「え……家庭教師、ですか?」


良い話があるの
そう云って、笑顔を咲かせたセシルから出された単語があまりにも自分のイメージから掛け離れたものだったので、スザクは鸚鵡返しにそう尋ねた。けれどセシルは満面の笑みを崩さないまま、ええそうよと嬉しそうに頷く。


「ここの責任者……ほら、シュナイゼルさんのお知り合いの方でね、ちょうど今探してるんですって。スザクくん、掛け持ちのバイト先探したいって云ってたじゃない?」
「はぁ、それはそう……ですけどね」


確かに、ナイトメアの機動実験という、有り余る体力を活かした特殊なバイトで稼がせてもらっている身のスザクだが、最近研究の方が落ち着いてきたらしく、呼び出される回数も減ってきたのでそんなことを云った覚えはある。
実際、他にも探してみようとはしているのだが、如何せん今の時給が良過ぎることもあって他に魅力を感じる仕事先が見つからなかった。
登録制の日雇いも良いのだが、給料を事務所まで取りに行かなければいけないのが面倒なのと、携帯から予約して折り返し連絡だの何だのが煩わしい。それにどうせなら肉体労働ではない、違うジャンルの仕事も体験してみたいという気持ちもある。
だがあくまでも今の仕事先をメインにしたいので、時間的に融通の効くバイトというとこれがなかなか難しい。
だから、雇っている側のセシルから紹介してくれるのは有難い。つまりはそういう条件(少なくとも、時間とかそういうこと)をクリアしているということなのだろうと思うから。
だが、それにしたって。


「あら、何か気に入らない?」
「気に入らないも何も。僕、大学はエスカレータだし、高校だってスポーツ推薦なのは知ってるでしょう?」


その体力を買ってもらい、このバイトをすることにもなったのだ。自慢じゃないが、昔から体育以外のほとんどの教科で赤点による補修常習犯だ。そんな自分が家庭教師? ―――信じられない。
暗に向いていませんということを伝えたつもりだったが、セシルは構わないようだった。


「大丈夫よ。相手の子は高校生なんだけど、勉強はできる子なんですって」
「そんなの、余計ダメじゃないですか!」


中学生くらいなら何とかなるかなとは咄嗟に思ったけれども。高校生なんて、受験とかも関わって来るだろうし、自分はそんな責任持てない。しかも勉強できる子に教えるだなんてそんなの、普通に無理に決まってるじゃないか!
まさかと全身でもって否定にかかるスザクだったが、セシルはあくまでもにこやかに大丈夫よなんて云って頷いている。


「話によるとね、勉強を教えるって云うよりも、話し相手になってもらいたいらしいの」
「話し相手……ですか?」
「ええ。大人しい子で、友達と遊んだりもせず真っ直ぐ家に帰ってきては、ほとんど部屋に籠ってるとかで……」


セシルの説明で、スザクは更に怖じ気づいた。


「……メンタル的な改善は、僕には無理ですよ……」
「ああ、そういうお願いをしてるんじゃないの。大人しいとは云うけど、暗いってわけじゃないのよ? ただ、学校に馴染めないみたいで……アッシュフォードらしいんだけど、スザクくんもそうだったじゃない?」
「は……ええ、まぁ。大人しい子には、あの校風はちょっと辛いかも知れませんけどね」
「そうそう。だから、スザクくんの高校時代の話でも聞かせてあげて、ちょっと宿題でも見てあげればそれで良いのよ」


未だに自分が家庭教師なんて、とは思っているものの、話の方向は決して悪くない気はする。
だが候補として考えてもいなかったバイトにやはり戸惑いの方が大きいので、とりあえずセシルが全て伝え切るまでは話を聞くことにした。


「勉強を教えたりとかは、ホントに無理ですけど」
「それは大丈夫みたい。その子ね、ちょうどスザクくんと同じくらいのお兄さんが居るんだけど、最近忙しくなって一緒に過ごせなくなっちゃったんですって。そのお兄さんって方と、シュナイゼルさんが知り合いで、相談を受けたらしいのよ。家にも帰れないで一人にさせちゃってるから、その間誰か信頼できる人が居てあげた方が安心だとか」
「……親御さんも居ないってことですか?」
「ええ、そうみたいね。詳しい事情は聞いてないけど。あ、大丈夫よ! 男の子だから、さすがに女子高生とスザクくんを誰も居ない家にふたりきりなんて真似は私がさせないわ!」


