視線には慣れていると思っていた。それがあからさまであればあるほどたじろがずに、しかしその意識を外に見せることのないように、と。そうやって生きるように教育されている。
しかしこれはどうだ。
さすがに、尻込みせずにはいられない。
CLOWNS
-双頭の悪魔-
「…………」
しかも、無言。
だが不躾というわけではなく、値踏みするというようなものでもなく。ただ純粋に、“見ている”だけ。だからこそ反応しにくかった。
「あ、あの。マルディーニ伯……」
「厭ね、無粋だわ。カノンって呼んでくださらない?」
それこそ厭です、とも云えずに。柔らかい声なのに何処か強制力のある言葉に、思わず上目遣いで「カノン……さ、ん?」と首を傾げれば、
「何かしらこの生き物。可愛いわ」
ぎゅっと抱きしめられた。なんだコレ。
何が起きたのか判らず視線を彷徨わせようとするも、首さえ動かない。文官だとばかり思っていたのになんて莫迦力だ。
しかし、それを男らしいと表現するのは何か違う気がした。
「シュナイゼル殿下が独占したがるのも判る気がするわね。ずるいわ、あのヒト。ちょっと職権乱用しすぎよ」
唐突に出された名に反応した躯は、きっと密着したこの状態では伝わってしまったことだろう。失態だ、とは思うけれど。この相手に今更繕うのもいろいろと無駄な気がしたので、張りつめていた肩の力を溜め息と共に抜いた。
すかさず「あら」という言葉が耳元に響く。意外に声が近かったことに驚いてびくりと身を竦ませた。
「降参? と云うか……厭だいまの、感じちゃったのかしら?」
「感じてませんッ! それに、何ですか降参って」
「ゴメンなさい、アタシったらテクニシャンなんですもの」
「何の話ですか」
「もう、可愛いらしいわーホント。食べちゃいたい」
更にぎゅっと力を込められる。圧死しそうだ。ついでに噛み合ない会話と慣れない香りに、頭もパンクしそうだ。
「あの、悪ふざけは良い加減に……」
「まさか」
「え?」
「アタシはいつだって本気よ」
真っ直ぐな言葉と、細いのに抗うことのできない腕に翻弄されつづけた躯が僅かの自由を得て、抱き締めている相手の貌と正面から対峙する。声の真摯さに反し、貌はずいぶんと穏やかな微笑みだった。
それを意外、に思う間もなく。
ゆっくりと時間をかけて降ってくる影と、それから。
ただ瞳ばかりを見ていて、迫るその距離を不思議となんとも思わずに。
意識と躯がちぐはぐに、それと認識した。
「……ッは、」
「意外、に……」
慣れてるのね
嘯くその唇と、隙間から覗く舌がつい先刻までこの口腔を蹂躙していたとは思えないほどの呆気無さで、相手は腕ごとルルーシュを解放した。
「ギャラリーが居ると燃えちゃう方なの。だからこの辺にしておくわ」
さすがにルルーシュ殿下に悪いものね
茶目っ気のある笑顔を押し隠して、心底残念そうに呟く姿に得体の知れぬ危機感を覚えて恐る恐る振り返ると、そこには今まで見たことのない形相をした人物が2人、見事に同じ表情をして固まっていた。
「あ、兄上……」
もう1人はとりあえずスルーで。後でどうとでもフォローの入れられる人物だったので、まず眼に入った方を呼べば、取り残された方の1人は見てて判るほどのショックを受けたようだ。それに気付いた後でしまったと思うが、名を呼んだ方も呼んだ方で急務なのだから仕方ない。
シュナイゼルは自分が連れてきたであろうに、灰と化したスザクを後ろに突き飛ばしその反動でルルーシュへと駆け寄った。
「ル、ルルルルルルーシュ! 今すぐカノンから離れなさい!」
「は、あの、え?」
慌てるシュナイゼルなど滅多に見られるものではないので呆気に取られていると、気付いたら目の前一面真っ白だった。これはそう、シュナイゼルが好んで着る服だ。
「厭だわ殿下ったら、もうとっくに離れてます」
「カノン……なんのつもりかな」
布越しに聞こえる声が常よりも若干低く。シーツ越しに囁かれる甘い睦言よりも、胸に余韻を遺して響く。だけど、今はそれよりも。
「なんのつもりも何もないですわ。殿下がかわいがっていらっしゃる姫君をただ間近で拝見したかったのですけれど。思っていたよりもずっと魅力的なんですもの」
だからつい
耳孔に響いた恐ろしい一言に、けれど身を竦ませる前にぎゅっと力を籠められる。その力強さに目眩を覚え、途端、拡がる香りは
(……さっきと、同じ)
「つい、でルルーシュをからかわないでくれるかな」
「からかってなんか。本気じゃなきゃ手を出せないお相手でしょう?」
「なお悪いね。全く、ルルーシュも迂闊にカノンに近づいては……ルルーシュ?」
力を緩められ、離れた距離はふたたび腰をかがめられることによって狭められる。ふわりと舞った風に紛れた香りは、いつものシュナイゼルの香水と同じだった。
そのことに漸く落ち着いた心は、覗き込んできた瞳を素直に真っ直ぐに受け止めた。ついでに微笑みを頬から零せば、シュナイゼルお気に入りの可愛い弟君の出来上がりだ。
「……何でもありません」
「そんなことはないだろう。ああそうか、きっとショックだったんだね」
可哀想なルルーシュ!
