――そうだよ。外には、アレよりもっと大きい空が拡がっているんだ
――大きい? どれくらい?
――其れを説明することは流石のぼくでも難しいかな。きっときみに想像しきることは出来ないと思う
――そうか……でも、綺麗だ。あれはなんという色なんだ?
――色? そうだなぁ……青だったり、水色だったり……色々名付けることが出来るから……
――あのいろがあお、か
――うん、時間や天気に拠って、色も紺色だったり灰色だったり変化するよ
――……紺……俺の、髪の色?
――ああ、そうだね。きみと同じ色だ。特に夜明けの時間、あの空はきみの髪と同じ色に染まるだろう
――そうか……それは是非、見てみたいな……
――見られるよ、いつでも、あの切り取られた空から

きみは此処に、ずっと居るんだから。




















また、次のチョコレートの日にあの色が空の片端に現れた。今度は一瞬だけではなく、ゆらゆら揺れながらずっと其処に在る。ほら、やっぱり気の所為なんかじゃなかった。其れは青を背後に明るさを放っていて、とても綺麗だ。けれど、俺はその色をなんと呼べば良いのか判らなくて、残念だと思った。あいつは、何にでも名をつけて呼ぶことが好きだから。俺も、そんなあいつの性質が移ってしまったのだろうか、とにかく其の名を知りたいと思った。いつも与えられるパンみたいな色だな、と思う。パンとチョコレートは濃さが違うけれど茶色。ミルクは白。俺の髪の色は、服の色は。壁の色は。空は。色に関する俺の総ての知識の中に、あの色は見当たらない。残念だ。
そのうち、その明るい色はひょこ、と上へ飛び出でて、其の下から唐突に人の顔が現れた。


「お? やっぱりー」


へら、と笑う。逆行で良く見えなかったけれど、其れは初めて見る、あいつ以外の人間だった。


「閉鎖された塔に、此処だけ穴があんのがずっと気になってたんだよな。この前試しにジャンプして覗き込んでみたら、人の姿が見えた気がしたんだ」


俺は、手で壁の切れ端を掴んで空に釣り下がっているらしい其の人物を呆然と見上げた。


「けど連れに見つかっちまってさ。あんときゃあそこで引き下がるしかなかったんだな。だけどずっと気になってた。だから、もう一回来てみたんだ。……やっぱり、居た」
べらべらと捲し立てる、その言葉を理解することだけでも僕には到底困難なことだった。何せ、言語能力なんていうものは、元より乏しい上にひとりで居るうちにとっくに退化してしまっている。


「俺はラスティ。お前は?」


驚いたままの俺に何かを悟ったのか、その明るい色の持ち主は、今度はゆっくりと、俺の瞳をしかと見据えながら囁いた。
……ああ其れなら判る。きみは、ラスティっていう名前なんだね。それで、俺の名前を聞いているんだね。そう云えばあいつは、初めて会った人とは自己紹介をしろと云っていた。ならば俺も名乗らなくてはならない。きみはラスティ。俺は――


「……アスラン」


どうせ斯の中でひとり朽ち果てるのだから必要はないだろうとぼやきながら、それでも、あいつは何にでも名をつけて呼ぶことが好きなんだ。名をつけることで、そのものを支配した気分に浸ることが、好きなんだ。




















また次の安息日にも、ラスティは俺の空を遮って訪れた。


「……ラスティ、」
「あ、覚えててくれたんだ?」
「覚えるものなんて他にないから」
「そりゃ嬉しい」


ラスティはへらりと笑って、アスラン、と言葉を紡いだ。


「え?」
「え、って。お前はアスラン、だろ?」
「でも、ラスティの世界は広い」


その背後には、俺には想像つかないくらいの空が拡がっているのだろう?
なのに、俺の名前を覚えられるのか。


「うん、広いな。でも俺はね、こういうことは絶対に忘れねぇの」


そうなのか、と呟いた俺に、ラスティが妙に真剣にそうなんです、と応えた。
俺はその後何を云えば良いのか判らなくて、押し黙った。ラスティはそんな俺を楽しそうに見ている。


「なぁアスラン、お前は此処で何してんの?」


数秒、首を傾げて逡巡。瞬きを二度。一度唾を飲み込んで、喉の状態確かめてから、ゆっくりと声にする。


「生きてるんだ」


だって、他に答えようも無い。そんな俺に、ラスティは目を細めて哀しそうに微笑んだ。


「そっか」
「ああ」


毅然と答えたつもりの俺に、ラスティはそこで初めて視線を逸らした。けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐに俺に向き直る。


「俺も、生きてるんだ」
「そうか」
「うん」


けれどラスティ、君と俺では、生きている場所も意味も価値も違う。
君はたくさんのものから祝福を受け、その笑顔で、たくさんのひとを魅了するのだろう。
―――だけど俺は


「なぁ、アスラン」
「何だ?」
「お前、こんなところで寂しくねぇの?」
「寂しい?」
「うん」
「知らないな……そんな言葉は知らない」
「え……」


だけど俺は、ここに生きることがその存在意味であり、存在価値であり、祝福も受けず、笑ったこともなく。


「寂しいなんて……そんな言葉は、俺のために用意されたものではない」


それでもたったひとりを救うことができるから、そのために俺はここで生きている。
ラスティはもういちど、哀しそうに微笑んだ。