僕、枢木スザクは、むかし手酷く裏切られたことがある。
聞く人によってはなんだその程度のことで、と笑われるくらいのことかも知れないが、当時身も心も幼かった僕からしたらそれはもう、衝撃に過ぎる出来事だったのだ。
そう、僕はあのときまだ幼すぎた。だから、受け止めることができなかった。
ショックのあまり何をする気にもなれず、旺盛だった食欲はがくんと落ち、睡眠も浅くなってしまい、それまで元気すぎて困ると親どころか親戚連中にまで嘆かれていた僕が、真逆の意味で心配されてしまったくらい。
それくらいの裏切りに遭ったせいで、僕はそれ以来、心から信頼できる友人というものができなくなってしまった。
高校生にまで成長したいま、今更心から打ち解けた親友が欲しいだなんて青くさいことは思わないので、それで困っているということはないのだけれど。いまでも尚僕を苛む、過去のあのできごとさえなければ、僕はいまごろ何の憂いもなく、教室のすこし離れた場所で騒いでいる彼らのように、莫迦みたいに笑い合っていられたのだろうと思うと少々腹が立つ。あんなことさえなければきっと、友情の厚さなんて面倒なものについて考えることもなく、高校生という思春期の青春を謳歌すべく毎日愉しく過ごせていられただろうに。
僕にだって、だれかを恨んだり憎んだりして、ずっとその相手のことを考えて、そのせいでせっかくの貴重な時間をつぶしてしまうことはもったいないと思うくらいの感覚はある。
それでも、あれは―――本当に、赦せないできごとだったのだ。
数年経ったいまでも時折悪夢のように思い出しては、胸が灼けるような錯覚を憶えて、知らず立ち止まってしまうくらいには。
mew
学期末考査が近いため珍しく部活が休みとなり、スザクはおとなしく家路につくことにした。
途中、参考書を見に本屋にだけ寄り道をしたが、いつもよりもずっと早い時間にスザクが家に帰り着くと、珍しく家の中が何やらばたばたと慌ただしい。
木造のわりに無駄に重厚感のある玄関の引き戸を開ける前から様子が感じ取れるほどそれは顕著な騒ぎで、普段は足音さえもひそめる使用人たちが、またずいぶんと落ち着きをなくしているようだ。
一体どうしたのだろうか。
スザクの帰りがいつもより早いことは、あまり関係ないだろうと思う。使用人たちは、仮令雇い主である一家の者が居なくても常に冷静に、ひっそりと静かに仕事をしている。それが、いまは本当にいつもと同じひとたちが中に居るのかと疑うほどの騒ぎだ。
ただ雰囲気が特に緊迫したものではないと、武道で鍛えられたスザクの勘がそう云っている。つまり、事件などではないだろうと判断できる。
それなら、そう心配するようなことではないのかも知れない。
しかし、スザクは普段、使用人の多い家でいちいち人の気配なんか気にしているとキリがないし、神経質になってしまいそうなので、基本的に使用人の動きなど無視しているのだが、さすがにこれは気になる。スザクと直接対面する機会の多い古参のお局あたりの、聞きやすい人が捕まれば良いんだけど……などと思いながら玄関をくぐると、ふと俯いていた頭上に影を感じた。
え、と意表をつかれた気分で、ふい…と顔を上げると。
なんと三和土で仁王立ちにスザクを待ち受ける、父ゲンブの姿があった。
「…え。父、さん…?」
驚きすぎて、一瞬声が喉に詰まった。
おなじ年頃の壮年男性と比べるとわりとガタイの良いほうではあるが、それだけではない迫力を帯びるひとに、目の前で、しかも上から見下ろされるようにドンッと構えられると、スザクと云えどつい腰が引ける。
父親とは云え毎日会っているわけでもないし、見慣れていないから余計だろうか。むしろ直接会うよりも、息子のスザクでさえメディア越しでしかほとんど見ないような姿がいま、ここに、正にスザクの目の前に在る。
その非現実感に、頭がくらくらした。
「今日は早かったな」
何故僕が早いことを知って……と思いかけて、ああ、と合点が行った。
ただの挨拶、社交辞令のようなものだ。
普段会話の少ない親子同士、会話の取っ掛かりでさえ迷うようなありさまだから。
スザクがこの玄関よりずっと向こう、枢木の敷地に入る門をくぐった時点でセキュリティ装置によりスザクの帰りを察知し、それからゲンブはずっとここで、こうして待ち構えていたのだろう。
