ブリタニアをぶっ壊す―――
それは決してこどもの浅薄な世迷い言ではなかったし、不安定ではあったもののそれを為す覚悟は初めからあった。理由も充分すぎるほどに充分だと思っている。
だからこその宣言であって、それを吐き出した相手がスザクだったことに後悔はない。あのときそんなルルーシュの気持ちを判ってくれるのはナナリーを除いてただひとり、スザクだけだということは自明だった。
ただその決意に至るまでの理由というものについて、それは母の事件、否、ルルーシュが生まれ出づる以前から蓄積されたものであったということを、スザクに延々と話す気は毛頭なく、哀しみを分かち合うことも同情を勝ち得ることもできないだろうと思ったし、またそんなものが欲しいわけでもなかった。
ただ己の中に沈めこんで滾らせるよりは、それを知っていてくれる人が居て欲しいという、今思えばそれこそ浅薄な我が侭だったのかも知れない。
聞かされたスザクの方に聞き入れる覚悟があるのかどうかも推し量らずに、己の願望のままに吐露してしまったことはさすがに悪かったと思っている。ルルーシュの言葉がスザクにそれなりの影響を与えることを、ルルーシュはきちんと感じ取っていた。
けれどそのときのルルーシュはスザクの手を借りる気はなくて、ただ同意か促しか―――心理なんてどうでも良いから、肯定が欲しかっただけだ。助けて欲しかったわけじゃない。感情の込められない「うん」というそのひとことだけでも良い。激励も要らない。ルルーシュが声にして日本の地に落としたまま、そこで終わってしまうよりは、だれかに拾って欲しかった。そしてその“だれか”は、できればスザクが良かった。
さようなら、だから安心しておやすみ
ルルーシュとナナリーの世界はふたりだけで完結していて、実際問題としてだれかの手を借りなければ生きては行けなかったのだけれども、お互いが居ればそれだけで良いと思っていた。実際ルルーシュはナナリーを守るために生きようと決めたのだし、ナナリーはルルーシュが居たから景色もない世界に立てないままでも、背筋を伸ばしていられた。庭を元気に走り回って母の懐に飛び込む、そんな当然の権利を喪った幼き兄妹に、現実はあまりにも荒涼としていた。母の世界が弾丸によって破られるまではすくなくとも生活面では恵まれていた自覚はあるし、不幸自慢をする気はないが、それでもなかなか波乱万丈だとは思う。その中で生きて行くことは大変だったけれど、お互いが居るから生きた。お互いのために生きた。だからそれ以外には何も要らなかったし、そもそも手に入らないことを知っていた。
そんなルルーシュとナナリーがスザクを世界に受け入れたのは、色々と助けてくれたからだとか単純な理由だけでは云い表せない、感謝や友情というだけではない想いを抱いたからだった。言葉にするだけなら簡単だ。ただ温かかった。それだけだ。父親と上手く行かず、名家の長男として生を受けたスザクの寂しさや苦しみはルルーシュやナナリーと似通っているようでいて、環境の所為かスザクの性格に起因するものか全くの別物だった。始めこそブリタニア人を差別しておきながら、自分から徐々に近付いてきて良きところを認めるスザクの存在はルルーシュとナナリーにとっては新鮮で、貴重だった。自分から守らなくてもそこに在ってくれる存在は、きっと初めてだった。側に居てくれると「嬉しい」から「安心する」に変わって、気付いたら喪いたくないと思うようになっていた。
相変わらずルルーシュとナナリーの世界は相手があってこそのものだったけれど、スザクが居てくれてやっとふたり安心して微笑うことができた。スザクが守ってくれるのは攻撃からではなく、三人で居られる場所と笑顔だった。
だからルルーシュの覚悟を見届ける存在は、スザクが良かった。
ルルーシュの覚悟はほんものだ。
スザクと離れ離れになってさえ、否、もう守ってくれる存在が側に居ないからこそ、消えるはずがなかった。
ただ、そう。永いこと微温湯のような箱庭の中に居れば、何も自分から壊しに行かずとも、このままこの中に居ればナナリーにとって世界は優しいままなんじゃないかと―――そう思うことくらいは、あった。
けれど逃げて逃げて、追っ手の正体も明確ではないままに脅えて過ごして、それでどうして倖せだと云える?