うふふと不自然なほど笑顔をばらまくセシルに、もうスザクも何が大丈夫なのかなどと云う突っ込みをする気はなかった。さすがにそんな不埒なことは考えていない。女子高生の家庭教師だなんて、確かにちょっとエロい響きだなとは思うけれども。


「ね? だから、ちょっと顔出すだけでも行ってみない? もちろん、相性があると思うから初日は顔合わせだけで、無理そうだったら後で断って良いのよ。その子の場合、受験を目指したりしてるわけじゃないし、勉強ができないわけでもないから、普通の紹介所みたいなところには頼み辛いらしいの。スザクくんなら人となりも判ってるし、身元もしっかりしてるし、何より腕っ節が強いじゃない。その方が安心だって云うから。それに、すぐに見つかるとは思ってないから、無理なら無理で構わないって」
「ううーん、そういうことなら……」


スザク自身、高校生のときは帰っても誰も居ない家にひとりで居ることが多かった。それを寂しいとか危険だとか思ったことはなかったけれど、それまでお兄さんにべったりだった大人しい子ならそういうこともあるかも知れない。
要は用心棒というわけだ。それなら少し荷が軽い。


「嫌な云い方になっちゃって申し訳ないんだけど、もしスザクくんがバイトを掛け持ちするんだとしたら、そこなら予定もこっちで把握できるから、ちょうど良いかと思って」
「ああ、それはもともとこっちを優先させるつもりだったんで構わないんですけど。それなら、まずは行ってみるだけ行ってみようかなぁ」
「そうしてくれると助かるわ! シュナイゼルさんも真剣に探してたみたいだから」
「そう云われちゃうと責任重大ですね」
「大丈夫、仕事自体は気楽に構えてくれて構わないって云ってたわよ」
「そうですか……判りました。とりあえず、行ってみます」


よくよく聞くとバイトの条件がかなり良かったことと、まぁ人助けも良いよねくらいの軽い気持ちから、スザクはひとまず試用期間からということでその好条件の仕事を受けたのだった。





























渡された住所と地図を元にバイト先となるご家庭に向かってみると、そこには何とも見慣れない規模の家―――屋敷が、スザクを待ち構えていた。


「ご、豪邸」


ここで良いんだよねと不安になって、思わず表札を確かめる。

”ランペルージ”

合っているはずだ。
ではこの家が、スザクに家庭教師を頼んできた、兄弟二人で暮らすランペルージ家ということか。
度胸はある方だという自負があるが、これはさすがに緊張する。まるで檻のような門扉の奥に、庭園を挟んで豪奢な造りの建物が見える。
初日だからと、持っている中では綺麗めな服で来て良かったと心から少し前の自分を褒めてしまうほど、スザクの目の前に聳え立つのは、貴族の屋敷かと見紛うほどの大豪邸だった。
本当に貴族なのだとしたら、スザクのような人間に家庭教師などつけなくとも済みそうなものなので、違うと思うのだが。
自分の実家がとことん和風なこともあり、余計に洋館というものが迫力を感じさせる。


(確かに、この家で一人ってのは辛いかなぁ)


その上危ないというのも理解できる。強盗が眼をつけてもおかしくない家だ。
そんなことを考えながら呼び鈴を押すと、ややあってインターフォンのスピーカーから訝しむような誰何がある。話は行っているはずなので軽く自己紹介をすると、そのままの声で今門を開けますので、玄関までどうぞと返事が聞こえた。
なんだ、防犯対策ばっちりじゃないか。
自分が居る必要があるとは思えないなぁなんて考えながら、一等地にしては決して短くはない玄関までの距離を歩いているうちに、重厚なドアが開き中から人影が恐縮そうな様子で顔を覗かせる。


「すみません、お待たせしました」
「いえ、全然……」


出てきたのは、懐かしい制服に身を包んだ華奢な男の子だった。高等部の二年生だと云っていたが、随分小柄に見える。スザクがアッシュフォードの卒業生だからこそその制服が高等部のものだと知っているが、ぱっと見では中学生に勘違いされてしまうかもしれない。


