妖精の住む庭





「なんだか最近機嫌が良いみたいね」
「……そうですか?」
「ええ、随分と表情が明るくなったような気がします」


ティータイムにお茶をお淹れすべくユーフェミアの傍らでティーセットを用意していると、彼女が愉しそうにスザクを見上げて話し掛けてきた。倖せの瞬間だ。こうして、名誉ブリタニア人である自分にも何の屈託もなく話し掛けてくれる存在が、一度は遠退いてしまったと思っていた存在が、すぐ側に在る。スザクはそれを直にお守りすることができる。
そのためなら、始めは失敗ばかりだった紅茶の作法でさえやってのけよう。


『変わったな、お前』


頭の奥で響いた声には気付かないふりをする。


『前はそうやって、人に仕えることを良しとするような人間じゃなかったのに』


その声の主が過去の己なのか、それとも過去に何よりも守りたかったはずの存在なのかは判らない。
けれどそんなことを考えるよりは、折角ユーフェミアが明るくなったと云ってくれた表情を曇らせないことの方が大事だった。


「良いことだわ。誰かが寂しければ、わたしも寂しいもの」


彼女は……優しい。ほんとうに慈愛の姫という言葉がぴったりだ。けれど決してお飾りなんかじゃないということは、行政特区日本を宣言したあの行動力が証明している。
ほんとうに素晴らしい方だ、彼女は。何よりも優先してお守りしたい。一度は皇帝に跪いた身ではあるが、心からこの身を捧げようと誓ったのは彼女だけだった。そう、スザクはブリタニアに膝を折ったのではない。ブリタニアの中で唯一咲き誇る花に惹かれたのだ。


『だが彼女が手を伸ばすのは、所詮は目の見える範囲だけ……。汚い世界など何も知らずに、自分の周りだけ綺麗であればそれで良いんだよ』


また声だ。
声、声、声。ただスザクを惑わそうとし、スザクの信じるものを否定しようとする声。スザクを苦しめようとする、声。
お前は一体誰なんだ?
俺か? それとも……お前、なのか?


「スザク? どうかしました?」


ユーフェミアの問い掛けにふと我に返る。
最近、この声に呑まれそうになることが多々あった。


「―――いいえ。すみません。ただ、私は殿下に気を遣わせていたようで……」
「まぁ、当然だわ! わたしたちは志を共にするお友達なのだもの。心配をするのはあたりまえよ」
「そんな……勿体無いお言葉です」
「何を云うの。それにね、わたしはユフィよ。他に誰も居ないわ」
「しかし、殿下」
「ユフィよ。わたしたちはお友達。名前で呼び合うのは当然でしょう?」


ユーフェミアはにこにこと微笑んで、スザクを期待するような瞳で見ている。
敬愛すべき相手ではあるものの、その無邪気な視線に勝てるわけがなかった。


「ユフィ……君には敵わないよ」


表情を和らげてユーフェミアのお願いに応じれば、彼女はますます嬉しそうに微笑んだ。


「良いわね。そういうスザクの方が、わたしは好きだわ」
「そう云われても……」
「ルルーシュが云っていたのよ。スザクは昔はもっと横暴なやつだったって!」
「ユ、フィ……」


台詞の明るさに比べて、ユーフェミアの表情は切なげだった。まるで泣く一歩手前というような、臨界点ギリギリの危うさだ。
スザクはしかし、こういうときに彼女に伸ばす手を持っていなかった。
彼女の想いも彼の想いも知らず、ただ信念だけを追い求めて随分と先まで疾走したのはスザクだ。


『そうお前はただ自分の信念を曲げなかっただけ……だから誰もお前を責めやしないさ。だがそれで得たものはあるのか? 何かを変えられたのか?』


またお前か!
スザクは脳内に響く声を振り切るように首を振った。
しかしユーフェミアにとっては、それはスザクの苦悩にしか見えない。


「そう……だからね、わたしはスザクにはなあんにも取り繕わずに居て欲しいのよ」
「え?」
「他の皇族や軍人たちの前ではそうもいかないだろうけれど……せめて、ね。わたしと居るときくらいは、肩肘を張らなくて良いの」
「そんな、つもりは……」
「ええ、でもスザク。あなた表情が硬かったもの。そう、そうだわ、何かあったの?」
「何か、って?」
「だって最近のあなたは、とても愉しそうだったわ。羨ましいくらいに!」
「あ、その」
「ねぇ、何か愉しいことがあるなら、わたしにも分けてくださいな。お姉さまが外出を禁じるから、毎日がとてもたいくつなのよ」
「それは、でも……コーネリア殿下も、ユフィが心配なんだろう?」


何せ一度は危篤になったのだ。コーネリアの過保護もスザクにとっては正当な気さえする。


「そうなんでしょうけど……でももう、わたしは元気なのよ。それは、特に日本人の皆さんに顔を見せるわけにはいかないけれど……」


哀しそうに顔を伏せるユーフェミアに、スザクはギリ、と奥歯を噛み締めた。そんな顔をさせるために今ここに居るわけじゃないのに。
けれどスザクの立場は、ユーフェミアに慰めの言葉を赦さなかった。きっとユーフェミアも望んではいない。だから、スザクはせめて笑顔に戻るような話題を、と脳をフル回転させた。


「あ、の……猫を……」
「え?」


だからと云ってなんだってその言葉が出たのだか。
自分でも判らなかったが、一度出した台詞は元には戻らない。しかもユーフェミアはしっかり期待のような声で反応してしまっている。だからスザクは観念して大人しく話を続けることにした。


