帰る場所







寄せては返す波のように、君が優しく包み込んでくれるのだとしたら。




























その夜は血のように赤く染まった満月で、自分のこれからを暗示しているみたいで少し吐き気がした。
その月光が夜闇に浮き彫りにしているこの部屋は、普通の部屋であるはずなのに何故だか幻想的な空間を生み出している。
その幻想的な光を一身に浴びて、その夢のような空間で眠りつづけるのは、愛しいあの人。
本当はこんな光を浴びなくても、その高貴なる存在だけで十分に光輝いていられるのに。それでも、この光の中、その存在を赦されるのもこの人以外にはいまいとも思う。
自分はその光に吸い寄せられるように、迷い込んだ一羽の羽なき鳥。
いつもならば幸福である筈のこの時間。なのに何故か今は胸が締め付けられる。









今、己が着ているのはKIDの衣装。
真っ白な衣装の下、心に刻んだのは、父の仇を討つという揺るぎない決意。
名探偵との楽しい現場での遣り取りについつい忘れがちであったけれど、自分がKIDだなんてやっているのにはちゃんとした訳があるわけで。
そして、それには期間がある。
もう時間がないのだ。今しかない。あの組織と向かい合う時は。

―――はっきり言ってしまえば、怖い。
いつも、KIDの衣装を着てしまえばあんなにも自身に満ちた自分になるというのに。
何せ、あの父親が勝てなかった相手―――













そして、会いに来た。
悶々と考えて、色々なことを選び抜いてそして捨てていって、いつも残るのは最期かも知れないという予感。
漠然とそう感じた時、思い浮かんだのは何よりもこの人の顔だった。
笑顔と云うわけではなく、ただ、現場にいる時の凛とした立ち姿。
それだけだった。

それでも、どうしても会いたくなってしまった。
KIDとしてしか会ったことはなかったのに、どうしてか受け入れてくれた優しいひと。
いつだって、その瞳の輝きを失わない強いひと。
どうか、どうかそのままで、変わらないでいて欲しいとただ切に希う。
楽しかった日々を思い浮かべても、思い出すのはこの人の姿だけなのが不思議だった。
己は、そんなに彼と一緒にいる時間など持てなかった筈なのに。







「生きる術」として他人と必要以上に関わってこなかった日々で、自分は何も残せやしなかった。
生きる気はあるのに、まるで走馬灯のように駆け巡る思い出は沢山ある。けれど、まるでその心は虚無に近い。総て失い復讐という暗いものに支配された己の心に、まるで透き通るように入って来たあのひと。
最後に、笑顔が見てみたい、と思う。日常に溶け込んだ彼が垣間見せる、探偵の殻を脱ぎ去った彼の笑顔を己は知っている。その笑顔が――己に向けられることがないことなど、判りきっているけれど。
いつもと変わらない態度で、接してみせて欲しい。いつの間にかいる己に対して、「不法侵入」などと責めてみたりして。
―――その、至高の瞳の輝きを見せて。
そして笑ってくれたら、と思う。
だって、もし全てをやり遂げたとしても、帰る場処なんかないから。














(まあ、寝顔が見れただけでも十分、かな?)


元々、話す気はなかった。決心が揺らいでしまいそうだったから。
でも来てみて、この無防備な寝顔を見ていたら、それだけでは済まなくなってしまった。

―――けれど、それで、一体どうしようと云うのか。どうしたかったと云うのか。

もう本当に、時間がない。
最期に、一方的にだけど会えて良かったと、穏やかな寝顔を胸に刻み込んで。




(―――…参ってる、よな……)


死ぬつもりはない。
ないのに、どうしても心は生き急ぐ。
迷惑をかけてしまうことになるから、と心に嘘をついて一人で生きることを選んだ。
でもそれならいっそのこと、傷ついて、傷つけてしまえば良かったと、今になって、この期に及んでそう思う。
誰かが一言言ってくれるだけで、きっと自分は戻ってくる気になるだろう。
だけど、生きて戻ってこれたとして、俺は何処に帰ろうと言うのだろう?


帰る場所は、あると云えばある。
暖かい場所を用意して、待っててくれる人がいる。
しかし、それら全てを捨てて我が侭を叶えに行くのに、どうして帰ることが出来るだろう。
きっと、その人たちは両手を広げて迎えてくれるのだろうけど。
今もう既に、日常が酷く遠いのだ。
これからもっと非日常の中へ行くのに、また日常に帰れる自信もないし、守りきれるかどうかも判らない。寧ろ、今よりも守ることは困難になるだろう。















"出会い"と"別れ"の繰り返し。そんなものが"人生"だと言うのなら、俺は叫んで逃げてしまいたくなるよ。
そうしてこのまま この想いが消えてしまうのだとしたら、俺は本当は何を唱えればいいの?



















月の光が差し込むその窓を開けようとする。
「別れ」を決意して。
自分は今、笑えているのだろうか?
声は掛けられない、と感じた。声より先に、涙が頬を伝うから。
愛しい人よ。俺はその笑顔を見れて、倖せでした。
さようなら……―――――――












「――――…KID?」


その時、かけられた声にKIDはハッとした。
そんな、まさか……
どうしようもなく胸が高鳴る。
恐る恐る振り向くと、青き光が自分をしっかりと見つめていた。















「………お目覚めですか、名探偵?」


平静を装うのは、何時にも増して大変だった。









ああだって、その瞳は変わらずに、総てを射抜いてくるようだったから。




続く。