「あの、ロロくん……だっけ?」
「はい。枢木さんですよね。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。スザクで良いよ」
「え、でも……」
「あんまり恐縮されちゃうとやりにくいから。そんなに歳も変わらないんだしさ」
「じゃ、じゃあスザクさん……とりあえず、中へどうぞ」
「あ、うん。お邪魔します」


促されて入った内部はそれほど豪華というわけではなかった。ただ想像していたような煌びやかさがないというだけで、きっとシンプルに見える調度品も結構なお値段のする代物なのだろう。
なるべく触れないようにしよう、と決意を新たに先導する背中を見る。小さな背中ではあったが、別に初対面の人間に対しびくついているようには見えない。妙に落ち着いていて、大人しいというよりは反応の薄い感じだなぁと思った。
しかし広い廊下を半分ほど過ぎたところで、今まで静かに先導していたロロからちらちらとこちら窺う気配がしてスザクは首を傾げた。どうかしたの? と促してから漸く、ロロが重そうな口を開く。


「普通は……僕の部屋とかにお連れするものなのでしょうか」
「え。さぁ……どうなのかな。僕、こういうバイト初めてだから勝手が良く判らなくて」
「そうですか……僕も家庭教師なんて初めてで」
「ああ、軽く話は聞いてるよ。別に僕は部屋でもリビングとかでも、どこでも構わないけど」


恐縮した様子を見せたロロは、スザクを部屋に入れたくないと云うよりは、部屋に直接通すのは失礼かも知れないと考えているらしい。
別にスザクはそんなこと思わないけれど、その戸惑い自体は判る気もする。随分礼儀正しい子だ。だが引っ込み思案というのは確かなようで、スザクの返答に更に迷った様子だったので、助け舟を出すつもりで提案することにした。


「もしかして、今日もロロくん一人?」
「はい、そうです。兄は出掛けていて」
「そうなんだ。なら、自分の部屋よりリビングの方が安心かな? こんなに広い家なら応接間とかもあるのかな……それならそこでも良いよ。初対面の人間を部屋に入れるのって躊躇っちゃうよね」
「はぁ……。じゃあ、あの、リビングで構いませんか?」
「うん、もちろん」


スザクが屈託なくそう返事をすると、若干安心した様子を見せたロロはそのまま広いリビングにスザクを案内した。
コの字型に配置されたソファに、広めのテーブルもあるので確かに充分勉強はできるように見える。
だが存外、広過ぎる。部屋の空白が多くて落ち着かない。
ロロの気分を優先したスザクだが、早くも彼の部屋にしてもらった方が自分の精神衛生上は良かったかも知れないと思い始めていた。


「いやぁ、入る前から思ってたけど……広い家だよね」
「いえ、そんなことは……」
「いやいやあるよ。何云ってるの」


謙遜はなしだよと云っても、ロロは頑なに首を振った。驕るよりは良いかなとは思うが、ここまであからさまな金持ちなら認めてもらった方がこちらとしては楽なのに。
だが、飲み物を用意してくれたロロが、スザクにコップを差し出しながら続いて出た言葉に漸くスザクも納得した。


「家族が多いんです。元々は両親に、兄が数人、姉と妹も数人、他に使用人も居ましたし」
「え、そんなに!?」
「はい。ただ両親が海外転勤になったタイミングで、たまたま皆出て行く用件が重なっちゃって。社会人の兄や姉も仕事の関係で家を空けることになって、他の姉妹も全寮制の学校に入っていたりで」


淡々と説明をするロロの視線の先には、サイドテーブルに飾られたフォトフレームがあった。少し距離があるので、視力の良いスザクとは云えひとりひとりの顔までは判らないが、確かに家族で撮ったと思われる集合写真は随分人数が多いように見える。


「なるほどー……それで、今はこの広い家にお兄さんと二人?」
「そうです。兄を独占できるのは嬉しいんですけど……その兄も、大学に入ってからは忙しくなってあまり一緒に居られなくなって」
「だから家庭教師か。それまでは人がいっぱい居た家に今は一人じゃ、確かに寂しいよね」
「それは平気なんですが……兄さんは、ちょっと心配性で。すみません、急なお話だったでしょう?」
「ううん。僕もちょうどバイト先を探してたところだったんだ。家庭教師って聞いて、僕正直勉強は得意じゃないから最初は無理って思ったんだけど」
「そうなんですか……。あの、無理しないで良いですからね」