壊す前に壊れてしまう予感に気付いていながら、合わせたお互いの手がいつだって僅かに震えていることを知っていながら、それでもその中に居つづけて何になる?
ルルーシュが欲しいのは世界だ。
ナナリーに優しい世界。ナナリーが安心して過ごせる世界。どこからか脅かしてくる何者かも知れぬ敵に神経をすり減らす必要の無い世界。守ってくれるなんて理由をつけなくてもスザクが側に居て微笑っていてくれる世界。
きっと、ただ生まれてきただけなら小さくて良かったはずのその世界は、ルルーシュとナナリー自身の躯に蠢く血がそうさせてくれなかった。大きな、途方もなく大きな世界を相手にしなければそれは手に入らなかった。
けれど皮肉なことに、その血そのものが、大きな世界だって相手にできるほどの力をも示すものだから、こんなところで燻ってはいられない。
修羅の道だろうと、転がるのは骸ばかりだろうと、進むしかないのだ。
だって立ち止まってしまったら、相手を遺して逝かなければならない。相手の想いを何よりも判っているから、遺されても後を追うこともできない。追うとしたら、欲しかったものを手にいれて目一杯微笑ってからだ。相手が何よりも欲しかったであろうその笑顔を土産にして、漸く会いに逝ける。
そう、つまり―――
世界を壊し、その報復をこの身に受ける覚悟と同時に、仮初の世界がいつか壊れされてしまう覚悟もいつだってこの胸にはあったのだ。
あの日―――恐らく短いながらも濃い人生の中で一番穏やかだった母との日々に、突然幕が下ろされてからずっと、ルルーシュに安息の刻は訪れなかった。
浅く不安定な眠りを繰り返しながら、差し込む陽の光を受けて漸く無事朝を迎えられたことに毎朝毎朝深く安堵する。けれどすぐに気を張り詰める一日が始まるのだ。ナナリー以外の総てを―――そうスザクでさえも―――信じられずに、常に疑いながら笑顔で過ごす。それでもナナリーは穏やかに微笑んでいるし、信用はできなくとも昔のようにスザクが近くに居てくれるから、ルルーシュは概ね仮初とは云え幸福でいられた。
だから皇室からの迎えが来たときも、絶望や落胆よりは納得の方が大きかった。
ナナリーも不安そうな表情は見せたものの、つづかない幸福だと判っていたようだ。気丈に微笑んでくれた。もちろんその奥に閉じ込められた真実の想いをルルーシュが見逃すはずはなかったが、こうなってしまってはこの時点ではどうすることもできず、騙されたふりをした。
切欠はきっとスザクだろう。
ユーフェミアの筆頭騎士に身辺調査が入らぬはずはない。
そしてそれをスザクも自覚をしていたのか、申し訳なさそうな顔をしてみせた。
「でも、君たちを悪いようにはしないって云っているから。きっと今までのように脅えて過ごすよりは良いんじゃないかな」
最後に友人として会った刻に、スザクに告げられた言葉だ。ルルーシュは返す言葉を持たなかった。
ルルーシュとナナリーが日本に居てさえ攻撃をしてきたブリタニアの非道さはスザクも間近に見ているし、だからこそルルーシュが逃げていたことを知っている。
けれど違うんだ、スザク。ここはとても汚い。汚くて暗くて冷たくて怖い。玉座から一番離れた異様に警備のすくない離宮、一歩歩くたびにわざとらしく聞こえてくる批判、冷え切った毒入りの料理、毒針の仕込まれた衣服と寝具、どこに穴があるのか判らない部屋、常に付き纏う複数の視線。
それらをスザクに伝える気はなかったけれど、それらをスザクが知っていたらそんな言葉をスザクの口から聞くことはなかっただろうと思うとすこし……哀しい、気がした。
