「無様ね」 |
空は高く、どこまでも蒼く煌めいていて、けれどこの家の空気はその光も届かずにどんよりと冥く淀んでいる。 その中に、灰原の声は不思議と良く響き渡った。まるでそれは部屋を支配する空気を切り裂き、透き通るように深く、鋭く。 その声に常にもなく驚いた俺は、確かに無様だ。 「……何か用か?」 「空気が違うのよ」 「は?」 「あなたが暇を持て余し出した数日前―――それまでは、ここの空気は確かに綺麗だったわ」 「……何が云いたい」 「たった独り、足を踏み入れないだけでこんなにも変わってしまうものかしら?」 「……」 単に、貴方が空気を入れ換えたりしない物臭だということも云えるわね。 そう、悪戯っぽく笑う灰原の顔は、決して明るいものではない。まるでその笑いが嘲笑のようだと思ったのは、俺の荒みきった心故だろうか。 「……別に、何も」 「何?」 「何も、変わってなんかない」 何だかしつこいヤツが居て、破滅していっただけの話だ。 何を期待していたのか、そんなことは判りすぎるほどに判っていた。そんな輩を嫌と云うほど見てきたから。 けれど、コイツは今までのヤツとは違いそうだということもまた、判っていた。もちろん、陽の光の下で出会ったのが、初対面ではないということも。 それでも俺は態度を変えることはしなかった。 だから俺の生活は、何も変わってなどいない。 「そう……」 「ああ」 「けれど、今の貴方の顔は明らかに違うわよ」 「カオ?」 「と云うよりは表情、かしら」 「表情……」 「何だか、色んなものがごっそり抜け落ちているのは変わらないのだけど、暗いわ」 「珍しいな」 「何?」 「お前がそんな抽象的な言葉使うなんて、よっぽどだ」 そう、よっぽど、今の己の顔は酷いと云うのだろう。 ……理由など、云わずとも知れている。 「自覚、あるの?」 「さぁな」 もう総ては遅いんだよ、灰原。遅すぎるんだ。 お前が何を云ったところで、何も変わりはしない。だって始めから、変化などある筈もなかったんだから。 「貴方、演技は上手の筈よね」 「何のことだ?」 「どうして素直になれないの?」 「…………」 「ポーカーフェイスも忘れるくらい、狼狽えているのに」 「……何のことだか」 「逃げるの?」 灰原の言葉は真っ直ぐに俺に切り込む。その鋭さに、俺の心は悲鳴を上げた。 ―――どうして。 そんなことで痛む心など、疾うに捨ててしまった筈だろう? 「独りは辛いわ、工藤君」 そう、辛い。けれど決めたのだから。 もう誰も、俺の中に踏み込ませやしないと。そうすることで、総てを守るために。 「けれど、独りで居ることは、決して強さじゃないわよ」 「―――止めてくれ」 「工藤君?」 「もう止めてくれ。俺の中を暴かないでくれ……!」 気付いていたよ。 アイツが、誰も踏み込ませないようにした中に、あっさり入ってきたことも。そしてそれが、ひどく心地好かったことも。心が歓喜に震えて、それが怖くもあったことも、総て気付いていた。 けれど、気付かないフリをして、心に傷を与えつづけていた。その甘美な毒に酔いしれていた。 ―――総ては、守りたかったから。 受け入れるつもりはなかったけれど、俺は確かに其処で癒されていたんだよ―――快斗。 「……私も、あの空気は気に入っていたのよ。だから云うわ」 「灰原……?」 「貴方に害を及ぼす、若しくは、自分の身も守れない者なら、貴方が遠ざけるのも判るわ。止めやしない」 「だったら……」 「けれど、それで貴方自身が傷ついてどうするの」 「……別に、傷ついてなんか」 「ついてるわよ。感情表現が苦手な人間程、どうして良いのか判らないとき、無表情になるものだわ」 私もそうだもの。 そう寂しげに呟いた灰原の表情は、声音に反して決して暗くはない。 決して貴方は何も感じない人形じゃないのよ。