「猫を、拾ったんだ。数日前に」
「まぁ。まぁまぁまぁ! だからスザク、ここのところ機嫌が良かったのですね!」
「え、っと」
「猫さんとはいつも片想いって、嘆いていらしたものね」
「……そんなこと、云ったっけ?」
「云いましたわ! 初めてお会いしたときに!」
「あ、ああ……そう云えば……」


まだユーフェミアのことをただの少女だと思い込んでいたときのことだ。今まで生きてきた年数からすればほんのすこし前のことなのに、もう随分と昔のことのような気がした。


「良かったわね。機嫌が良いってことは、きっと懐かれているのね。あら、でも拾ったって……どこで?」


基本的に王宮の、しかも定められたこの部屋にしか居ないユーフェミアに合わせて、スザクもそのほとんどを王宮で過ごしている。ユーフェミアの部屋と、後は宛がわれたスザク自身の部屋と、時折データを取るなどと云って特派に行くくらいだ。
今は特派もシュナイゼル殿下のお膝元、ここ本国の王宮内に居る。
それを知っているユーフェミアは、だから猫を拾うような場所などあるのかと訝しんだようだった。それは当然だ。スザクもまさかあんなところに猫が居るとは思わなかったのだし……


「それが、王宮なんだ」
「王宮って……あら、迷い込んでしまったのかしら?」
「たぶん、どこからか……首輪もしてないし、随分弱っていたから誰かの飼い猫ってわけじゃないんだろうけど……」
「まぁ。大丈夫なの?」
「あ、うん。大分元気になったよ。ほんとうはすぐにでも誰かに報せようと思ったんだけど、あまりにも衰弱してたから、云うに云えなくて」
「そうだったの……でも、元気になったなら良かったわね」
「うん。これなら飼い主を探すなり何なりできそうだよ」
「あら。スザクが飼うのではないの?」
「まさか。そんなことできないよ」
「だってスザクが世話をしたんでしょう? そりゃ、元から誰かが飼っていたなら別でしょうけど」
「そうだけど、でも、僕の部屋じゃね。改めて云われたことはないけど、きっとペットなんか禁止だと思うよ」
「そう……それもそうね、宿舎では……。ねぇ、その猫さん、王宮のどこに居たの?」
「え?」
「そこから猫さんの正体を知ることができるかも知れないわ。どこから来たのか、気になるじゃない?」


ユーフェミアに他意はなく、その表現を面白がっているのは判っていた。けれどスザクは気にせずにはいられない。
だってあまりにも、符号が揃っているから。


「どこって……」
「もしかしたら近くに飼い主が居るかもしれないし、ね」
「それは……ないよ」
「あら、どうして?」
「だって、あの子が居たの……アリエスの離宮だったから」
「、アリエスの……?」
「うん」


あのとき、薔薇の花を傷つけないようにと気をつけたのは誰のためだったんだろう。あのうつくしい兄妹が幼少の時分過ごし、そして悲劇に遭った場所だとは聞いているけれど。


「そう……そうなの、アリエスの……」


ユーフェミアの、彼らへの深い愛をスザクは知っている。いや、思い知らされた。
だからきっと、あの庭を守るよう本能が働いたのはユーフェミアのためだ。そう思うことにする。


『……ほんとうに?』


ほんとうだ!


「その猫さん……どういう子なの?」
「え?」
「スザクに懐いた猫さん、気になるわ」
「……そりゃ僕は、嫌われてばかりだけど」


ユーフェミアにまでからかわれた自分の猫からの嫌われっぷりに、スザクはさすがにちょっと拗ねた。けれどユーフェミアに笑顔が戻ったので良いことにしよう。


「ねぇ、どんな子?」
「その……黒猫で。まだ随分小さいよ。生まれてすぐじゃないかな」
「あら。じゃあリボンはきっと赤が似合うわね。あ、だめだわ、瞳の色も考慮しないと。ねぇスザク、瞳の色は?」
「……ほとんど寝てばっかりだからあんまり見てないけど。でも、紫だったんじゃないかな……」


ユーフェミアの動きが止まった。
そりゃそうだ。別に変なことを考えているわけじゃないが、それにしたって符号が。揃いすぎている。
ユーフェミアはけれど静かに息を吐くと、窓の外へ切なげに視線を寄越した。


「まぁ……まるで、ルルーシュね。わたし、会いたいわ……」
「え?」
「会いたいわ、その子に……。もう元気になったのでしょう? 連れてきてくれる?」
「で、でも……あ、そうだ。病気とかかも知れないし。ちゃんと検査してから……」
「あら。スザクは一緒に暮らしているのに?」
「僕は……丈夫だから……」
「でもそれでわたしのところへ来ていたらおんなじよ」
「あ゛、」


今更気付きました、というように慌てたスザクに、ユーフェミアは手で口許を隠してくすくすと笑った。


「ねぇ、大丈夫よ。わたし、暇なの。猫さんが居てくれたら嬉しいわ。誰も飼い主が居ないのだとしたら、私が飼えば良いのよ。そしたらスザクも毎日会えるわよ、スザクに懐いた貴重な猫さん」
「う……」
「ね? なんなら、本人に聞けば良いんだわ」
「本人?」
「あら、ほんとうに覚えてないのね。わたし、猫さんとお話ができるのよ」


あの時は苦笑したそのユーフェミアの台詞に、今はなんだかとても縋りつきたい気分だった。