ルルーシュたちが脅えていたことに気付いていながら、ルルーシュたちではなくユーフェミアを守ると決めたスザク。ルルーシュたちがあんなに皇室を嫌がっていたことを知っていながら、ルルーシュに自分を正当化して欲しいような台詞を吐いたスザク。過去の汚いものに囚われすぎて綺麗なものだけを見ていたいスザク。ルルーシュの言葉ひとつにすくなからず影響を受けていたくせに、今はルルーシュの云うことなんて聞きもしないスザク。
そりゃスザクなんてそんなの、昔から思い通りにならないことだらけの存在だったけれど。
(それでも、側に居てくれたら、今までにないくらい安心できたんだ)
スザクが一緒に眠ってくれる夜は怖くなかった。
守って欲しいわけではないけれど、スザクが守ってくれることは嬉しかった。
スザクが守ってくれるのが当然のようになっていて、だからきっとスザクもルルーシュとナナリーを守らなければいけないんだと思い込んでいるようなところがあって、それはきっと時折重荷にもなっただろう。
それを気遣いはすれど、あまりの居心地の良さに目が眩んで本心を告げなかったルルーシュが悪い。ルルーシュにスザクを責める資格は無く、またスザクに責められる謂れも無い。
ルルーシュとナナリーにとってスザクは安寧だったけれど、スザクにとってはそうではなかったのだろう。
だからルルーシュがスザクにかけられる言葉はもう何も無い。
総ての想いごと塞き止めて、スザクが決断と共に新な道に足を踏み入れるところを微笑みと共に見送るくらいしかできない。それがスザクの決めたことで、そしてスザクの安寧に繋がるのならば。
ルルーシュはいくら疎まれていると云っても皇族で、スザクは、仲良くしているとは云え睨み合うのが普通なはずの腹違いの妹であるユーフェミアの筆頭騎士だ。
進む道が交わることはもう無い。
だから、せめて。
「俺は地位を築くよ、ナナリー」
真実だれよりもルルーシュを理解し、歓びも哀しみも分かち合う妹は、ルルーシュの決断をひたすらの心配と共に歓迎した。そうでもしなければ生きることさえ侭ならず、そして同時に更に命を狙われることは明らかだったけれど、ナナリーはルルーシュが見ていた先を同じように見たのだろう。それに、死んでいるよりはましだった。
ナナリーは表情を一掃すると可愛らしく小首を傾げた。昔、離宮で浮べていたのと同じような表情だった。
「いざこんなことになってみると、スザクさんが騎士であったら良かったって思うことはないですか?」
「それはないよ。確かにスザクが側に居てくれるのならそれ以上に安心できることはないけれど……俺は未だにスザクが軍属でいることに反対なんだ。もう表立っては云わないけどね」
「ふふ、私もです。きっとスザクさんは『心配しなくても大丈夫だよ』って云い張って、聞き入れてくれないでしょうけれど」
「全くだな。心配くらいさせてくれたって良いのに、あいつは……。だから、俺はスザクに居場所を与えてしまうようなことは絶対にしない」
「まぁ、そういうことだったんですね。スザクさんがお側に居てくれたら良いなって思ってたんですけど、お兄様はそうじゃないのかとちょっと心配だったんです」
「別に、ナナリーがスザクを望むならそれも良いと思うけれど」
「いいえ。守って欲しいわけじゃありませんから。それに……ユフィ姉さまを、スザクさんは選んだのですし」
「ナナリー……」
健気にも程がある妹に涙が出そうになったが、そんなルルーシュをナナリー自身が遮るように首を傾げたので、ルルーシュも聞く態勢を作った。
「あ、あの、お兄様は、」
「うん?」
「お兄様がスザクさんを騎士にしない理由は判ったんですけど、スザクさんがユフィ姉さまの騎士であることに、お兄様は、その……何か思ったりはしないんですか?」