窺うような様子のロロに、しまった云い方間違えたかなと気付いてスザクは緩く首を振った。


「平気だよ? あ、でも難しいところ教えてって云われると困るけど。って、家庭教師としてどうなのって感じで申し訳ないけど……」
「いえ、それは大丈夫です。もともと、あまり人に訊いて解決っていうのは……兄さんは何でも自分でできちゃうから、僕もそうなりたくて」
「へぇ。兄さんって、今一緒に住んでるお兄さん?」
「あ、そ、そうです。すみません、兄さん兄さんって、僕はいつもそればかりで……」
「気にしないで良いよ。僕は兄弟居ないから、逆に羨ましいし」
「本当ですか?」
「うん。自慢のお兄さんなんだね」
「はい! だから、あまり困らせたくなくて……スザクさんがこれからも続けてくれるって云うなら、兄さんを安心させられるし助かるんですけど……」
「もちろん。でも僕、ホントにこんな感じで良いのかな? さっきも云ったけど、家庭教師らしいことはできないよ」
「構いません。一応ポーズとして宿題を手伝ってくれるくらいで。スザクさんもアッシュフォードだったから、テストの傾向とか聞けたらっていうのくらいはありますけど」
「ああ、それなら! 大丈夫、それくらいは覚えてるから。そっか、今ロロくん二年生ってことは、去年一年被ってたんだね」


人数の多い学園だし、学年が二年も異なるから残念ながらスザクはロロの存在を知らなかったが、そう考えると何だか不思議な感じがする。イベント事となれば学年関係なしの大騒ぎだったから、きっとすれ違うくらいはしているだろう。
それを思えば、スザクがアッシュフォード出身ということも、今回の話でスザクが推薦された理由に繋がるのかも知れないなぁと考えていると、ロロが意外なことを云い出した。


「はい。スザクさん生徒会役員でしたよね。目立ってたから、覚えてます」
「え、本当に? 恥ずかしいなぁ。そんなに目立つポジションには居なかったはずだけど……」
「生徒会の人たちはみんな目立ちますよ」
「それもそうか。あ、そうだ、多分家探せば定期テストの過去問とかも出てくるんじゃないかなぁ。探してみるよ。先生が一緒なら尚良いんだけどね」
「良かった、助かります。僕、あんまり学校に知り合い居ないから……」
「ああ、仲良い先輩とか居ると過去問もらえたりするもんね。クラス違う子から、先にやった小テストの内容教えてもらったり」
「はい。周りはそうしてるみたいなんですけど、僕はそういうのがなくて」
「そんなの、無理することでもないよ。でもあの学校、イベントばっかりで大変でしょう。あ、今は生徒会が代替わりしてるから、そうでもないのかな……?」
「いえ、しっかり受け継がれてますよ」
「ああ、やっぱり……大変そうだね……」
「はい……」


項垂れたロロの細い肩に何か重いものがのしかかっているのが見えた。どうやらセシルの前評判通りの性格らしいので、確かにあのイベント三昧はきついだろう。
でも自分の代の生徒会の空気が受け継がれているなら、それは嬉しいことだ。どういうイベントがあるのか聞いてみたい気もしたが、ロロの方が話を変えたかったようで、何か思いついたように顔を上げたのでスザクは口を閉ざした。


「あと、スザクさんに大学のことも聞きたくて」
「大学? ああ、エスカレータで入ることになるしね」
「そうなんですけど、それだけじゃなくて。兄さんも、アッシュフォードなんです。スザクさんと同じ一回生で」
「そうなんだ? え、じゃあ高校も?」
「いえ、高校は別のところでした」
「そっかぁ、残念。でも半分くらいは持ち上がり組だから知ってる人ばっかりだし、キャンパスで会ってたりしたら判るかもなぁ。お兄さんの学部は?」
「医学部です」
「わぁ、エリートだぁ……」
「まぁ、兄は……そうですね」


謙遜しない。今までの態度からすると少し意外だったが、ロロにとって、兄は本当にそういう存在なのだろう。
希望すればほぼ100%大学部へエスカレータで行けるアッシュフォードとは云っても、さすがに医学部は余程の成績優秀者でないと無理だ。しかもロロのお兄さんは外部生とのことだから、内部生よりも倍率は高いはずだし、スザクとは無縁の存在だろう。