些か大袈裟なアクションではあったが、それによって今までの一連の出来事が特になんでもなくなるのだから不思議だ。包容力とはちがう。そんな生温いものではない。
「ほんとうに何でもないんです。カノンさんは面白い方ですね」
「ルルーシュ……君は今、カノンに何をされたか判っていないのかな」
「判っていますよ」
にこり、微笑めばシュナイゼルは疲れたような貌で、男ふたりにもみくちゃにされた所為で乱れたルルーシュの髪に触れた。手袋越し、それでも伝わる優しげな感触と横目に映る長い指に高鳴る心を抑え、上目遣いで見上げれば髪を撫で付けるのと同じ温度の微笑みがルルーシュを見下ろしていた。
そして髪を繕ってくれたらしい指が耳を捉え、そのままの自然な動作でそっと耳朶に触れる。
―――今夜、おいで
いつもならばもっとあっさり交わされるはずのサインは、情欲に濡れた瞳とともに齎された。前髪に隠されたその色の原因を、さすがに判らぬはずもなく。
(……覚悟、しておくべきか)
了承を伝えるのも何処か虚しい心地がして瞼を伏せれば、それで満足したらしい指が頬の輪郭を捉え、そして離れて行く。それを名残惜しいと思う間もなく
「―――カノンには私からきつく云っておこう。ルルーシュは犬に咬まれたとでも思って赦してくれるかな」
総ての感情を押し殺した、帝国宰相が其処に居た。その瞳の奥、巧妙に散りばめられた弟を慮る兄の姿を見る。けれどその更に奥底に隠されたシュナイゼルの雄の姿もまた、ルルーシュは良く知っていたから何とも思わなかった。
「元より怒ってはいませんよ」
「そうかい? それはそれで問題だね。もうちょっと警戒心を持った方が良い」
「と云われましてもね。カノンさんは、悪気があったわけではないようですし」
「その通りですわ。ルルーシュ殿下は寛大でいらっしゃるのね」
「反省の色がないね、カノンは。ルルーシュに触れるというだけでも万死に値するということを良く覚えておきなさい」
「兄上……そこまで」
「そこまでの価値が君には在るんだよ、ルルーシュ。それを自覚しなさい」
どう受け止めるべきか迷い、困ったように微笑んで僅かに首を縦に振れば、シュナイゼルは納得したように深く微笑んだ。
ここに邪魔者さえ居なければ、きっとスザクだけだったなら額に小さなキスでも愛おしげな音と共に落とされるだろうに、と不満を覚えた心を咄嗟に力ない微笑みで覆い隠す。
「さて。折角君が居るんだからもうすこし戯れていたいところだけど、そうもいかないな。カノンの所為で君と語らう時間が減ってしまった」
「兄上はお忙しい身ですからね。また今度、お時間がありましたら是非チェスの御指南をお願いします」
「喜んで。可愛い弟のお願いとあれば、いくらでも時間を割こう。今日も、と云いたいところだけど、さすがにこれで失礼するよ」
君の番犬が今にも咬みついてきそうだしね
愉快そうに細められた眼に思わず振り返れば、取り繕ったような笑顔のスザクが未だドアの前で突っ立っていた。しかしルルーシュは振り向くまでのほんの僅かの間、射殺さんばかりの視線で其方を睨みつけていた瞳をしかりと捉えていた。
スザクが敵意を剥き出しにしていたのはシュナイゼルかカノンか。まさか皇族ということもあるまい、と思い、しかしカノンにされたことを考えればカノンに謝るべきか否かと考えている間に、シュナイゼルは颯爽と身を翻し笑顔の余韻を遺したまま更に奥の扉へと消えて行った。自然の流れで、カノンもそれにつづく。最後にルルーシュの方へ視線を投げ、口元に人差し指を立て意味ありげな流し目を贈ってから。
ふたりの姿が音も無く消え、重厚なドアの閉まる音だけが部屋に響くのを聞くと、自覚のなかった心労がどっとルルーシュに襲いかかってくるのを感じる。それを遣り過ごすべく溜め息をつくと、総ての息を出し切る前にガッと肩を抱かれた。
「ル、ルルーシュッ! 大丈夫だった!?」
ああ大丈夫っていうのも奇妙しいか。もう喰われ……ああ僕は我ながらなんて恐ろしいことをッ……!
