見上げた限りの空の中にぽつんとひとつ、白い雲。
それは流れるように掠れるように長く伸びて、彼の目の色を溶かしたような空と混ざり合っていた。
穹
昨晩珍しく本宅へと戻った父を出迎えて後、大きな爆弾を落とされたアスランは、未だ時限装置の発火してないその爆弾を抱え込んだまま邸をうろうろしていた。
その張本人であるパトリックはと云えば、夫人を連れて何処へか出かけてしまったし、ひとり邸に残されたアスランとしてはどうすれば良いんですか云い逃げですか!
という心境だった。
つまりは、云い渡されたその事態に落ち着き無くそわそわしているわけで。しかしそんなアスランの様子は世話係である邸付きの執事に咎められることもなく、寧ろ微笑ましいものとして見守られていた。
「どッ、どうしよう。部屋……テーブルのセットはもう済んでるんだよなッ!? ええとじゃあ、お出しするもの……ああ、お菓子でも焼いておけば良かった……!」
今からじゃ絶対間に合わない間に合うわけない寧ろ俺お菓子なんてひとりでつくったことないし!
喚くアスランがいちいち執事に問い掛けるも、彼は「さっき確かめたばかりじゃありませんか」「お菓子なら午前中の内に買いに行かせましたよ」「お茶の準備もしてあるでしょう」と冷静にあっさり答えを返すばかりで、その思わず「いや、すこしは急げよ!」とつっこみたくなるほどの落ち着きように何故かアスランは余計焦燥感をかきたてられてしまって、もうパニック寸前だった。
「今何時……わッ、もうすぐじゃないか!」
「準備はもうできているじゃないですか」
「ええとでも、えっと、何か忘れてる気が……」
「大丈夫です。もし何かあっても私が対応しますから」
「そ、そうか」
「はい」
「「…………」」
云うべきことは判っていた。執事も執事で、云われるんじゃないかな、とは思っていた。
ただ振り返るのも口に出すのも、既に今のこの状況がひたすらに恥ずかしいだけで。それでもこのまま黙っていても刻は残酷にも無意味に過ぎ行くばかりなのだから、アスランは決死の覚悟で口を開いた。
「あ、あの……服……」
「は、」
「この服、その……変、じゃないか? ホンットーのホンットーに、コレで良いのか?」
「何を仰いますか!」
「うわ!?」
それまで憎たらしいほど落ち着き払っていたはずの執事が急に激したので、アスランは思わず慄いた。拳を突き上げて弁を振う姿など、初めてみた気がする。
そもそもこの執事は邸付きということで主人一家の情報に精通してはいるが、非常に良い仕事をすると云うべきか、メイドはまるで妖精のように主人の気付かぬところで仕事を終わらせるものだと信念を持っているようで、あまりプライベートに関することは云い出ししない。
父が意見を求めた上でならば控えめながらに返事はするものの、邸の維持以外の、ましてやアスランのことに関してはノータッチ、のはずだった。
それが、今や。
「私は常々思っておりましたとも! お嬢様は折角奥様に似てらっしゃるのに、服はいつもまるで男装。乗馬が趣味なのは嗜みのひとつとしてまあ良しとしましょう。しかしですね、乗馬の予定の無い日まで乗馬服のような格好ばかりとは何事ですが嘆かわしい! ザラ家の令嬢として本来なら普段からドレスですとか、今のような格好をするのが当然なんですよ。普段から着慣れておかないと、いざというとき襤褸が出るものです。お嬢様はそりゃあ他のどのご令嬢にも引けは取らないと思っておりますけどもね、そういうところだけはクライン家のラクス様を見習って欲しいものです」
そりゃあ、あんな風にふわふわキラキラの女の子オンナノコした外見なら、きっとアスランだって周りが望む通りの格好をして、ラクスのように微笑んでいられたにちがいない。
ぶう、と頬を膨らましたアスランを余所に、執事はすっかりオーバーヒートしていた。
「大体普段からおしとやかにしておりましたら、今日こんなに慌てなくて済むんですよ。いつも通りのことをやれば良いだけのことでしょう? それをお嬢様は……外を走り回っては服を汚して……そうそう、この前は四阿に行かれたと聞きましたので、薔薇の咲き誇る庭園で優雅に本でも読みながらティータイムを嗜んでおられるのだと信じて疑いませんでしたのに、お茶のお代わりをと窺ってみましたら、あの趣向を凝らした四阿の中でストレッチとは! そんなご令嬢聞いたことありません! 部屋の中で大人しくしてるのかと思ったら工学書を読み漁るか機械弄り。私はもう、旦那様と奥様が不憫で不憫で……」
「な、何でそれで父上と母上が不憫になるんだよ」
「それ! その言葉遣いもです!」
「うっ……」
アスランだってザラ家のひとり娘だ。きちんとした教育は受けているし、決してマナーが悪いわけではない。そういう、けじめみたいなものも身についている、と信じている。だから普段くらい、気を抜いてあるがまましたいがままに過ごしていたって良いじゃないか。
アスランの声にならない訴えは、なかなかこの昔ながらの偏屈頑固じじいには通じなかった。