「医学部じゃ、確かに忙しいよね。僕とは校舎が違うから、申し訳ないけど関わりはあんまりなくて。でも噂は良く聞くよ。死体がところどころに転がってるとか」
「え、」
「あ、もちろん本物のじゃなくて、実験とか研究を徹夜で終わらせた後の学生がね。行き倒れてるって専らの噂」
「そうなんですか……じゃあ、兄さんも大変なんだ……」
「だろうね。一回生なら、まだゼミとか入ってないはずだからそこまでじゃないと思うけど。文系と違って、レポートも多いって聞くし」
「やっぱりそうなんですね……」
「ロロくんも、医学部目指してたりするの?」
「いえ、僕は……無理です。今までも、なんとか兄さんの弟として恥ずかしくないように勉強してただけなので」
「でも挫けないで続けてるんだから凄いよ。僕はスポーツ推薦だったから、あまりにテストの点が悪いと莫迦にされるって思いつつ、部活で遅くなると怠けちゃってたし」
「そんな……。僕は部活もほとんど活動のないところですし……」


ロロの話はほとんどが兄の話と繋がってしまっていたが、その兄とスザクが同じ大学ということもあって上手い具合に話が進んでくれた。しかもロロもそれで全く不満はないようだったので、自身の役割について少々不安を覚えていたスザクはこっそり胸を撫で下ろした。
しかも、何より一番気になるところだったロロが良い子そうで良かった。大人しい子だとは聞いていたものの、最近の高校生は何だかちょっと怖い。去年まで自分も高校生だったくせにそんなことを思っていたスザクは、最近の子にしてはすれていない印象のロロに、これなら問題なくバイトを続けられそうだと安堵していた。






























家庭教師のバイトは基本週三日で、平日の二日に一回。しかしロロやその家族の予定にもよるので週一回だけのときもあったりする。忙しい時は家庭教師のバイトを終えてから特派へと向かうことにもなりそうだったが、一時期バイトの身でありながら特派に泊まり込んだりもしていたスザクからすれば、かなりの好条件だった。


「スザクくん、どうだった?」


記念すべき家庭教師初日を終えた次の日、特派に顔を出すと愉しそうな様子のセシルが不思議な色合いをしたクッキーを差し出しながら尋ねてきた。
昼食が遅かったのでと丁重にお断りして飲み物だけ受け取ったスザクは、良かったですよと笑顔で頷く。


「話しやすい子でしたし、勉強も僕はただ監督してるだけで良いみたいでしたし。こんなんでお給料もらって良いのかなって感じです」
「あら、良かったじゃない。相手の子もきっとスザクくんのような家庭教師で安心したと思うわ」
「それなら良いですけど」
「きっとそうよ。それなら続けられそうね? 一応昨日はお試しってことだったから、ちゃんと契約しないとね」
「あ、はい。向こうが僕で良いって云うなら歓んで」
「大丈夫よ。シュナイゼルさんにお話しておくわね」
「よろしくお願いします」


良かった。ここと良い家庭教師と良い、どうやら自分は仕事運には恵まれているらしい。
だが、せっかく良いバイトに巡り会えたとは云っても、その好待遇に胡座をかくのはスザクの性格上赦せない。
こちらの、ランスロットに関しての貢献度はともかく、家庭教師の方は本当にこんな仕事ぶりで良いのかと疑問に思うほどだ。向こうがそれで良いと云っているとはいえ、できるだけの働きはしないと自分の気が済まない。
何かできるかなと考えながら、先日のロロとの会話を思い出す。大分打ち解けたと思うが、何はともあれロロの兄の存在があってこそのことだった。高校で先輩との遣り取りはなさそうなのに、スザクという年上の男と屈託なく話せるのも、兄がいるおかげだろう。それに、大学に入って忙しくなったとは云え、家ではそこそこ顔を合わせているであろう兄の大学での様子を、わざわざ知りたいと云うのだから相当兄のことが好きなのだろう。
あんなに兄を慕っているロロを見ると、責任云々関係なく何とかしてあげたいなという気になってくる。
それにスザクにとっても、大学での知り合いが増えるに越したことはない。何より医学部で知り合いができれば、スザクの大学入学以来の夢も叶うかも知れない。