聞くに堪えない恐ろしい台詞を喚くスザクを、とりあえず足を踏みつけて黙らせる。力で敵わないことは充分判っているので、ヒール部分で。持てる力を集中させて、思いっきり。
案の定「ぐぅッ」と声にならない悲鳴を上げ踞ったスザクを見下ろすと、何故だかむくむくと今更になって怒りが込み上げてくる。何故俺が。アンタたちの痴話喧嘩に巻き込まれなければならない
「……なぁ、スザク」
「何……?」
しかし涙目で見上げてくるスザクを見ていると途端何もかもどうでも良くなってきて、
「……何でもない」
身を翻せば、スザクはいままで痛がっていたその傷みは何処へ、と思うほど勢いよく立ち上がった。
「ルルーシュッ!」
「何、」
折角人が八つ当たりは止めようと思ってやった矢先。能天気に己の名を叫ぶ声に文句でも垂れようかと開きかけた口を、スザク自身のそれで塞がれる。罵倒すべく前に出した舌を、ここぞとばかり、強く吸い上げられた。
そこまでが素早い行動だったのとは反対に、ゆっくりと離れて行く唇を呆然と見遣る。真剣でありながら熱の籠った視線と、唾液を滲ませながら微笑む口元が奇妙にアンバランスな印象を抱かせた。
「……は?」
「口直し。して欲しかったけど恥ずかしくて云えないのかと思って」
違った?
笑顔で傾げられた頭に正に番犬を示す耳が見えた。
朦朧としかけた思考で云われた台詞をゆっくりと反芻し、唇が触れ合っていた数倍の時間をかけて漸く意味を理解する。その内容には収まりかけた怒りがふたたび熱を持ったが、同時に、その行為自体には間違いを見出せなかった。そうだあんな香りは真っ先に吹き飛ばしてしまいたい。しかし褒める気は毛頭無く、スザクに対する悔しさばかりが募る。
「……マルディーニ伯と間接キスがしたいのかと思った」
「ちょ、怖いこと云わないでよ!」
精一杯の強がりにそれでも真っ青に染まったスザクの表情に漸く心は解れかけ。そんな己の意地っぱりであまりよろしくはない性格を、しかし悪くはない気分で受け入れる。
「……俺も香水つけようかな」
「何いきなり。ルルーシュは特に体臭ないから必要ないと思うけど」
移すべき香りがないから、だから必要なんだ
スザクに意味が伝わるはずもないが、判られても困るので心の中だけで呟く。誤摩化したのはスザクだけじゃなく、己自身の心にも。
「別に良いだろ。そんな気分なだけだ」
「ふぅん? まぁ良いと思うけど。それなら用意しようか? どんなのが良いの?」
「……ムスク以外なら何でも良い」
「変に具体的だね」
スザクの周囲の温度が僅かに下がったことに、妙な充足感を得る。それでもちらりと垣間見えたスザクの不満を野放しにするのも気が引けて、ルルーシュの思惑を多少なりとも汲んだ御褒美にスザクの香りをルルーシュに移すことを赦してやっても良い、と。思ってスザクを見てみると、しっかり期待を込めた瞳が一途に此方を見つめていた。
全く、腹立たしいことこの上ない。それでもこの眼差しに弱い己を重々承知の上、「痕だけは遺すなよ」と僅かに己よりも低めの位置に在る顎に手を添えれば。「それは保証できないかな」と堂々と嘯いた唇を容赦なく咬んでやる。そんなルルーシュの行為にさえ嬉しそうに細められる瞳にこの変態、と胸の内で毒づいて。この痕を、もうひとりの変態に見せつけてやれれば良いと、そんな風に思いながらも結局、どうにかして誤摩化そうとするであろう己が容易に想像できて、そんな自分に吐き気がした。