早かったな、と云ったのは、スザクの帰りがいつも部活動で遅くなることくらいは母か使用人かだれかから聞いているのかも知れない。それに今日にしたって、帰宅時間がいつもより早い事を差し引いても、セキュリティ装置のある門を通り抜けて以降、その先は完全な枢木家の私道となっているから、途中に障害物がないことを利用して訓練を兼ねて競歩でここまで来たし、確かに守衛に挨拶をしてからこの屋敷に着くまでは早かった。
「…え、あ、うん。来週から期末考査だから、いまは部活がなくって……」
「そうか。来週か」
表情はあまり変わらなかったが、片目だけを僅かに瞑った様子にピンと来る。
「……来週、何かあるの?」
ゲンブが、平日のこんな明るい時間から家に居るということ自体が奇妙しい。否、平日とは限らず休日だって、彼はほとんどこの家には寄り付かない。確かいまは国会の会期中でこそないはずだが、それにしてもゲンブには常に何かしら公務があるはずだ。つい先日、どこかの国を訪問しているニュースを見たばかりだと思ったのだが。
もし今日は公務のない珍しい日だったとしても、家族のなかでゲンブだけは総理大臣公邸の方へ住まいを移していて、この本宅へは滅多に帰って来ない。スザクはそんな公邸などとんでもない! と、しかもあそこが終の住処になるわけでもあるまいし、ここに立派な実家があるのだからと引っ越しを断固拒否している。
母も基本首都から離れたこちらを拠点にして実家を護っていて、首相夫人として必要なときにだけ公邸へ行っているので、簡単に云ってしまえば父の単身赴任のような状態となっているのだが、だからこそ本宅に、しかもこんな時間帯にゲンブが居る筈がないのに。
スザクが疑問に頸を傾げていると、ゲンブは「それがな、」と、普段から険しい表情を更に難しいものにした。
「来週、ブリタニアから、客人がいらっしゃるんだ」
「……客? ブリタニアから?」
ほとんど同じ内容を質問形式で返す。
ゲンブは飲み込みのわるいスザクに文句を云うことなく、重々しく頷いてみせた。
スザクはそこで、そう云えばこのあいだのゲンブの外遊先の中には、大国である神聖ブリタニア帝国も含まれていたことを思い出した。
そのまま、そう云えばこの前行っていたね、と確かめれば、そうだ、良く知ってるなと感心された。ニュースだよ、と云うと、おまえニュースなんか見てるのかと驚いたような表情をされる。いったい自分の評価はこの父親のなかでどうなっているのかと多少腹が立つが、それでも、直接文句は云えないのが情けない。
それよりは、と思い直したスザクが、
「で? ブリタニアの客がどうしたの?」
と聞くと、ああそうだったな、とゲンブが腕を組む。
「実はこちらで会談の予定があるのだが、極秘事項だ。あちらはお忍びでいらっしゃるから、これはくれぐれも他言無用で頼む」
「ああ、うん。そういうことは弁えてるつもりだから大丈夫。けど、それなら父さんの客ってことじゃないか。僕に何の用?」
例えば、ブリタニアの皇族を見かけてもそれを云い触らしたりしないようにと、それを教えておきたかっただけだろうかと思ったけれど。首都から離れた本宅に住んでいるスザクに、全く関係なんかないだろうと頸をひねる。ゲンブは、そんなスザクにどこか遠慮するような、非常に珍しい空気を纏ってみせた。
「会談の席に座るのは、来日される方々の中でもごく一部の方だけでな」
ゲンブのその云い方に、スザクはひっそりと眉をひそめた。
「……そんなに大勢来るの?」
「ブリタニア皇族の全体から見ればほんの一握りの方々ではあるが。護衛と合わせると、それなりの人数にはなりそうだ。特に、おまえと歳の変わらない皇族を、観光と勉強がてら同行させたいと仰っていてな。その方々は会談には参加しないから、来日しているあいだおまえが相手をしてやってくれないだろうか」
「…………は?」
あまりにも唐突で、まさか有り得ないと思う依頼にスザクは固まった。
「どこかホテルを押さえようかとも思ったが、何しろ会談自体が関係者以外には極秘だから、コンシェルジュにも正体を偽ろうとすると、そう厳重な警戒をするわけにも行かない。それに、それなりの人数となると所在は分散していたほうが良い。と云う訳で、検討の結果、おふたかたを我が家でお預かりすることになった」
「……―――は? 我が家って……ここ? 公邸じゃなく?」
「密談だと云っているんだ、公邸に堂々とお招きできるわけがないだろう。普通なら迎賓館を使うところだが、今回の場合は大げさに動くと何かあるのではないかとマスコミに察知されてしまうし……」
特に他国のメディアは困る、とゲンブが唸る。
「……そんなに徹底的に隠すんだ」
「ああ。うちなら、そこそこの広さと客室数はある。セキュリティも個人宅にしては厳重だとブリタニア側からもお墨付きをいただいたからな」
