自分がロマンチストなどではないことはもちろん自覚済みだったし、どちらかと云うとリアリストだとさえ思っていた。
だけど―――だけど。
これではあまりにもムードが無さすぎる、と思わずがっくりきてしまったのは。
たぶん、無意識下で期待していたわけでもなんでもなくて、ただ、あまりにも有り得ない光景に、頭が一瞬にしてお花畑へ飛んでしまった所為なのだろう。―――と、思いたい。
駆け抜けて、
底無し沼
「えええええええと、ルルルルルルルルーシュ……?」
「違うな。俺はそこまで舌を噛みそうな名前ではない」
あ、噛みそうな名前って本人も思ってたんだ。でも可愛いと思うんだけどな、ルルーシュって響き。
一瞬にしてフリーズしたスザクの思考は大分長い時間をかけて漸く動き出したが、元に戻るわけではなく、本題から遠く掛け離れた場所に飛んでいた。
そう云えば非常に今更だけど、ルルーシュという名前は誰が付けたんだろうとそんなことまで考える。やはりマリアンヌ皇后……いや、でもC.C.曰くシャルル前々皇帝はルルーシュとナナリーを彼なりに可愛がっていたらしいので、まさかシャルルなのだろうか。だとしたらちょっとした破壊力だ。
シャルルとルルーシュ。
今更気付いたが、ルル≠フ部分が被っている。
もしや、自分の名前の一部を継がせたいとかいうアレだろうか。自分で云っておいて何だが、アレって何だ。親のエゴ……それは夢がないので何か違う。ならば愛情、……愛情?
「……ルルーシュって愛情の権化なのかな」
「良い加減頭に虫でも湧いたか。可哀想にな」
「そこまで哀れんだ瞳をしなくても!」
蒸れるしな、と見当違いなことを云ってルルーシュが撫でてくれた髪は、けれど確かに少し湿り気を帯びていたかも知れない。
それでもルルーシュの手はそれを厭うことなどなく、優しげに、遥かな慈愛でもってスザクの、湿気の所為でいつもより跳躍感を失った髪に触れている。
そこには確かに穏やかな温度が通っていて、それはただひたすらに優しくて、もう何がなんだか判らなくて、整理しきれなかった感情は涙となって溢れ出た。
「なッ……お前、そんなショックを受けなくても……! その、ああアレだ、俺が悪かった。その仮面が蒸れることくらい、俺が一番良く知ってるはずなのに」
「ちが……!」
まさか、いくら涙もろいスザクでもそんな情けないことで泣くはずがない。
だけどルルーシュもいろいろなことを誤摩化すために、敢えてそうして恍けているのかとも思ったが彼の瞳はどこまでも真実スザクを気遣うものだった。
……ルルーシュはこんなにも話の通じない相手だっただろうか。
スザクには判らない。
覚えていないんじゃなくて、突然の出来事に何も考えられないわけでもなくて、本当にこんなルルーシュは知らなかった。
だけど別人だとは思わない。……思えない。思いたくない。
細く長く冷たい指先が自分の髪に触れるときの、こちらが心配になってしまうほどの不安定さと不釣り合いな温かさは、スザクにしか判らない彼の真実だ。触れた指にどきりとして、そのあまりの力弱さと細さに不安になって、だけどすべてを包み込むような優しさを称える、こんな指を彼以外の人間が持てるわけがない。
……そう。この指を持つひとが、ルルーシュ以外のわけがない。
だけど同時に、ルルーシュがこんなところに居るはずがない。
だって彼は、―――――――なのに。
「……ルルーシュ?」
「ああ」
今度は頷いてくれた。きっとルの数が合っていたからだ。
だからきっと今スザクの目の前にいるルルーシュは確かにルルーシュだ。それで良い、とスザクも頷いた。そっか、とただそれだけをつぶやいて閉じた視界に、頭の上の仄かな掌の体温だけがスザクに現実を教える。
もう、それ以上の真実なんていらなかった。
だってあんなに焦がれて、でもただ願うだけだったルルーシュが今目の前に居るのだから。
「ねぇルルーシュ」
「ああ」
「ずっとそうしてて、厭きない?」
