「あ! お前―――」 我武者羅にキィを打ちつづけた結果何とか解放された968番は、人気の無い廊下を向こう側から歩いてくる人影に、何とはなしに顔を上げた。そしてその人物を認識するにつけ、死んだように暗い顔から一転、ぱっと表情を耀かせ……声を掛けてから漸く気付いた人違いに、またみるみるうちに表情を萎ませた。 「失礼なヤツだな」 その明らかな968番の変化には、さすがに声を掛けられた方の人物も些か気を悪くしたようだ。彼は肩を諌めると同時に足を止め、968番に向けて深く呆れたようなため息をついた。968番との距離は、5メートルほど。また随分と、中途半端な距離だ。968番は、自分の所為とは云えそのあまりな態度に文句でも云ってやろうかともう一度顔を上げたが、口を開く前にあれ? と首を捻った。 「あれ? アンタ、あんときの似非インテリ?」 「……何だ、ソレは」 「え、だって便所サンダル……じゃ、ねぇな。それに、眼鏡……」 もう一度、968番はあれ? と首を傾げた。 確かに目の前に立つ人物は、さっきのサッカー少年との愉しいひとときを打ち壊してくれた人物に間違いないと思ったのだけれど。彼は、特徴的な便所サンダルではなく何の変哲も無い(――と評するには、些か高級すぎる)革靴を履いていたし、さっきはかけていなかったはずの眼鏡をかけていた。それに、良く見たわけではないから自信はないけれど、その眼鏡はあのサッカー少年のものではないだろうか? それを指摘すると、相手はニヤリと表情を歪ませた。968番は、今の革靴眼鏡の彼なら似非ではなく真正のインテリだ、と思っていたが、その表情はやっぱり似非だと思い直した。ただし、便所サンダルに感じ取ったものとは正反対の意味で。 「へぇ、目敏いな。さすがはクローバークン」 「は……?」 「アイツがそう呼んでたからな」 「アイツ、って」 その瞬間、968番の頭を数々な情報が駆け巡った。 恐らくは、アイツイコールさっきのサッカー少年だということ。つまりこの似非インテリは、968番ではなくサッカー少年の方を声を探していたのだということ。そして多分、サッカー少年はこの似非インテリに捕まってしまったのだろうということ。だが、サッカー少年は、しっかりと968番の正体に気付いてくれていたということ。そしてクローバーという、直球ながらになかなか嬉しい渾名で呼んでくれたということ。そして―――そして、この目の前のインテリは、良く良く見ていると彼……サッカー少年と、瓜二つだということ。眼鏡を掛けているから余計かもしれない。 なるほどこれなら、つい先ほどうっかり見間違えてしまったのも、仕方の無いことだと云えるだろう。 そのくらい、彼らは似すぎていた。 「……アンタ、アイツの何?」 「目敏い割に、気付くのは遅い。認識の能力が欠けてるんじゃないのか?」 「良いから答えろよッ!」 「プラス、短期な上に学習能力が無い。―――なぁお前、そんなんじゃこの先ここでやっていけねぇよ?」 その態度に、968番はカッと身体のどこかが刺激されたかのように煮えたぎった。 けれど、相手はどこまでも冷静で、そのあまりの落ち着きように、968番も引き摺られるかのように一瞬上がりかけた肩を落とした。それでも968番の腹の中では怒りがぐるぐる渦巻いている。 だが、このまま反論しても勝ち目なんてないことくらいの判断はできたから、968番は押し黙った。 そうしてから落ち着いて云われた台詞を反芻してみたら、相手の云っていることは確かに正しいとさえ思った。そうだ、コイツは正しい。968番はここに来てから感じ取っている暗黙の了解のようなものを今更思い出した。 「ここで、そういった詮索の類いは禁物だ。例え、相手が気にしなくともな」 「そう、だよな。……悪い」 急にしおらしく謝った968番の態度に、今度は相手の方が何かを感じ取ったようで、意外そうに目を見開いた。 「……何だよ」 「いや、うん。そうだな、学習能力が無いって項目は、お前の欄から消してやるよ」 「……そりゃ、どうも」 「それから、ひとつ。俺はお前を気に入った。だから、教えてやる」 「はぁ?」 「俺は“アイツ”とやらの何なのか、それを聞くのは詮索だが、“アイツ”は何者か、それを訊くのはここの同僚として極自然な質問だ」 「……まわりくどい云い方だな」 「それが洗礼だ、と、云ったら?」 「ますます、嫌いになるだけだ」 「ま、そうだろうな」 何を、とは云わなかった。