「何か?」
「ええ。お兄様とスザクさんが一緒にいるところが、私は好きなので、どうも……」
「……スザクが俺たちの云うことも聞かずに軍人であることを望むのなら、ユフィの側が一番良いだろうとは思うよ」
「それは……ユフィ姉さまが、日本人だということを気にしないからですか?」
「それもあるけど……そうだな。スザクはスザクなりに色々なものを見てきて、あのとき以上の地獄はないと思ってる。それはそれで真理なんだろう。だが、同じように俺は皇宮の汚さを良く知ってる。俺たちが日本に居るのに戦争を仕掛けたというだけではなく、それこそ生まれたときからここで過ごしたからこそ知りえたたくさんの腐敗を。スザクはそれを知らないのか気付かないふりをしているのか悟らせないけれど……なんにしても、スザクが騎士であることを選ぶのなら、せめて、あいつがこれ以上苦しまないようにと思うよ。その点で云えば、ユフィの周りは綺麗だろう。例えコーネリア姉上が周りを固めているおかげだとしても、悪意の視線に塗れた俺でさえも居心地が良いと感じるほどの……だから、スザクはそこに居た方が良い。知りたくないなら知らないままで良い。俺の周りは未だに、否、今だからこそ汚くて危険なものばかりだから。もし俺の騎士なんかになってしまったら、負担をかけさせるばかりだろう」
「そうです、ね……スザクさんは安全ですね。それを聞いたら納得しました。だけど……」
「なんだい? ナナリーはあいつが居てくれた方が良いのか? なら……」
「まぁ、違います。それなら、余計お兄様を守ってくれる方の存在が必要だわって、思っただけです」
「騎士のことか?」
「ええ。どなたかいらっしゃらないかしら……そうしたら安心なんですけど」
「ナナリー、俺は大丈夫だよ。お前が居てくれるだけで」
「お兄様……でも、」
「俺はお前の方が心配だよ。今まで以上に側に居ることができなくなってしまうだろうから……その間、ナナリーを任せておける存在があれば……」
「それこそ大丈夫ですよ。お兄様が帰ってきてくれることを考えるだけで、それだけで私は大丈夫なんですから」
気丈で兄を気遣いすぎる妹というものも時に考えものだ。心配と同時に感動に咽び泣いてもいるわけだが。
そしてやはり思うのは、こんなときにスザクが居てくれたら、ということだった。スザクはひとりしか居ないんだからルルーシュもナナリーもどちらも守ることは無理だけれど、居てくれるだけできっとこの不安は一掃されてしまうのに。スザクの他に、安心して相手を任せられる存在なんて在りはしないのに。
だけどスザクに負担ばかりかけさせてしまうことはもう厭だったし、今ナナリーと交わした会話は真実ルルーシュの強がりを含めた本心だったから、もう諦めなくてはならないんだろう。
けれどルルーシュはナナリーとスザクに関しては毅くいられない自分を自覚しているから、スザクを“あいつ”などと親しみを込めて呼ぶのは今で最後だ。ナナリーの前でくらいは、ナナリーが寂しがるだろうから良いかも知れないが、あくまでも自分は皇族で枢機卿、スザクは枢木少佐でユーフェミア皇女エリア11副総督の筆頭騎士。気安く話のできる関係は終わった。そう、区切りの言葉を交わすこともないままに。割り切らないといけないのだ。
次に枢木少佐と顔を合わせたとき、きっとルルーシュは相手の目を見れないだろう。
思わず軽く合わせていたナナリーの掌を握り締めて、けれど確りと握り返された感覚に息を吐いた。
そう、結局のところルルーシュとナナリーの世界は二人だけで完結していた。すこしだけ夢を見てしまったけれど、世界はそうでなくてはならなかった。