「……ランペルージ、かぁ」
「あら、なぁに? ランペルージさんって、確か家庭教師先のお家よね?」
「はい。そのロロくんのお兄さんって人が、僕と同じ大学に居るらしいんですよ。学部は違うんですけど、医学部なら人数少ないし、もしかしたら判るかもなぁって」
「ああ、元々家庭教師のお話を持ってきた方ね。でもスザクくん、ほとんどうちに入り浸りだから、大学のお友達と交流する機会ってあんまりないでしょう?」


言外に、知らなくても仕方ないんじゃないかしらと首を傾げるセシルに、スザクも苦笑して頷く。


「そうなんですよね……。半分は高等部からの知り合いだから良いんですけど。僕サークルも入ってないし、大学からの友達って居ないから、切欠にして知り合い増えたら良いなぁなんて思って。ロロくんも大学でのお兄さんの様子知りたいみたいだし」
「あら、それはちゃんと探さないといけないわね。シュナイゼルさんに聞いてみましょうか」
「いえ、そこまでしなくて良いですよ。自分で探すのも愉しそうかなと思うので、とりあえず自力で何とかしてみます」
「それも良いわね。折角の学生生活だもの、楽しまなくちゃ。いざとなったら協力するから、云ってちょうだいね。シュナイゼルさんとお知り合いってことは、もしかしたらナイトメア関係の話も通じるかもしれないし。そしたらきっと話が合うでしょう」
「あ、そう云えばそうですね。何かやる気出てきたな。明日さっそくリサーチしてみよう」


ロロから聞いたお兄さんについての話は中身のことばかりで、外見的な特徴は特に聞かなかった。だが歳の近い兄弟なのだし、それほど外見が違うわけでもないだろう。リビングに飾られていた写真をもっと良く見ておけば良かったなとも思うが、セシルに宣言した通り、ランペルージという名前から辿って探してみるのも面白そうだ。
医学部は研究棟に引きこもってばかりいることが難点だが、結構早く見つかりそうだなと期待しながら仕事をこなした。




























(……結局見つからなかったなぁ)


キャンパスで出会った人間にとりあえず医学部に知り合いが居ないかと聞いてみたが、誰も彼もが首を振った。
だがスザクが声を掛けたのは当然ながら高校からの知り合いばかりで、皆入りやすい大人数採用の文系学部に居るので仕方ないかと思う。それに今日はぎちぎちに講義を詰め込んでいる曜日だったから、あまり時間もなかった。
そもそもが、以前何とか医学部と繋がりを持ちたいと思って働きかけたことがあったが玉砕しているのだ。やはりそう簡単にはいかないらしい。
だが、今回は手当たり次第でなくファミリーネームが判っている一人の人物目当てだし、まだ探し出して一日目なので焦ることもないだろう。嬉しいことに家庭教師のバイトも正式に契約が決まり、まだ続けられそうだからロロと話しながらゆっくり探すのも良い。
そうだ、今日もバイトだから、ロロにもうちょっとお兄さんのことを聞いてみようか。どうせお兄さんの話が大半になるだろうけれど。
そう思いながらランペルージ家に赴くと、先日よりは柔らかい雰囲気のロロが出迎えてくれた。大分慣れてくれたようで嬉しい。家庭教師をするのなら、やはり教え子(と呼ぶのもおこがましい働きしかしていないが)とは良い関係を築いていきたいものだし。


「いらっしゃい、スザクさん」
「お邪魔します」
「実は、今日は課題が多くて。リビングで勉強道具を揃えるのがちょっと面倒なので、僕の部屋でも良いですか?」
「うん、もちろん。部屋の方が辞書とかも揃ってるだろうしね」
「ありがとうございます。飲み物を持って行くので、先に行っていてもらえますか。階段上がってすぐの右側の部屋です」
「お構いなく。でも、勝手に入っちゃっていいのかな?」
「はい、ドアは開けてあるので判ると思います」


