澄みわたっているか、濁っているか。


ここに来てからというもの、そのどちらかの目をした人間にしか会ったことがない。どちらも、人間であることを忘れさせるような目だ。
968番は、それらの気持ち悪い目が立ち並ぶ部屋から逃れるようにして抜け出すと、最近見つけた中庭へ隠れるように身を滑り込ませ、適当な木陰へと腰を下ろした。中庭と云ってもそれは屋外ではなく、彼のずっと頭上の方にある吹き抜けの天井に、空のパノラマが映し出されているだけの話だけれど。それでも、あんな息の詰まるような部屋に居るよりはずっと良い。
これで当分は見つからないはずだ。
追跡から逃れ、にせものの空の下で惰眠を貪るというのも良いかもしれない。
そう云えば、昨晩は邪魔が入ってあまり眠れなかった。968番は誰も見ていないことを良いことにふわ、と大きなあくびをひとつ落とすと、頭の裏で腕を組み、そのままの勢いでぐりんと芝生に横になった。
芝生は人工だが全く自然物と感触の変わらないそれで、匂いだってする。やわらかなみどりの匂い。みずみずしく肌に触れる葉。これをつくり出したのは、この研究所の人間だ。そう云えば先日その功績を湛えられた人物が表彰を受けていた、ような気がする。そいつは名誉の証を掲げながら誇らしげに笑っていて、ああこいつは澄みわたっている方の目をした分類のやつかと、968番はそんな感想を抱いた。だが、それだけだった。映像の中ではたくさんの人間がそいつに向かって賛辞の言葉を並べていたけれど、968番にとって、そんなことはどうでも良いことだった。
ただ自分がもしそれを成し遂げていたら、今頃自分はどうなっていただろうと……それは無駄な考えだと最初から判っていたし、それでもそんな空想を止められないのが人間だということも判っていた。だから968番は適当なところでその空想を切り上げて、そもそも植物学には興味は無いのだと論点を摩り替えた。ああ良かった、だから俺は人間だ。それは968番にこの上ない安心感を齎せた。だから、それで満足することにした。


パノラマの空は、それでもゆっくりと雲を流している。どこからか、風も吹いてきているようだった。それは優しく968番の頬を撫で付け、968番に眠るよう促した。
まるでほんものの空、かたちの変わってゆく雲、風の香り、木々の葉は擦れ、遠く鳥たちの囀り―――


ああ、それにしても―――










ここは寂しいところだよ、父さん。