人間なのよ。だから、独りで何もかも背負って、倖せを逃すことはないのよ。 「ッ……だって、今さら、どうしたら……」 「―――会いに行けば、良いじゃない」 「会いに……」 「貴方のことよ。いつだって、自分から迎えに行ったことはないのでしょう?」 「う……」 「本当に欲しいものはね、工藤君。守っているだけじゃ、決して手に入らないのよ」 「ああ……。でも……」 「でもも何もないわよ。私、彼にこの前飲ませてもらったお茶のレシピ、教えてもらってないの」 「は?」 「それから、レモンパイもつくるんだって張り切っていたのよ」 「レ、レモンパイ……?」 「楽しみにしてたのに」 「え、あの……」 「お邪魔するのはどうかとも思うのだけど、彼と三人で居る、あの穏やかな空気が心地良いの」 「あ、ああ……」 「けど、どうして私がそんなことを云わなくちゃいけないのよ」 「は?」 「何で私にこんなことを云わせるの」 貴方と一緒よ。欲しいものを素直に欲しいって云えないの。 隠して隠して、もう繕うことも無理になって、疲れきった頃、そうして癒される空気に啼いてしまうんだわ。 ―――貴方も、一緒でしょう? 自分で決めたことに意固地になって総てを拒絶して、けれどたったひとつ、捨てきれなかったから中途半端なままで苦しんでいたんでしょう? そうして傷つけることを判っていながら。傷つくことが判っていながら。 無様で、そして不器用だわ。 そうして、そんな貴方だから皆愛しいの。 灰原の言葉が何処までも痛かった。痛くて痛くて、そして優しかった。 俺がずっと守っていたかったものは、俺自身の心だ。期待をして傷つくのを恐れすぎて、俺は血が噴出す傷口を癒す術も知らずにいる。 癒す術を持つのが、たった独りだということに疾うに気付いていながら。 「……あら、工藤君」 「え?」 「貴方、今とても穏やかな顔をしているわよ」 「え……」 「というよりは、優しい表情ね」 「優しい……」 「まあ、そんなことに気付かないで一方通行だと思い込んでいた相手にも問題はあるかしら」 何だか云うことが一貫してない灰原の言葉に、しかし、共通していたのは俺に対する優しさだった。 「……俺、灰原にも笑っていて欲しいと思うよ」 「…………」 「灰原にだって、そんな表情が似合う」 「……貴方も負けず劣らず気障よね」 「だから、灰原の笑顔と、俺の心守るために、ちょっと行ってくる」 「あくまでも守ることに徹するのね……」 「そうそうスタンス変えられるかよ」 無意識だったけれど、自然と微笑んだ表情に俺自身驚愕した。 そんな俺の表情の変化に灰原も驚いていたけれど、一瞬の後に、俺が似合うと云った笑顔で笑っていた。 大丈夫だ、灰原。俺は今度こそ守ってみせるよ。 快斗だって、大概不器用だ。 俺は何もアイツに興味がなかったわけじゃない。キッドだからどうのこうの云うんじゃない。ただ、快斗の居る、彼のつくり出す空気があまりにも穏やかだったので戸惑っていただけ。 そう、感情表現が苦手な人間ほど、そういうときは無表情になるものだ。 人形のフリをしていたのは確かだから、勘違いするもの無理はないけれど。 まずは、罵倒してやろう、と考えた。 俺のことを、感情を映し出さない人形だと思っているだろうから、きっと灰原以上に驚いてくれるだろう。 けれど、その後、きっと泣き笑いのような表情をして、笑ってくれる。―――癒してくれる。 俺は久しぶりに、近く訪れるであろう未来に期待を込めて、楽しい気分でカウントダウンを告げる道を駆けた。 この先には―――俺に、笑顔をくれるものが待っていてくれる。 罵倒して、アイツが勘違いを謝ったら云ってやろう。 「好きなんだ」と。 |
3年越しに続編を書いてみたので、どうつづけたかったのかも不明で四苦八苦。 結局繋がってない。ような…… |