了解、と軽く手を振って階段を登る。確かに上がってすぐの部屋のドアだけが解放されていた。
すこし申し訳なさを覚えつつ、でもそう云われてるんだしと思いながら開け放たれたドアの奥を覗き込むと、デスクや本棚やベッドという最低限の家具だけが整然と並べられた、高校生にしてはシンプルすぎる内装の部屋があった。しかしロロらしいと云えばロロらしいのでここで間違いないだろう。
端にパソコンの置かれた広めのデスクの他に、部屋の真ん中にローテーブルとクッションが配置されていたのでここで待っていればいいのだろうかと思いながら腰を下ろす。あまり人の部屋をじろじろと見るのも何だしと、正面に視線を上げると、入る時はちょうど扉の影になっていたベッドの上に大きなくまのぬいぐるみが待ち構えていた。
全体的にモフッとした淡く白い毛並みで、首元に紫のリボンと銀色の鈴。落ち着いたブルー調で統一されたシンプルな部屋の中で、それだけがメルヘンな雰囲気を醸し出している。小さな子であれば逆に抱き込まれてしまいそうなくらいの大きさの、それ。


(なんだろう……意外だな)


可愛いと云えば可愛いが。
この前話した感じだと、見掛けに反しクールなところのあるイメージのロロだったのでとても意外だった。いや確かに可愛いけれども。


「お待たせしまし……うわぁ!」


グラスを乗せたトレイを持ったロロが入ってきて、スザクが凝視していた方向に気付いた途端変な叫びを上げた。中身零れないかなというスザクの不安を余所に、ロロはさっとテーブルにトレイを乗せてくまに抱きつく。抱き込まれる、とまでは云わないが、それでも細身のロロが埋もれてしまいそうなくまの大きさを再実感した。
おろおろと顔を真っ赤にさせたロロはくまをどうしようかただ迷っている様子で、逆にそれがぬいぐるみに抱きついていてきっと余計恥ずかしい(と思っているであろう)体勢になっていることに気付いているのか。見掛けが可愛らしいロロなのでスザクは微笑ましく思うだけだけれども、自分と置き換えてみたら恥ずかしいことこの上ないと思う。これがもっと平均的な体型と顔面の男子高校生がやっていると思ったら確かに気持ちが悪いし。
スザクが指摘しようかどうか迷っているうちに、ロロはこのシンプルを極めた部屋でくまの隠し場所はないと気付いたらしく、最終手段なのかベッドの上のブランケットを掛けてひとまずスザクの視線から隠した。くまがベッドに寝ているようになってしまったので正直どうかと思うが、さすがにそこを突くとロロは泣き出してしまいそうな気がしたので黙っておいた。


「す、すみません……」
「ううん、別に。すごい大きいね。びっくりしたよ」


可愛いねとはさすがに云わなかった。何せロロは未だに顔を真っ赤にさせているので。
ただあまり話題に出さないのも不自然すぎるかなと思ったので、当たり障りのなさそうなことを云ってみる。


「は、はぁ……あの、兄さんは今でも僕を子供扱いするから……」
「あ、じゃあもしかしてお兄さんからのプレゼントなんだ?」
「はい……手触りが良いだろうと云って。ふわふわが好きなのは自分のくせに」


若干拗ねたように唇を窄ませたロロは、しかし満更でもなさそうな様子で。微笑ましいなぁと思いながらそっかと頷く。


「そう云えばお兄さんね、見つからなかったよ。まぁ、まだ一日しか探してないけどね」
「……え、わざわざ探して下さったんですか。すみません」
「ううん。僕、高等部からのメンバーとつるんでばっかりだから、大学からの知り合いが居なくてね。周りもそんな奴ばっかりだから……友達増えたらいいなぁなんて思ったんだけど」
「いえ、それはご心配には及びません」
「え?」
「別に、兄さんと友達関係になる必要はないですよ。噂話とかが聞ければ、それで構わないんです」


何だろう。いきなりロロの雰囲気が鋭くなったような。
今までは何と云うか、いつでも自信なさげな喋り方をしていたのに今回は妙にはっきりきっぱり断言された。
何となく雰囲気に気圧されて「そ、そう……?」と首を傾げば、妙に力強くはいと頷いている。