しゅん、と大人しくなったアスランのその心境をどう受け取ったのかは謎にしろ、執事はさすがに云い過ぎたと思ったらしい。碇上げていた肩を落とし、声のトーンを落とし、普段の穏やかな声でアスランへ優しげな目を向けた。
「―――大丈夫、アスラン様は充分可愛らしいですよ。旦那様や奥様が蝶よ花よと大事に育ててこられたのです。それが正反対のベクトルへ向かってしまったのが残念なところではありますが。アスラン様だって一端のご令嬢なのですから! 黙っていれば他のどんな方も適わない深窓のお嬢様です! 大丈夫です!」
「……けなしてないか?」
「どこがですか。猫を被るつもりはなくても土壇場ではすっかり借りてきた猫のように大人しくなって……緊張している所為とは云え、取り繕うのがお上手だと誉めているのですよ?」
「やっぱりけなしてるじゃないか!」
「だから落ち着いてください。もうじきイザーク様がいらしてしまいます」
「そ、そうだよな……ですわね」
「……しっかりして、くださいね」
「う、ええ」
大丈夫かという視線をひしひしと感じながら、アスランはそっと視線を下へ向けて自分の格好を顧みた。
ノースリーブの白いワンピースに、アスランの瞳を薄くしたような若草色のストール。ワンピースのデザインはあまり装飾はなく白一色で、胸下部分に切り返しと、膝よりすこし短めに揃えられた裾だけ、レースとプリーツで飾りが施されている。薔薇の形を象った赤い小さな飾りのついた細いチョーカーをして、他に飾り物の類いは一切無し。
シンプルと云えばあまりにもシンプルな、しかし未だ嘗てないくらいに女の子らしい格好をしたアスランがそこにいた。ただし、鏡を見る勇気が無いので首から下だけ。だから髪や瞳の色と合っているのかいないのか判らないけれど、どうせ見たってアスランに判りはしないのだ。
「そうそう、今日の格好ですけどね」
「え、」
「それはもう――良く、お似合いですよ。お誕生日に旦那様が特別に誂えてくださったものでしょう? さすが、お嬢様に似合う服を判っていらっしゃる。もちろん、奥様の助言もあったのでしょうけれど」
「そうなのかな……」
「いつも女の子らしい格好を、とは思っておりましたが、お嬢様は立っているだけで華のある方ですから、そういったシンプルな方が引き立ててくれるのでしょうね」
「……でも、ラクスみたいにはならない」
「お嬢様がラクス様のようになる必要はありませんよ。ラクス様には無いものをお嬢様はお持ちですから」
「ラクスに無いもの?」
あんな完璧なほどに可愛いのに? と首を傾げるアスランの様子に、執事は皺の下でくすりと笑った。
「ええ。ですがそれをお教えしてしまっては、向上心がなくなってしまいますから止めておきましょう」
「何だよ、それ」
「自分は可愛いと信じきっているよりも、どうすれば可愛くなるのか悩んでいる方がずっと可愛くなるし、魅力的なんです。ラクス様だって、きっとそうなんですよ。ただおふたりはタイプがちがいますから、目指すものもまたちがってくるんでしょうね」
「それはそうかもしれないけど……」
また、服を見る。服だけ見れば、確かに可愛かった。
父上からのプレゼントなだけあって布も縫製も上質だし、デザインも洗練されている。ラクスは着ないタイプの服だとは思うけれど、この服がショーウィンドウに飾られていたら、きっと自分は見惚れてそこから動かなくなってしまっていたことだろう。そういう、可愛いものに憧れる気持ちは持っている。そこだけが唯一、アスランの中で女の子らしいところを云っても良い。
だけど普段パンツルックとか、男装に近い服ばかり着てるアスランのことだから、本当に似合っているのかどうかについては全く自信がなかった。髪だって短いし、痩せていてふわふわしてないし、スカートなんて前着たときを覚えていないくらい久しぶりだからスースーするし……
何でこんなにラクスと比べてばかりなのか、理由は判っている。
ラクスは唯一身近に居る同年代の女の子だし、何度か会って仲良くしてもらってるし、何より―――
「そんなに気になるなら、いつものような格好でお出迎えになりますか?」
「いッ……厭、だ!」
「そうでしょう?」
くすくすとまるで微笑ましいと笑う執事の横で、しかしアスランは真剣だった。
普段の自分が女の子らしくないなんて、そのくらいの自覚はある。だからこその悩みなのだ。別に普段そうやって過ごしていることについては、好きにやっていることなので気にしてはいないけれど、今日みたいな日に限ってはちょっと後悔してしまう。自分はラクスみたいに可愛くなくて、でも相手の方は一度ラクスとの話もあった方で……だってそんな、そんなの、幻滅されるかも知れないのに―――
「私は、寧ろ普段の格好よりもしっくりくるように思いますけどねぇ……」
「そう云われると複雑なわけだが……」
「ですが、お嬢様が思い描く通りの女性像を、必ずしも殿方が理想像として描いているとは限りませんよ」
