ここには、大まかに分けて2種類の人間が居ると聞いた。

曰く、自ら望んで来た人間と、“売られて”きた人間……それが目の澄んでいるか濁っているかの違いかなと968番は思ったが、それは必ずしも一致するというわけではなかった。つまり、売られてきたからと云って皆悲観的になって目を濁らせるわけではなかったし、自分から来たくせに、この世の地獄に来たみたいな顔をして、絶望の中で研究を惰性的につづけている者も居るということだ。
だから968番は、目の色に関して気付いた己の持論を、まだ暫くは黙っていることにした。
何にでも食いついてくるような奴らのことだ。968番が口に出したが最後、次の瞬間にはそのことに関しての心理研究チームでも組まれているに違いない。自分たちまで研究の対象にしてしまうなんてやってられない。だけどここではそれが普通なのだ。改めて、968番は背筋のぞっとする想いを味わった。
だが、それはともかくとして、968番自身に関して、彼はどちらかと云うと自ら望んで来た方だったが、別に来たくて来たわけではなかった。
変な風に運命が拗れなければ、今も968番は何の変哲も無い公立の中学校で、バスケットボールを転がしていたことだろう。そう考えると、無性にバスケットがやりたくなってきた。掌に、あのザラザラした感触が甦る。
別にここに来て、もうあの湿気臭い体育館でバスケができないことは仕方のないことだと思っているのだけれど、今ここでバスケができないことについては、別に文句を云ったって問題はないと思った。何しろここは、絶対的に娯楽がすくない。くさくさする気分はその所為だ。
少年の域を抜けていない968番の手にはまだ大きい、オレンジ色のバスケットボール。あの跳ねて自分の手に返ってくる感触と、ゴールにすぽっと入る瞬間のあの快感を、ここの者たちは知らないのだろうか? あの、コートを走り回った後の心地好い徒労感を、あの者たちは無駄な疲労とでも云うのだろうか?
……だとしたら、あまりに可哀想だ。
968番は初めて、ここの者に同情に近い気持ちを抱いた。


「やだやだ、何でインテリってのは運動を嫌うのかねぇ」


毎日毎日、試験管やコンピューターと睨めっこ。パソコンならいざ知らず、ワークステーションを実際にこの目で見たのは初めてだった。
もちろん968番は問題なくつかいこなしたが、来る日も来る日もあのバカでかい機械の前に縛り付けられて、いっそどうにかなってしまいたいと思った。しまいそう、ではなく、しまいたいのだ。いっそ、壊れてしまいたい。
でもそれができないのは、今まで普通の世界で生きてきたという確かな証拠に繋がるから、968番は彼にのこった最後の糸を絶対に切り離すものかと堪えた。
他の奴らは、嬉々としてコンピューターの前を陣取り、うっとりと陶酔するような表情で試験管を振っている。ぞっとした。目の濁っている奴らだって、やっていることは変わらない。ただ、両者の間には絶対的な表情の違いがあるというそれだけで。
あんな窓もないような真っ白な部屋で真っ白な奴らと顔を突き合わせていて、良く毎日やっていられるものだよなと968番は思った。そして、途中の思考経緯をすっ飛ばして、運動をしないからだという結論に行き着いた。運動しないから、常にどっかもの足りないような顔してるんだ。全くどいつもこいつも、どこ見てんだか判んない目しやがって。時には息抜きに運動くらいした方が良いのに。
俺は違うぞと、968番は意気込んだ。俺はちゃんと身体動かしてストレス発散させて、健康的に過ごすんだ。
しかし、意気込みとは裏腹に、身体を動かすということを知らないような奴らばかりだという歴然とした事実がある以上、ここで運動用具を探すこと自体がとても無謀なことに思えた。


「……いや待て。生物学やってるヤツだって居るよな、居るはずだよな。だったらスポーツの研究やってるのも居るかも……?」


運動用具があるか訊いてみようかな、という期待は、ものの数秒で自らが導いた反論によって覆された。
だって、研究対象にされて、ずっと運動させられたり観察されたら、ヤだし。
968番は、純粋に単純にただ身体を動かしたいのだ。且つ、背の伸びるバスケなら尚イイ。身体を動かして汗を流して、スッキリしたいだけなのだ。だがこんなことを云ったら、それはそれで心理学専門の奴らが飛びついてきそうな気が、する。


(何をするにも制約だらけ。かと云って、俺のやりたいことは何もナシ。やってらんねぇなぁ……)


やりたいことは躊躇せず、何でもやりたまえ。
ここへ来たとき、第一声で968番に放たれたその言葉に、968番は心の中で思いっきり突っ込んだ。―――どうせ、ここの利益に繋がらないことはやらせないくせに、と。
968番のやりたいことなんて、幼馴染に叩き起こされて渋々学校へ行って、教科書の影に隠れて眠って、バレるスリルを味わいながらトイレで煙草吸って、放課後は一応禁止されてる寄り道してゲーセン行ったりカラオケ行ったり……そんな日々をわがままとして想い描く日がくるなんて、968番は思いも寄らなかった。

―――だけど、そう。これは、仕方の無いことだ。

割り切ってしまえばきっとここの生活も悪くないし、耐えつづければいつか出られる日がやってくる、それは確かなことだけれど……そうやって日常に回帰したとき、自分はかつてと同じ自分で居られるのだろうか。
きっとそれはないと確信しているから、968番はいつまで経っても割り切ることができなかった。


「諦めることと、割り切ることは、きっと別物だよな」


パノラマの空に慣れた目には、きっと、ほんものの空は眩しく写ることだろう。