けれど相手はくつくつと喉を鳴らすと、まるで判っていますというような何ともむかつく表情を見せてくれた。だから、968番は何も云わなかった。何も、弁明すら。それでも相手はきっと、総てを見通したような目をして、笑うのだろう。包み隠しておきたいことすらその慧眼で見抜いて、嗤うのだろう。それは不公平だ、と。思ったけれど、968番に差し出せるものなどあるはずもなかった。 「じゃあ、“アイツ”の名前と、できれば所属を教えて欲しいんだけど」 「素直だな」 「それが、ここでやっていくコツなんだろう?」 「そうだ。詮索に分類される質問だとしても、興味のあるような顔をしないことだ。お前なら、それができるだろう、968番?」 「ああ……普段は、そうしてるつもりなんだけど」 「仕方ないさ。910はいつもそう。周囲を巻き込んでおきながら、責任なんざ取らずに傍観しているんだ」 愉しげにな 皮肉でも悲観でもない、ただ事実を淡々と述べる云い方だ。だから、968番は相手の感情を読み取れずに戸惑った。しかし、968番はその雰囲気に呑まれるほど未熟でもなければ、話を聞き逃すほど鈍感でもない。 「きゅうひゃく、じゅう」 「お前が知りたかったのはそれだろう。……尤も、アイツを示す記号はそれだけではないけどな」 「910……クドウ?」 「何だ、知ってたか」 彼はいかにもつまらない、という表情を見せたが、968番はそれどころではなかった。 「……アイツが?」 「お前が今何を思い出しているのか……そんなもんは手に取るように判るが、」 「そうじゃない!」 「あ?」 「そうじゃ、ない」 彼の云う通り、968番の頭には様々な声で聞かされた様々な話が情報として渦巻いていたし、それは彼の想像の通りだと思ったが、それでも968番は否定した。 それは彼の表情が嘲笑の類いのものだった所為というよりも、968番自身がただ赦せなかった所為だった。……何を?彼を? そんな話をしていた同僚を? それとも、―――自分、を? 「何がだよ。新人には注意事項と一緒に必ず伝えられる話のはずだ。910の伝説はな」 「そりゃ、色々クドウって奴については聞いてるけど、俺は別に何とも思ってなかった……わけじゃないけど、えと、別にそんな噂とかどうでも良かったし……」 「あー……まあ、云いたいことは何となく判った。確かに、968番はそうだろうな。敵対心も、羨望も、抱く必要は無い」 だってお前は恵まれている そう、声にならない追及が響いてきた気がしたが、968番は敢えて受け流した。彼も別にそれについて968番と論議する気は無いらしく、話のつづきを促している。だから968番は、話の矛先を変えられるよりは、と思い、開き直って正直に云うことにした。純粋無垢を装うことが、ここを生きるコツだ。それは、彼との会話の中で厭というほど思い知った。 「実際会えるとは思ってなかったから、寧ろ暇な奴らだなぁって、話聞きながら厭な気分になってた。頭良くたってやること変わんねーよな、って。でも、俺だって暇だからてきとーに話は聞いてて。そんで、変人ってとこだけ気に入ったから、会ってみたいなーとは」 「へぇ?」 「だって、アンタだからもう云っちゃうけど、ここの奴らが変人って云うんだぜ? 変人に変人って云われるんだぜ? 裏の裏は表ってのと一緒でさぁ、よっぽど普通なのか、それかよっぽどぶっとびすぎてるかのどっちかだろうと」 「で?」 「で、って?」 「会った結果、オメーはアイツをどっちだと思った?」 「……えー、」 えーと、と968番は返事を先延ばしにした。 どっち、だろう。 答えたくなかったけれども、相手はきっと見逃すなんて甘い真似はしてくれないだろうと思った。だから考える。そう云えば、相手とあの910番との関係も知らないままだから、あまり下手なことは云えない。云えないけど、既に後の祭りのような気もする。 910番。 噂では、968番とは違うタイプの天才と云われ、このラボでも一目置かれていて、随分と長いことここに居るから主みたいになっていて、絶対ラボから出ないはずなのにラボのどこ探しても居なくて、絶対ラボから出ないはずなのにラボでは手に入らないはずの色々なものを持っていて、やろうと思えばすごい業績残せるのにいつも意味の判らない変な研究ばっかりやっていて(その最たるものはくまのプーさんとその仲間たちの再現だと聞いた。