「ああ」
ルルーシュはずっとスザクの髪を撫でている。
根元をがしがしと逆立てては、優しくふわりと髪の先に触れてセットし直すその動きは、強弱は絶え間ないのにどこか不自然なほど一定だ。
「返事をしてくれるのは嬉しいけど、ああとしか云ってくれてないね」
「ああ」
やっぱり同じ返事しかしない。
もしかしてルルーシュの姿と声をしただけの何かかと一瞬穿ってしまったが、この意地悪さは間違いなくルルーシュだと確信した。スザクが疑っても、温もりは確かにまだ残っている。そうだこれは、夢じゃない。
「……ホントにルルーシュだ」
「そうだとも」
どこで判断してるんだお前は、などという憎まれ口だってもうどうでも良い。
それよりは漸くちがうことを話し出してくれた唇に、相変わらずの怜悧さと優しさが奇妙に同居する瞳に、胸がいっぱいになる。
「なんだろう、話したいことがいっぱいあったはずなんだけどな」
「そうだろうな」
「……ルルーシュも?」
「もちろん」
だが時間がないんだ、と哀しそうに伏せられた瞼が、スザクに残酷な現実を伝える。
「……そっか。行かなきゃいけないの?」
「ああ」
「どうしても?」
「ああ」
「あとどれくらい、なのかな……」
「時間か? そうだな……粘ってあと十分、と云ったところか」
「それだけ!?」
それはあまりにも悲惨すぎる。でなければいっそ、姿を見せてくれないほうが良かったと思ってしまうほどに。
タイムリミットは、たったの十分。
それだけの間に、一体何を話せば良いのだろう。
謝罪も、恨みつらみも、感謝も、これほどの年月でふくれあがったそれら感情はそんな短い時間にサイズダウンできるわけがない。
だけど何も話さずこの指の感触だけを感じているだなんて、それはそれで勿体ない。
「……じゃあ、あと十分」
「ああ」
「せめてずっと、君を抱き締めていて良いかな」
結局のところ、自分こそロマンチストなのかも知れなかった。
せめてこの温もりを直にめいっぱい感じておきたい、だなんて。
ほんとうはそのままずっと閉じ込めておけたらいいと思っているくせに、それを見せない言葉でふんわりと包む。
声に出した頃にはすっかりその気になり、既に抱き締める形で、ルルーシュを受け入れられる体勢で拡げた腕に、しかし、ルルーシュからの返答は、
「そんなにずっと? それは、厭だな。却下だ」
―――あまりにも無慈悲すぎた。
「……なんで」
自分でも低いおどろおどろしい声が出たと思う。だがルルーシュはそんなのお構いなしだ。
「お前、腕の力強いだろ。苦しそうで怖い」
「そんな、優しくするから大丈夫だよ。確かにリンゴは素手で潰せるけど、ルルーシュ相手なら大丈夫」
「ひとこと余計だ。余計に厭になった」
「……そんなに厭?」
「厭だな。大体、俺たちはいつも久々に会ったところで、大した再会劇を繰り広げてきたわけじゃないだろう? 毎回まともに話もできなかったんだから。これで、十分じゃないのか」
この、つかず離れずで話をしている状態のほうが。
ルルーシュがそう望んでいるのは判った。だがスザクはそんなことでは納得できない。
いつもいつもその度に、ほんとうに伝えたいことをそこで踏みとどまってしまった所為で、真実欲しかったものを手に入れることができなかったから。
「……ルルーシュ、」
「―――ああ、ほら。そんな話をしているうちに、もう五分経過だ」
「嘘!?」
「本当。つまり、残された時間はあと五分だな」
「あの、じゃあ、せめて。質問を良いかな」
「先に云っておくが、答えられないことのほうが多いと思う」
「それでも良いよ。でも僕の疑問を、覚えていて欲しい」
「善処はしよう」
「うん……あのね」
タイムラグを全く感じさせないルルーシュの冷ややかな態度は、けれど今のスザクにとってはとても温かかった。
そこに感じる確かな懐かしさに、さいごにルルーシュと離ればなれになってから流れただけの刻のことを想う。