「まぁ、それはそうだけど……」
曖昧に頷くと、ゲンブはその反応を伺いながら更に口を開いた。
「とは云っても、泊まりで客人が来ると云うのは滅多にないことだし、おまえからすれば他人、しかも最大限に気を遣う外国の要人が家に居るというのは落ち着かないことかも知れないが、」
スザクの反応がわるいのかどうかは判らないが、こんなにもスザクの様子を窺いながら気を遣って話をしてくる父というのは初めてのような気がした。物珍しさと、云われた内容の意外さにぱちぱちと瞬きをする。
「母さんには、既に伝えてある。すっかり張り切ってしまっていまから準備しているようだが、スザクはテストだと云うからな、できるだけ騒ぎを抑えて邪魔はしないよう云っておくが。……テストは来週いっぱいか?」
「うーん、いや、水曜か木曜には終わるんじゃなかったかな。その後は、自宅学習という名目のテスト休みが一週間くらい……」
そう素直に答えてしまった後で、しまった、と直感が厭な予感を連れてきた。
案の定、ゲンブがゲンブなりにどこか明るい雰囲気の窺える表情になる。
「それなら、日程的に丁度良いな。お客様を、どこかへ遊びに連れて行ったりしてくれないだろうか」
「は…?」
云われた意味が一瞬判らなくて、ぽかんとゲンブを見上げる。
「お相手って……そこまで?」
相手をしてくれとだけ云われたので、精々屋敷の案内や、お茶の相手程度かなと思ったのに、観光ガイド役だと?
現首相のひとり息子とは云え、世襲制のブリタニアとは違い、スザク自身は特権階級でもなんでもないただの学生だ。マナーや世界共通語であるブリタニア語くらいは教養として恥ずかしくない程度にとそこそこ習わされたが、それでもちょっと良い家に生まれた程度の一介の男子高校生に、そんな国交にも関わりそうな大事な客人のお相手などという大役が務まるなんて本気で思っているのだろうか。
そのあたりの葛藤を総て詰め込んだ視線をゲンブへと送ると、仮令普段交流が少なくともやはり親子と云うことなのか、ちゃんとゲンブには伝わったらしい。
ゲンブはいつも険しい表情を、更に取っ付きにくいものへと変化させた。
けれど片眉を寄せた表情は、どこか困った様子でもある。
「…………無理だと云うなら、急遽他の人間を探して予定を立て直さないと間に合わないので、急で悪いができるだけこの場で答えてくれ」
他の人間、と聞いて、そんなものが居るのなら、そもそも真っ先にスザクなんかに声は掛けないんじゃないかと思った。しかも、予定を『立て直す』と云った。それはもう、スザクが担当ということである程度話が進んでいると見て間違いないだろう。
と云うことは、本気で困っているのか、単純な人手不足なのか、それともスザクということに意味があるのか。
そんなもの、わざわざこうして直接云いに来ている時点で明白だろうと肩を竦めた。
「……ちなみに、その、うちに来るっていう予定の皇族の名前は?」
スザクは、枢木の家名はともかくとして、現首相であるゲンブの政治家としての跡を継ぐ気など毛頭ない。またそれをゲンブ本人も了承してはいるものの、だからと云って勉強を怠っていると莫迦にされやすいのでそれなりに世界情勢くらいは把握している。
何せ情報の入ってきやすい環境だ。
その環境を積極的に利用しているというわけでもなく、世間話に近いレベルで、機密事項でない細かい話は自然と耳に入って来る。恐らくどんなにニュースに精通した一般市民よりも、スザクはブリタニア皇族の名と各々の人物像に通じているだろう。それだけではなく、スザクは実際に一部の皇族と関わりを持っている。ゲンブがスザクに頼み込んで来たのは、そういう事情もあるのだろうな、と思った。
当然それを良く知っているゲンブも、序列や役職などの面倒な説明を省き、名前だけでスザクにそれを教えてきた。
「ああ、それは―――…………」
父の口から発せられたブリタニアからの客人の名は、第三皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアと、第十一皇子ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの二名だった。
後者は知っている。幼少の砌にも、日本に来て枢木家にしばらく滞在していた皇族だ。そして、スザクとは―――
―――ルルーシュ。
その名前が、その存在に与えられた裏切りが、スザクの裡に長いこと響き渡っていた。