ホントかどうかは知らない)、すごい美人で、ここの責任者と関係があるとか何とかで、でも全く性格が読めないんだ、そう968番に告げた声は、羨望でも厭味でも嫌悪でも、そのどれでもなく、ただ不可解なんだ、というその事実だけが伝わってくる話し方だった。 実際の彼は、ああ確かに美人だった。それで、確かに読めない性格をしていて、でもサッカーは好きで、研究から逃げていて、華奢に見えてスポーツはできて、他の同僚よりはよっぽど話が通じて、でも割と突拍子も無いこと云ったりして、顔に似合わずこどもっぽくて、それから、それから。 「どうした。910は噂の通りだったか?」 彼がせっついてくる。 ああ、答えなければ。逃げられない。答えなければ。彼が痺れを切らしてしまう前に。彼と再会する手立てを失う前に。答えなければ。910番は普通だったか、ぶっとんでたか、そのどっちだった? 「……俺は、」 「ああ」 「俺は、……アイツが、」 「ああ」 「910が、隣にプーさんを連れて話しながら歩いてても、別にびっくりしないと思う」 「ブッ……」 「ふへ?」 968番は、必死に答えたはずだった。必死に、今思いつく限りの彼の印象について、一言で答えるべくものすごく言葉を選んだはずだった。 なのにその言葉を聞いた相手は変な声を上げたかと思うと、そのまま蹲ってしまった。心なしか、肩が震えている。 「お、おい?」 何かまずいことを云っただろうか。やっぱり、思春期の男子(だと思う)にプーさんはまずかっただろうか。 「い、いや、成る程ね……プー、ね……クッ」 「あの……」 「悪ぃ悪ぃ。いや、久々に笑かしてもらったわ」 「はぁ……」 相手は先ほどよりは落ち着いたものの、目尻に溜まった涙を拭うこともなく、腹を抱えている。何だ、笑ってたのかと968番は思った。なら良かった。……いや、それとも馬鹿にされたのだろうか。だとしたらやっぱり良くはない。 「プーの研究はここ最近のアイツの集大成だ。何故かピグレットの方が先に完成しそうだと嘆いてたっけな」 「あの話マジだったのか!?」 しかも嘆くべきはそこじゃないだろう。 「何だよ、だから云ったんじゃないのか?」 首を傾げた相手は、さすがに笑いを収めきったようで、また人を小馬鹿にするような独特の笑みでもって968番を見据えていた。 「いやぁ、噂は噂だし。そうか、マジだったんか……」 「良かったな。そのうち、プーを連れたアイツが見られるかも知れないぞ」 「別に嬉しくないよ……」 「問題は声だとか云って、必死で声真似するアイツは見物だけどな。ああ、でもなかなかぬいぐるみの質感は出ないと躍起になってたっけな。こう……クリストファー・ロビンのように引き摺りながら階段を降りたいらしいんだが、どうしたって機械音が邪魔をする」 「うん、それは割とどうでも良い」 きぱッ。 答えた968番に、相手は何だよと云ってつまらなさそうに肩を落とした。日本人のような顔立ちでありながら西洋人のようなその動作がいかにも嵌っていて、青少年・968番としてはすこし、面白くなかった。 「じゃあ何だよ。ああ、910の居場所だっけ?」 「え? あ、うん。そうだけど」 何か今の話聞いてたら、ほんとうに会いたいのか良く判らなくなってきた…… げんなりとした968番には構わず、相手は腕を組んで思考の体制に入っている。 「アイツもなぁ。オメーと一緒でなかなか捕まんねーしなぁ」 「……結構、噂って合ってるんだ」 910番にまつわる話のひとつ。ラボ内に居るはずなのに、なかなか捕まらない。プーと云い、噂はなかなか侮れないようだ。 「そりゃ狭い世界だしな。それに、頭は良い奴らばかりなんだ。恨み・妬みはともかく、記憶違いや勘違いで話が変わってくってことはねぇし」 「そーいやそうかー」 「管理室なら居ることが多いけど。オメーは来れねーだろ?」 「管理室、」 「ゼロの居るところだ」 910番にまつわる話のひとつ。ここの責任者と、関係があるらしい。……たかが噂、されど噂。侮れない、らしい。 「ゼロ、って。責任者、だっけ」 「そうそう」 「……許可要るじゃん」 「アイツは関係ねーよ。ま、俺もだけど」 「え、」 思わず驚いた968番だったが、すぐにそりゃそうかと思い直した。 そりゃそうだ。だって、目の前の彼は910番とそっくりなんだから。関係在ってもおかしくはない。 だけど、ゼロ。 ゼロと云えば、絶対に部屋から出てこない謎の人物だ。