「え? それはどういう……」
「好みは人それぞれということです」
「イザーク…………さま、も?」
「――――その間は一体なんだ」
突如として割り込んできた低めの声に、アスランはうえっ!? と振り向いた。執事の嗄れたのとは全くちがう、真っ直ぐに伸びたような声の持ち主は、思ったよりもアスランたちの近くに居た。
一体いつの間に、ああちゃんとお出迎えすべきなのに、という問いはぐるぐると頭を駆け巡ったものの、そういった過ちによる謝罪は彼の前に総て無力だと思わせるほどの、何か絶対的なものが漂っている。
眩しくて目を細めてしまうほどの真っ直ぐな銀髪、と、それから―――
「そら……」
「は?」
「い、いえ! なんでも!」
そうか? と首を傾げたのと同じ角度で、すっと伸びた鼻筋が傾く。同時に、白い壁に溶け込んで輪郭を掴めない髪がサラリと揺れた。
「あ、あの……」
「ん? ああ、すまない。本日パトリック様より招待を受けた、イザーク・ジュールだ」
「アっ……」
ぺこりと優雅な動作で流暢にお辞儀をした彼に慌てて倣おうとして、アスランははたと我にかえった。
そうだ、襤褸は出さないようにすれば良い、らしい。
口煩く云われたものの、幼き頃からのアスランを知る執事の助言は貴重だ。月に居た頃は除くが、だからこそのギャップに彼は憤りを感じているのだろう。そこは嘆く気持ちは判る。本人が云うことではないが。
「アスラン・ザラです。お忙しい中わざわざご足労くださって」
「ああ、それ以上は良い」
「は?」
中途半端な角度に傾けたままの上半身で、アスランは上目遣いに片手で制したイザークを見上げた。
「気づかいは無用だ。もっと崩してくれて良い」
「ええと……?」
「全部、聞いていたからな」
「え?」
そろそろと固めていたままの上半身を上げ背筋を張った体制で、イザークの瞳を見上げる。そう離れてはいなかったが、その所為か空を宿した瞳の威力は凄まじかった。
そうだ、疑いも濁りも微塵も無いこの瞳は、総てを物語っている。そう総て―――
「えええええ!?」
「ここまで通されたのは良いが、そこにいる執事にそのままと合図を送られたので、面白そうだったしそのまま」
「ど、どの辺、からッ……」
「ああ、四阿でストレッチの辺りから」
「ほ、ほとんどか!」
「でも声が大きかったので最初のお菓子がどうの辺りから話は聞こえて、」
「全部じゃないか!」
「だから全部聞いていたと、」
「うあ、あああああ……」
がくりと項垂れて、終わりだ……とぶつぶつ呟くアスランの背後で、執事がぴしりと居住まいを正してイザークに向き直っていた。
「大変なご無礼を致しました、イザーク様。きちんとご案内もせずに……」
「いや、先ほども云ったが、面白かったから良い」
「そう云っていただけますと……。懐の広いお方で私も安心でございま」
「な、なごんでる場合か!」
ほぼ涙目でアスランは訴えたが、執事もイザークもしれっとしている。(イザークに対して)その冷静さに驚くほどに。(執事に対して)その図太さに呆れ返るほどに。
「お言葉ですがお嬢様」
「……なんだよ」
「第一印象が大切だと良く云われはしますが、貴方がたは夫婦になる身なのです」
「そッ、そそそそそれがなんだよ」
「隠し事はいけませんし、お嬢様のことですから必ず近いうちに襤褸が出るでしょう」
「うっ……」
「それで失望されるよりは、今のうちからあるがままの姿をお見せすべきかと思いまして」
「うー……」
「それがお嬢様のためになるかと」
「……いつから企んでたんだ……」
「途中で、イザーク様がいらっしゃったと報告を受けてからです」
しれっと。
答えるその表情には、罪悪感など微塵も無い。
そもそもいつその報告を受けたんだよ、という問いをするには、アスランはもう疲れ果ててしまった。
「差し出がましい真似をしまして……」
等と今更殊勝そうに頭を下げられても、どうしたら良いものか。確かに一理はあると頷いてしまった手前これ以上怒れないし、でも主人(正確には父だが)に対する態度としてはどうなんだ、と思うと素直に許すこともできない。
悩み込んでしまったアスランの横で、
「いえ、大変可愛らしい方だと判って、私もほっとしました」
などと堂々とイザークが云うものだから、もう頭はパンク状態、これ以上何も考えられない。
「そうでしょう、そうでございましょう!」
「ええ、正直云うと不安はあったのですが……吹っ飛びました。アスラン様とは、話が合いそうで嬉しいです」
オーバーヒートする頭に合わせて顔は真っ赤に染まったが、生き生きしたイザークは思い描いていたよりもまるで王子様のようで、今まで王子様なんて憧れたこともないくせにうっかりうっとりしてしまった。
そして執事から逸らしてちらりとこちらに向けられる怜悧な視線に、
「どうぞ、アスランとお呼びください……」
やっぱり相応しいようにならなくてはと、思わず猫を被ってそれだけ云うのがやっとだった。