「でも、噂ねぇ……医学部全体ならともかく、大学で特定の人物の噂ってなると、よっぽど目立つ人物じゃないと……」
「目立つと思うんですが……」
「え、そうなの?」


そもそもロロがあまり目立とうとしないタイプに見えるので、てっきり兄もそうだと思ったのだが。
しかしロロがこれほど憧れるくらいなので、もしかしたら逆ということは有り得るかも知れないと今更ながら思い至った。となると、リーダシップを発揮する逞しく男らしい人物、ということになるのだろうか。


(医学部と云えば一人……ぱっと思い浮かぶ人物がいるにはいるけど)


そのイメージからはほど遠いし、そこから辿ることなど今のスザクには到底無理だ。だからこそ今こうして必死になっているわけであって。
さて他に目立つ人物は、とスザクは記憶を探る。ロロが云うのだから何かしら特徴のある人物ということだろうが、もしかしたら医学部と知らず認識しているかも知れないし。


「その、お兄さんの特徴……聞いて良いかな?」
「美人です」
「は?」


間髪入れずに帰ってきた反応。しかしそれは”兄”と呼べる存在に対する表現としては間違ってはいまいか。
呆気にとられたスザクを置き去りに、ロロはもう一度繰り返す。


「だから、兄さんは誰よりも綺麗です」
「綺麗って……」
「あそこに写真が。多分、一度見たら忘れないと思うんですけど」


ものすごい自信だ。
だが促されるように見たデスク側のコルクボードに貼られたスナップ写真。その大半を占めていたのは―――


(あれ、もしかして……)


どくん、と胸が一度高鳴る。
それは明らかな期待を秘めた一撃だった。
そしてちょうどそのときをタイミングとして、パタパタとドアの向こうで物音がする。


「あれ……誰か居たんだ?」
「え、帰ってきた時は僕一人のはずでしたけど……。もしかして兄さんかな。防音だから帰ってきたのに気付かなかったかもしれません」


こんな早速不審者の気配がするなんて自分の出番早すぎないかと思ったが、ロロはあっさり結論を出して立ち上がる。
一応用心棒としてここにいる自分の存在意義は……と思ったが、一応万が一もあるので若干浮き足立ったロロの後を付いて行くことにした。
だが特に心配する必要もなく、ロロの部屋を出て階段に出た時点であっさり解決する。


「兄さん! おかえり!」
「ああ、ロロ。ただいま」


ロロが声を弾ませて駆け下りた階段のその先。そこに居たのは―――


「「あ、」」


スザクと彼が同時に声を発した。彼の方は単純に、客の存在に気付いて反射的に声を出しただけだろう。
しかし、スザクはと云えば。
ロロの兄像とのギャップはもちろん、それ以上の驚きにその一言しか声にならなかった。
まさか、入学式で見掛けて以来、ずっと視線だけで追っていた彼とこんな形で。キャンパス内でさえ見掛けることができたのは僅か数回でしかないのに、こんな場所で会えるなんて。
さきほど写真で顔を確認した瞬間の、一瞬の期待が今になって実を結ぶ。
あまりにも偶然の出逢いに、驚きのあまり口を「あ」の形にしたまま動くことができない。
そんなスザクの様子に首を傾げた彼と、驚きに目を瞠ったスザクと。とりなすように間に立っていたロロが、スザクを彼に紹介した。


「兄さん、この人が家庭教師をしてくれてる枢木スザクさんだよ」
「ああ、そうか。今日は家庭教師の来る日だったんだな。すみません、ご挨拶が遅れて。弟がお世話になっています」


前半部分はロロへ向けて優しそうに。後半はスザクに向けて、他人行儀に柔らかく。
けれどスザクは、そんな態度の違いなど今はどうでも良かった。


「こちらこそ! あの、アッシュフォード学園政経学部一年、枢木スザクと申します!」


向こうから挨拶をされたことで反射的に、背筋を伸ばしぴっちり90度の体育会系バリバリのお辞儀をする。すると、ややあってからふっと吹き出すような音が聞こえた。


「随分元気が良いんだな。よろしく頼むよ」


瞬時に砕けた声に、反射的に顔を上げれば。そこにはスザクの語彙力では綺麗としか云いようのない笑顔が握手の形で差し出された声と共に待ち構えていた。
恐る恐る握手を返す右手とは裏腹に、スザクは兄弟に見えない裏側で小さくガッツポーズをした。


運命、それしかない




無駄に裏設定が細かい。