ここの創始者の末裔とかで、この世間から隔離され閉塞しているラボと、外に居る経営陣との橋渡し役。会うにはそれなりの理由が必要。968番がここに来るときだって、その肝心の責任者とやらには会わせてもらえなかった。 そんな責任者と、アポなしで会える人物がここに。 ―――どうやら、ものすごい人物とお近づきになってしまったらしい。 「別に、この中では偉いも何も無いんだから気にすんなよ」 「そ、りゃそうだけど」 ラボでは、功績を上げた者や研究室の代表者は尊敬の眼差しで見られることはあれど、上に立つということは無い。そもそも、社会的な身分など必要の無い場所だ。纏め役だって、年功序列やここに居る年季によって便宜的に定められているだけ。ラボに地位というものは存在しなかった。同時に年齢や人種、性別による差別も無いわけだが。 「まあでも、そんなわけでな。910に会うことは、なかなか難しいかも知れない」 「そっかぁ……」 「でも、アイツもオメーのことを聞いてきたしな」 「え! マジで!?」 再会のチャンスを失ってしまったかと、一瞬塞ぎ込んだ968番だったが、新に齎された情報に再び意気込んだ。 「おう。でもオメーも似たようなもんだろ?」 「そうなんだよねー。だから俺から探すしかないかと思ってたんだけど」 「さっき会ったのも偶然か? なら、また会える可能性だってあるんじゃねー?」 「ホント!?」 「お互いが探してりゃ、そのうち会えんだろ」 何しろ時間なんて、腐るほどある 吐き捨てるような彼の台詞は、しかし、968番を決起させるには充分だった。 「そうだ……そうだよな! うん、やる気出てきた!」 「そりゃ何より。何でそんな会いたいんだかは知らねーけど。まぁ間に立たされた俺としては、寝覚めも悪いしひとつ切欠でも与えてやろうかと」 ぽー、ん。 何かが飛んできた気配に、思わず968番は反射的に手を前に出しその物体を受け止めた。 「……サッカー、ボール」 「アイツに隠しとけと託されたモンだ」 「……マジック?」 「残念。科学の集大成だ」 そう云って近づいた相手は、968番の手の中にあるサッカーボールに手を当てた。すると途端にしゅわしゅわとボールが萎んでいくではないか。 「え?」 「こゆこと。仕組みはオメーなら判るだろうし、面倒だから省略するわ。良く見ればスイッチみてーなもんがある」 「ふぅん……」 科学か。それもまた面白い。 ふと、プーの実現化は学問で云うと何になるのだろうかと思ったが、果てしない論題である気がしたので止めた。それが判れば、その研究室に彼が居るのではないかと思ったが、行動を読めないからこそ彼は910番なのだ。期待をかけるだけ無駄だろう。 「一応隠しとけよ。娯楽が禁止されてるわけじゃないが、あまり良い顔をされないのが現実だからな」 「うん、判った。有難う」 「どー致しまして。俺の方が先にアイツに会ったら、ボールは968番に渡したっつっとくよ」 「うん、宜しく……―――シャーロック君」 「何だ、知ってたか」 968番が何となくの確信を持って問い掛けると、彼―――4869番は、さっきも見たような仕草と台詞で残念がって見せた。 「910番の次に話を聞くから、何となくそうかなって」 「ふむ。だが俺は、もうシャーロックではなくなったらしいぞ」 「へ? ナンバーが変わることなんかあるのか?」 「いや、ナンバーじゃなくて。あの気紛れが、良い加減飽きたらしくてな」 気紛れ。 4869番は、さっきも彼のことをそう評していた。何より、会話の流れで行けばもう910番以外には考えられない。 やはり彼らは、相当近しい存在のようだ。 「じゃあ、今は何て?」 「コナン、だ」 「コナン」 「ああ。だけど正式にはもちろん4869―――好きに呼んだら良いさ」 そう目を細めながら、4869番は既に歩き出していた。 「あ、コナン! お前の、所属は?」 「薬学、だよ。クローバー」 後ろ手をひらひらさせながら、用は済んだとばかりにさっさと足を進める。確かにもう呼び止める必要は無いと悟った968番は、大人しく彼の背中が見えなくなるまで見つめていた。 彼の進行方向にあるのは、薬学研究室だったか、管理室だったか。 今まで興味が無かった所為で、ところどころ穴のある地図が968番の頭に思い描かれた。その地図には、果てなど無い。ただ、968番の拙い記憶の所為で途切れているだけだった。 |