「……それは寧ろ段階の問題だと思うが」
「げっ……」


独り言を拾われて、968番は思わず飛び起きた。ついでに下品な奇声を発してしまったことについては、もう愛嬌ということで許して欲しい。
968番は状況を理解するのに数秒を要したが、木陰に眠っていたはずがいつの間にか影の方に移動されている辺り、時間を追うのは無駄なことだと諦めた。パノラマに映し出されたにせものの太陽は、しかし正確に、ほんものの時間を東西南北に示している。


「悪ぃ、起こしたみたいだな」
「え、い、いや。平気……」


ころころころ、とん。
後ろ手を突いたまま上半身を起き上がった格好をした968番は、声を掛けてきた人間の顔を見るより先に、足元に転がってきた物体の方に興味を引かれた。


「……サッカーボール?」
「勝手に転がってっちまうから追いかけたら、人間が転がってるんだもんな。びっくりだ」


いや、俺の方がびっくりだよ
968番がその言葉を口に出さなかったのは、単純におどろいている所為で、声の主がゆっくり968番に近づいてそのボールを拾い上げるまでの一連の動作を、半ば呆然と見送っていた。
彼は、ここに居る他の研究者と同じように真っ白な白衣を身に纏っていて、ひとつひとつの動作がひどく優雅だった。横顔には髪がかかっていて良く見えなかったが、眼鏡の奥に潜んだ瞳は澄んでいるわけにも、また濁っているようにも見えなかった。何より声の調子から云ってもこの彼は同年代くらいではないかと、968番は当たりをつけた。


「その、ボール……」
「ああ、暇だから、ちょっとリフティングをな」


調子良かったから乗ってたら、乗りすぎてこっち飛んじまってさ
良く判らない、云い訳めいた彼の云い分はともかく、その大まかな台詞は968番を大いにときめかせた。これは、ひょっとして、ひょっとするかもしれない。


「! マ、マジで!?」
「……マジですが、それが何か?」


彼は眉を顰めたが、それは怪しんでいるわけではなくて単純に968番の台詞の意味を計りかねている所為のようだった。何より、そう首を傾げ正面を向いた彼の顔は恐ろしいほど整っていて……声を聞かなければ、性別不詳だったかも知れない。思わず968番はひゅっと息を呑んだが、固まっている場合ではない。968番は逸る気持ちを押さえつけて捲し立てた。


「い、いやあの、俺もちょうど身体動かしたいな〜とか思ってて!」
「へぇ、マジで? オメー、サッカーできる?」
「え、っと、別に専門じゃねぇけど……」


期待は禁物。その言葉が今更968番に重く圧し掛かった。
彼はもしかしたら、眼鏡に白衣という究極のインテリに見えて、その実サッカーの専門研究をやっているのかもしれない。そしたらどうしよう、折角逃げ出してきたのに、俺ピンチだ!


「え? ああ、違う違う。てきとーにルール知ってて、てきとーに身体動かせるかって聞いてんの。何しろここじゃ、モヤシみたいに体力ねー奴ばっかだからな」


苦笑したように云う彼のひとことひとことに、一度どん底に落ちた968番の顔は次第に耀いていった。


「そういうことなら、俺、思いっきり相手できると思うけど!」
「そりゃ良かった。ん、じゃあ、俺のゴールは研究棟側の壁、オメーはあっちの図書館側の壁な」
「よっしゃ!」
「あ、くれぐれも硝子には気をつけろよ。もし割れたりしたら、その時点で負け決定だ」
「ん。負けたらどーする? 何かする?」
「とりあえず、その場合は相手に構わず逃げろ、が追加ルール。後でもし会えたらそん時考えよう。で、問題なくゲームができた場合だけど……罰ゲームはあった方が燃えるよな」


968番は彼のその台詞のどこかにちくりと自分の中のどこかが傷んだ気がしたけれど、一体どこにどこが傷んだのか、それは判らなかった。けれど、それよりは、とりあえず。


「おう。じゃあとりあえず、3点先取した方が勝ちってことで良い? 勝った方が罰ゲーム何でも考えよーぜ」
「良いな、ソレ。じゃあもうすぐ時報の鐘が鳴るから、それが合図な」


ニヤリと笑う彼の口許に、968番はほんとうに久々に高鳴る鼓動を感じ取った。