―――長かった。
たぶん、今までの人生でいちばん長かった。
生きることを捨ててゼロとしてただ息をしていただけだと思っていたけれど、確かにこの期間自分は生きていたのだ。ただこの存在だけを夢見て。この存在に、この温もりに、ふたたび見えることだけを夢見て、生きて、いた。
対極の状態にある相手を前に、それを強く感じる。
自分は、生きているのだ。ルルーシュとは対照的に。
この期間をルルーシュはどう過ごしていたのか、何故このタイミングで来てくれたのか。
いろいろと訊きたいことが駆け巡ったけれど、まず最初はこれだろうと口を開く。
「僕が、一番だよね?」
「何がだ?」
「会いにきたの。僕が一番最初だよね? って云うか、僕だけだよね?」
「そんなこともないが、ある意味そうかも知れない」
「…………」
「質問はそれだけか?」
「ううん。じゃあ、えっと。君は、ずっと見ててくれたの……?」
「お前がその方が嬉しいというのなら、そういうことで構わない」
「…………」
「質問タイム終了か?」
「……キレて良い?」
「俺は最初に云ったぞ。答えられないことのほうが多いと」
そうだ。確かに云われた。
ルルーシュはあくまでも自分の発言に忠実なだけで、別に間違ったことをしているわけじゃない。だが、だけど。
「〜〜〜そうじゃなくてさぁ!」
「ああ、何だ?」
「ここは素直に答えるんじゃなくて、話を合わせて頷いてくれれば良い場面じゃないか!」
「ふむ―――つまり?」
「だから、ただああ、そうだ≠ニか何とか肯定してくれるだけで良かったの! それだけで僕はこれからも頑張れたの!」
「質問を良いかと最初に訊いたのはお前だぞ、スザク? 俺は俺なりに返答しただけだ」
「そうだけど! そうなんだけど! 質問という名を借りたただの自己満足のやりとりと云えばそこまでだよ!」
「そうだったのか、それは済まない」
「そこで素直に謝られると僕もどうして良いか判んなくなるんだけど!」
叫びすぎて疲れた。
いつの間にか握っていた拳を確認し、だがここで下げるのも情けない気がするので更に強く握りしめる。
そんなスザクを見ても、ルルーシュは感情的になることはなくあくまでも凪いだ瞳で、静かに、続けた。
「だが俺は決めたんだ」
「何を!」
「口先だけの嘘はつかずに、素直に、生きると」
「それ、って……」
「そう、俺は―――」
息を、呑む。
生きるための名前からして嘘に塗れた人生を送ったルルーシュが、その生を終えてから決めたということ。一体その決意は、何に起因して、何に向かってなされたものなのだろう。
その先を待ち望んだスザクに、ルルーシュは一瞬だけふっ…と微笑み。
ゆっくりと、右腕を腰に当てた。
「―――ああ、時間だな」
「うっそぉ!?」
「今の俺は嘘をつかない」
遠回りな云い方だが、それがかえってルルーシュらしい。
だが時間だとは云いながら、それは本当の意味で差し迫っているわけではないらしく、ルルーシュはゆったりと頷いていた。
スザクのイメージでは、時間が来たら自然と消えてしまうのではと懸念していたので、その点には安心する。
だがこの猶予は、別れの挨拶のためでしかないのかと思うとそれも辛い。一体何を云えば良いのだか。
「ぜ、全ッ然、何も、話せなかった……」
「そうでもないさ」
「いや、あのさ……」
「訊きたいことがあると云うのなら、適当に纏めておけ。時間があるときなら、あとでちゃんと答えてやれる」
「……は? あとで?」
「ああ。……云っただろう?」
「何を?」
「素直に、生きるのだと」
「確かに云った、けど……」
「だからな。やっぱり、許せないと思うこともある。強がって俺の所為でもあると云ったところで、到底、清算しきれる量の感情じゃなかったんだ」
「それ、って……つまり、」
「―――そう。恐らく、お前の思う通りで相違ない」
スザクの思う通り。
―――つまり、スザクが今一瞬抱いてしまった禁断の期待の、通り……?
