「全く……すぐそうやって抜け出すんだから」


いつも「楽だから」という理由で便所サンダルを履いている人物が、嫌っているはずの革靴に足を嵌めているのを横目で見ながら、910番はサッカーボールの汚れを拭いていた。久々に酷使したサッカーボールは、おかげで泥はついたものの、本来の目的を遂げて嬉しそうだ。
それにしても良い相手を見つけたよなぁと、910番はにやけそうになる顔を押さえつけて、むりやり反省している顔をつくった。


「悪かったよ、シャーロック」
「俺はシャーロックじゃない、4869だ」


同じようにお前も、そう云われた気がしたが、910番は笑ってその文句を受け流した。


「じゃあコナンでも良いな。うん、その方が可愛らしくて良いじゃねーか」
「良い加減にしろよ、910」


可愛いって何だよ、その反論を期待していた910番は、吐き捨てた彼におやと首を傾げた。


「何だ、機嫌悪ぃな」
「悪くもなるってもんだ」
「ンだよ、何かあったか?」
「あったというより、なかったから問題なんだ。あるはずのもんがなくて、被害を被るのはいつも俺。割に合わない」


そこまで云われて漸く4869番の不機嫌の理由に思い至った910番は、苦笑してぽんぽんと4869番の頭に手をやった。最初こそ眉を顰めた4869番も、結局何も云わずされるがままになっている。悪かった、という謝罪は、彼の中で意味を成さない。それを知っているから、910番はただ頭を撫でた。


「俺は誘ったぜ?」
「残念ながら、俺は小心でね。長いものに巻かれるタイプなんだ」
「長いものねぇ……」


それは、大好きなはずのサッカーを蹴ってまで巻かれるものなんだろうか。
彼が便所サンダルを履くのは、910番によるサッカーの誘いを断るためなのだと、910番はちゃんと知っている。確かにサンダルじゃサッカーはできない。できないけど、いつだってその顔は外に焦がれていて、その視線は真っ直ぐ910番の手元のボールに注がれているというのに。


「じゃ、被害者のコナンちゃんのために、俺はそろそろ行くとしますか」
「……それは確定なのかよ」
「コナン? お前が、厭じゃないのなら」


910番は、4869番の厭がることは絶対にしない。それはまあ、その番号をもじってシャーロックと呼んでいたのは、ちょっと呼んでみたかったというのもあったのだけれど。


「好きにしろよ、もう……」
「諦めたのか?」
「さぁな。それより、さっさと行ったらどうだ?」
「そうだな。俺がいないからってコナンに当たってた不埒者は、このクドウ様が懲らしめてやりましょう」
「……ソレ、余所では云うなよ」
「問題ないだろう。だって俺は、910だ」
「だけど……」


4869番が云い淀んだその先を、一字一句違わずに910番は読み取ったけれど、唇の前に指を立てて制した。
その代わりと云わんばかりに、自分のしていた眼鏡を外し、4869番にかけてやった。もともとこれは彼のものだ。逃げ出すとき、目晦ましになるかと思い拝借した。そうしながら、ふとさきほどの眩い笑顔を思い出す。湧き起こるは、郷愁。けれど910番は密やかにそれを受け流し、4869番には微塵も感じさせず微笑んだ。そうあれは……久々の、感覚だった。


「ああ、そう云えば―――」
「何だよ」
「俺と同じような奴に、今日会ったな」
「……さっき一緒に居たのは、968番か」
「ああ、それ。そのクローバー君」
「クローバー……?」
「な? 同じだろ?」


逸らされた主題に気付きながらも、4869番はため息をつき大人しく910番の思惑に乗った。


「まぁ、数字で定着した呼び名に無駄な努力を働きかける辺りはな」
「何を云う、人生のスパイスだろ。人生はちょっとばかり辛口の方が、渡っていくのに面白い」
「どうでも良いよ、もう。とにかくさっさと行け」
「冷たいな、コナン」
「俺が優しいことなんて今まであったか?」


軽口で云う4869番の瞳は、けれど笑っていなかった。910番はいつものこととばかりに応対したが、そろそろ引き際だと悟り、大人しく綺麗になったボールを預けた。


「行くよ、行くさ。すぐ戻るから、ソレは預かっててくれよ」
「判った、没収だな」
「やだな、コナン。俺が新刊手に入れたの知ってるのー?」
「……判った、隠しとく」
「サーンキュー。って、革靴に履き替えたってことは、オメーも来るんだろ?」
「別口だ、これは」
「ふぅん? まぁ良いや、んじゃ俺はご機嫌取りに行ってくる」
「はいはい。精々、ゼロに殺されないようにな」
「大丈夫だろ。何せ俺は、910だ」
「あ、っそ」


つい先ほども聞いたような台詞に、4869番は呆れたような表情を浮かべたが、910番は構わず次の部屋へとつづく扉に手を掛けた。
だが、ふと思いついて4869番の方を振り向く。彼は、910番がちゃんと部屋へ入るかを見張るかのように視線を動かしてはいなかった。


「―――なぁ」
「何だよ」


早く行け、そう云わんばかりにせっつく視線に苦笑して、910番は口を開いた。


「さっきの……」
「さっき?」
「そう、クローバー君」
「ああ、奴がどうかしたか?」
「アイツの所属、知ってるか?」
「所属? そんなの、あって無いようなもんだぞ。どこでも引く手数多だから、どこにでも居るし、どこにも居ない」
「なるほど。……専門は?」
「オールマイティー」
「ほほう。そりゃ、けったいなこって」
「重宝してるが、如何せん本人にやる気がないのが難点だな」
「へー……じゃあ、どこに居るか判んねぇのか」


些か残念そうな910番の様子に、4869番は首を傾げた。


「そうだけど……奴がどうかしたか?」
「いーや、別にぃ」
「……ヤな感じだな」
「何とでも。あ、じゃあさ」


ぱっと明るくなった表情に、何かしらの危機感を覚えたようで、4869番は後ずさった。その様子にも910番は構わず、目を輝かせている。


「……何だよ」
「ソイツ、やる気にさせたらさ」
「無理だな」
「まあ聞けよ。そしたらさ、俺の願い、叶えてくれるか?」
「……それは俺にできることか?」
「余裕で」
「なら良い。酔っ払いの戯言として受け取っておこうじゃねーか」
「強気だな」
「それなりの実績ってヤツが、アイツにはある」
「へぇ。オメーにそこまで云わせるとは、あのクローバー君はよほどの人物だな」


愉しそうだ。
呟いた910番の声に、4869番は胡乱気な眼つきを寄越した。だが総て、無駄なことだと経験が物語っている。だから4869番は、説得という言葉など最初から知らなかったかのようにしっしっという動作つきで910番を追い出しにかかった。


「話はそれだけか? なら、腹括ってとっとと行けよ」
「はいはい」


910番は大人しく背を向きかけたが、それを今度は4869番の声が遮った。なぁ、という、小さな微かな呼びかけに、しかし910番は耳聡く聞きつけると笑顔で振り向いた。


「―――そう云えばオメー、さっき、968番と何してたんだ?」


訝しげな4869番に、910番は笑顔を妖艶なものと変え、


「……秘密」


それだけ、答えた。