「え……え?」
「……そういうわけで、ちょっとしたお礼参りをしようと思うんだが、丁度今から向かえば良い感じに奴らをビビらせることができるんだ」
「……はぁ」
「だからちょっくら行って来る。アイツらには話すことなんかそれこそ何もないから、すぐに戻ってくる、と思う」
じゃ!と爽やかにしゅたっと手刀のように振りあげたルルーシュの指先から、何だろう、星のようなものが舞ったのが見えた。
「思うって」
「うっかり楽しくなってしまったら保証はできないからな」
「……ほどほどにしてあげてね」
「それは確信を持って云えるぞ、保証しないとな」
スザク自身感じていた彼らへの負の感情を思わず忘れて庇うような発言をしてしまったのは、ルルーシュがあまりにも愉しげに厭な笑みを浮かべていたからだ。
ゼロとして指示を出していたときさえ、きっとこんな顔はしていなかったと思う。今の彼からは、生前には感じたことのないうきうきという感情さえ見て取れる。
……いや、生前という云い方も今は間違っているのかもしれないが。
だが、それならば、今は。
「じゃあ、あの。……行って、らっしゃい」
スザクはいつの間にか力を喪っていた拳をそっと開いて、ルルーシュに向けてゆるゆると振った。
それに、ルルーシュはすこしだけいじわるそうな笑みで答える。
「―――ああ、行ってくる」
あっさりと向けられてしまったその背は、それでもいくらか寂しげに見えた。
正直、このまま消えてしまうのではという懸念もあるにはある。ルルーシュは煙に巻くのが何よりも得意だ。
けれど―――行ってきます≠ニいうその言葉。それこそ、いつだって遠回りのルルーシュがふたたび傍に戻ってきてくれるのだという、確約の言葉だったから。
あんなにも嘘つきだったルルーシュが決意したその意思、それを、今のスザクは全部受け入れて信じてみることにした。
ルルーシュが嘘をつかないという点で変わったというのなら、スザクもスザクで、何か変わらなければならない。何もせずただ時間を虚しさだけで過ごしていたわけではない。ルルーシュは判ってくれているだろうが、それでも彼に対して自分を良く見せたいという欲求くらいある。何より、今度こそ彼の前では誠実に、優しく在りたかったから。
そうまで考えて、未だに人間らしさの残っていた自分自身に驚愕する。そんな感情、とっくに捨てたか、あるいは無くしてしまったと思っていた。もう二度とこの心の震えることなどないのだろうと。この命を限りなく生きて、きっとその先に、果てるその瞬間だけルルーシュは逢いにきてくれるだろうと、そのときだけきっと自分はまた笑えるだろうなんて考えていた。
つまり、ロマンチストなのも優しく在りたいのも全てルルーシュありきのことだ。知らず、被り直したゼロの仮面の中で頬を緩める。
―――今頃、日本の首脳陣からは悲鳴が上がっているころだろうか。
戻ってきたルルーシュへ、それでもやっぱり抱きすくめてやろうと思いながら、スザクは前へと足を踏み出した。
だって、知っている。
抱きしめて良いかと訊いたときに一瞬だけ震えた肩を。
変わりたいと思っても、変えられないことだってある。やっぱり今でもルルーシュは嘘つきのままだ。
だから、今度こそ戻ってきたルルーシュに、良くやったねと頭を撫でて抱きしめてやるのだ。べつに仕返しのつもりはない。ただ、おあいこだと思ったから。
(僕だって、いや、僕の方こそ、ずっと嘘つきだったから)
もう憎しみしか湧かないだなんて、嘘だ。君が人間味の欠片もない魔物だなんて、嘘だ。感情を忘れただなんて、嘘だ。君を、この手で殺せるだなんて―――
(―――嘘でありたかったんだよ、ルルーシュ)